第9話 契約妻マリアの動揺
わたしは今、リーディアの寝かしつけが終わり、夕食のために食堂に向かっていた。
『あのね、パパに聞いたんだけどね、パパはママのこと大好きだって言ってたよ。ママ、嬉しい?』
(大好き……大好き!?)
一体どういうことだろうか。
わたしの知る伯爵様は、女性恐怖症で、若い女性が苦手で、一時はノイローゼになっていた可哀想な男性だ。サラサラの銀髪と紫色の瞳が神秘的な、涼やかな目元の美形さんである。
まかり間違っても、わたしのような凡人を「大好き」になるような存在ではないはず。
しかし、リーディアは嘘を言うような子ではない。
(い、いえ、きっと何かの間違いよ。そうよ、わたしの言った『好き』だって、きっと違った意味で伝わっているだろうし……)
『パパは、ママが特別パパを好きにならないとダメなんだって言うの。落とす前に、そういう準備もするみたい』
(……これ、何をどう取り違えたらこんな内容になるの? だいたい準備って何!? その先があるのー!?)
どんどん上がっていく体温に、わたしは慌てて頰に手を当てる。
「熱い!」
「奥様。冷やしタオルでございます」
「準備がいいわね!? さすがは伯爵家の侍女……!」
わたし付きの侍女マーサ(52歳)は、何も言わずに冷やしタオルを差し出してくれた。
わたしはそれを受け取り、必死に頰を冷やす。
マーサは、そんなわたしを見ながら、目を逸らし、プルプル震える手を自分でつねっていた。
本日、リーディアの暴露話を聞いてから、わたしはずっと、知らず知らずのうちに百面相をしている。だから、マーサはもう、ずっとずっとずっと笑いを堪えている。しかし、わたしはそんなマーサの健気な努力には気がついていない。無体な主人である。
「これで大丈夫かしら……でも、やっぱり……今日は夕食は自室で」
「大丈夫でございますよ。さあさあ参りましょう」
「えぇ……? わ、分かったわ、マーサ……」
引き返そうとするわたしは、マーサと他の侍女達にそれとなく止められて、食堂へ追いやられてしまった。
侍女達が何故か、全員で廊下いっぱいに広がって、わたしが自室に帰れないように人間バリケードを作っているのだ。伯爵家の侍女達は、いつも廊下の端を楚々と歩くハイレベルな教養の持ち主なのに、何故……。
わたしが食堂に入ると、リキュール伯爵は嬉しそうに目を細め、ふわりと微笑んだ。
わたしは、ようやく気がついた。
(伯爵様は、他の女性には笑いかけない。もしかして……わ、わたしに、だけ……?)
ブワッと赤くなったわたしに、リキュール伯爵は驚いたようで、目を丸くしている。
「マリア?」
「えっ、あっ、いえ! なんでも! なんでもありません! お待たせしましたっ」
どうしよう、なんだか体が上手く動かない。
わたしは、手と足を同じ方を出しながら、ギクシャクと歩いて自分の席に座る。
(だめよだめだめだめだめ。伯爵様は、きっと女らしさがないからこそ、安心してわたしに接しているのよ。わたしがそんな、こんなふうに意識するなんて、絶対にダメよ……!)
ドッドッと大きな音を立てている心臓に手を当て、一度目を閉じた後、わたしはキッとリキュール伯爵を見る。
リキュール伯爵は、不思議そうな顔をしてわたしを見ていた。分からないことがあるときのリーディアにそっくりな表情である。
「マリア、どうかしたか? 今日は何かあったんだろうか」
「いえ、何も! 無事! 平穏な日々でした!」
「……そうか?」
「はい!」
「なら、いいのだが」
「はい!!」
ブンブンと頭を縦に振るわたしに、リキュール伯爵は驚いている。
しかし、そこから先を、何も聞かないでいてくれた。
こういう小さなところで、彼は本当に優しいのだ……。
女性が苦手だったはずなのに、会った時からお優しかったし、契約結婚が決まった後もずっとわたしのことを気遣ってくれて、毎日何かあれば報告するように言ってくれたのも、伯爵様からで……。
(どうしよう。どうしたのかしら。なんだか、伯爵様のいいところばかりが思い浮かぶわ……)
急に始まってしまった脳裏に浮かぶ伯爵様の素敵なシーンハイライトに、わたしはどんどん体がポカポカしていくのを感じる。
頰に手を当てた。
「熱い!」
「ど、どうしたマリア。やはり体調が悪いのではないか?」
「ち、違います! ええと、体調は……でも、ええと……」
「……いや、無理をするのはよくない。おそらく熱があるんだろう、一人で立てるか?」
リキュール伯爵が、とうとう席を立ってわたしの側まで来てしまった!
本当に心配そうな顔をして、私の顔を覗き込んでいる。美しい御尊顔が、至近距離に!
「ちちち違うんです、あの、その、リーディアが! は、伯爵様が、わたしのことを大好きー! だなんて言うから、ちょっと、びっくりしちゃって、あはは……」
頭が真っ白になるくらい慌てると、人は真実を口にしてしまうらしい。
ハッと気がついた時には、何故わたしが慌てているのか全て暴露してしまっていた。
そしてわたしは、唖然とした。
目の前の伯爵様が、固まったまま、頰を真っ赤に染めている。
じわじわ赤みを増していって、最終的に耳まで赤くなってしまった。
それを見て、わたしは理解した。
リーディアはわたしに、まごうことなき真実を伝えてくれていたのだ。
結局、絶賛大火傷中ではあるけれども!
「あ、の……」
「……っ、す、すまない。そ、れは……驚く、な……」
「……はい…………」
「……」
「……」
わたしは席に座ったまま、リキュール伯爵は私の席の隣に立ったまま、床を見つめて黙り込む。
心臓の鼓動が怖いぐらいに早い。なんだかこの場から逃げ出したいような気がするのに、上手く体が動かない。
永遠とも思える時間が過ぎた後、リキュール伯爵が、ポツリとつぶやいた。
「今日は、自室で食べようか」
「はい」
「この話は、また、後日にしていいだろうか……」
「……はい」
そこからのことは、あまりよく覚えていない。
気がつくと、自室でマーサに湯上がりの髪を乾かされていた。
「あ、あれ? わたし、もう湯浴みをすませたの?」
「はい。先ほどしっかりと」
「そ、そう」
侍女達に手入れをされている鏡の中の自分をぼんやり見ながら、わたしはポツリと呟く。
「……ぜんぜん、釣り合わないのに」
「奥様?」
「わたし、すごく平凡で。このお屋敷には、ふさわしくなくて、だから、その……」
マイルドな茶髪に蜂蜜色の瞳。鼻ぺちゃではないものの、どこにでもいそうな平凡な顔立ち。
先ほどまで見ていたリキュール伯爵とは、全然違う。
可愛いリーディアとも、比べものにならない。
そうして落ち込むわたしに、マーサは嬉しそうにクスリと笑った。
わたしは、不思議に思って、鏡の中のマーサを見つめる。
「奥様は、旦那様のお気持ちが嬉しくていらっしゃるのですね」
「えっ!?」
「だから、釣り合うかどうかを考えてしまわれるのでしょう? マーサは、お二人はとてもお似合いだと思いますけれどね」
真っ赤になって涙目で震えているわたしに、マーサは優しい笑顔を返した。
そして、わたしの身支度が終わり、わたしをベッドの中に入れると、「おやすみなさいませ、奥様」とだけ言って、侍女達と共に去っていった。
ベッドの上に取り残されたわたしは、赤くなったり白くなったりして忙しかった。
(わたし、本当にどうしちゃったの!? 結婚とか、恋とか……考えてなかったのに……)
わたしはなんとなく、この契約結婚が終わったら、自分はもう二度と結婚しないんだろうなと思っていた。
一時的なお飾りの妻ならともかく、貴族夫人としては、自分は異質な存在となるだろうから――。
『――パパはママのこと大好きだって言ってたよ。ママ、嬉しい?』
可愛い声を思い出し、ブワッと体温が上がってしまう。
(……わたしは多分、よく分からないけれど……すごく、……嬉しいんだわ……)
どうやら、スナイパーの言葉は、わたしの心臓のど真ん中を撃ち抜いてしまったらしい。
そして、よく食べよく寝る健康優良児であることだけが自慢のわたしは、その日初めて、夜にろくに眠ることができないという経験をしたのだった。
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