第2話 リキュール伯爵家の1日
契約結婚から二ヶ月。
わたしは毎朝、六時には起きる。
日の出とともに起きているので、季節によっては五時になることもままある。
隣には可愛い義娘リーディア。
リーディアの強い希望により、一ヶ月間という期限付きで、わたしとリーディアは一緒に寝ているのだ。
スヤスヤと可愛い寝息を立てている彼女を起こさないよう、ゆっくりと寝台を出る。
顔を洗い、身支度を整え、そうしてわたしは朝の散歩に出かけるのだ。
(マティーニ男爵家では、村の人の畑を手伝っていたから、なんだか起きちゃうのよね)
朝の散歩ですることは、日によってまちまちだ。
庭師のおじさんの手伝いをするのがメインだが、馬の手入れを手伝わせてもらったり、調理場の材料を運んだり、色々とやらせてもらっている。わたしは男爵令嬢として小さい頃から働いて生きてきたので、何もしない方がソワソワするのだ。リキュール伯爵家のみなさんは、こんなふうにちょこちょこ顔を出すわたしにとても優しくて、迷惑がらずに指示を出してくれるのでとてもありがたい。
~✿~✿~✿~
七時二十分ごろになると、わたしは慌てて自室――ではなかった、リーディアの寝室に戻る。
このぐらいの時間になると、リーディアの乳母アリスが出勤し、リーディアの寝室に繋がる部屋で、着替えを用意して待機していてくれる。朝早くから来てくれて、本当にありがたい。
「起きてないわよね?」
「大丈夫です」
乳母アリスと小声でやり取りをしながら、わたしはそっと寝室に戻る。
そして、リーディアが寝ている横の椅子に座り、読書を開始するのだ。
朝の散歩に行っていたことは、重要機密事項だ。朝から「リーも行きたかった!」と騒がれてはいけない。極秘である。
「ん……マ、マ……?」
「おはよう、リーディア」
「おは……ょ……」
そのまま眠りに戻っていくリーディアに、わたしはクスクス笑う。
「リー、だめよ。ちゃんと起きないと。もう七時半よ」
「……起きてる」
「リーがちゃんと起きてこないと、朝ごはんの間、一緒にいてあげられないなぁ」
「だめ!」
リーディアはガバっと起き上がり、ベッドから飛び出してくると、椅子に座っている私の膝にしがみついた。
「一緒にいる! じゃないと朝ご飯食べないもん!」
「ならちゃんと、起きてこないとね。お姉さんだもんね」
「そうよ! 着替えるから。いなくなったらダメだからね。ちゃんとここにいてね。アリスー!」
ポワポワになった銀糸を振り乱し、大きな紫色の瞳をパッチパチ瞬きながら、リーディアは隣の部屋の乳母アリスのところへ走って行った。
~✿~✿~✿~
八時、子ども部屋にて、リーディアは朝ごはんを食べる。
その横で、わたしは紅茶を飲みながら、リーディアとお喋りをしていた。
「ほら、リー。好き嫌いはだめよ」
「人参嫌い……」
「早くお姉さんになりたいんでしょう?」
「……」
「仕方ない子ねぇ」
わたしは、手が止まっているリーディアのフォークを受け取る。
そのフォークで人参を刺して、「はい、アーン」と口元に差し出した。
リーディアは、「ママがアーンするなら仕方ないの……」と言いつつ、泣きながら人参を食べていた。待って、泣くほど嫌いなの!?
~✿~✿~✿~
八時半。
リーディアの食事が終わるので、今度はわたしが朝食を摂るために、リキュール伯爵家の食卓へ向かう。
そこにはなぜか、リカルド=リキュール伯爵が待っている。
そう。本当に、
「おはようございます、伯爵様」
「おはよう、マリア」
サラサラの銀糸が朝から眩しい。紫色の瞳がすっと優しげに細まって、美人の微笑みに、わたしは仄かにドキドキしてしまう。
伯爵様はあまり笑うことがない。特に、女性には微笑みかけない。
けれども、わたしを見かけると、なぜか
(とても気遣ってくださっている……この数ヶ月の平穏を、とても喜んでいらっしゃるのね。わたしという隠れ蓑に、心から感謝してくださっているんだわ)
「伯爵様。毎日お待ちいただかなくても大丈夫ですよ」
「いい。私が勝手にやっていることだ」
「ですが、わたしの顔が見えない方が、心安らかにお食事が摂れるでしょうに……」
(伯爵様は、女性が苦手なんですもの。こんなふうにスカートを履いた存在が目の前にいるのは、きっと苦痛でいらっしゃるはず……)
わたしが不思議そうにしていると、リキュール伯爵は、目を彷徨わせながら、「……無理はしていない」とポツリと呟いた。
「まあそれならいいのですが」
「そ、そうか。よかった。ところで、変わりはないか」
「はい。楽しく過ごしています。リーディアも毎日とても元気で可愛いです」
「そうか。何か必要なものがあったら、なんでも言ってくれ」
「ありがとうございます」
リキュール伯爵は、日々の暮らしについて聞いてくれる。
なので、わたしは、楽しく過ごしていることを報告した。
一日に一回、不便がないか、状況を報告すること。
これは、契約結婚の時に決めた、約束ごとである。
……別に朝食を共にしながら報告する必要はないのだけれども、最近は何故だか、朝食を摂りながらこの話をすることが多い。
「リキュール伯爵も、何か助けが必要ならおっしゃってくださいね」
ニコニコ笑っているわたしに、リキュール伯爵は、目を見開いた後、頰をほんのり染め、小さく頷いた。
~✿~✿~✿~
「パパー!」
「おはよう、リーディア」
朝食が終わると、リキュール伯爵はリーディアに朝の挨拶をする。
二人は本当に仲の良い親子だ。「昨日も最高にいい子だったと聞いている。今日もいい子にしてるんだぞ」というリキュール伯爵に抱き上げられながら、リーディアは「えっへん! 任せて!」と胸を張っている。美形の腕の中にいる可愛い美少女が胸を張っている。可愛くて美しくて、平凡なわたしは毎日、目が潰れそうである。
~✿~✿~✿~
日中は、わたしは本を読んだり、庭いじりを手伝ったり、厨房を借りて料理をさせてもらったり、なによりリーディアと遊びながら過ごす。
リーディアは、いつも子ども部屋で一人だった。
貴族の子ども部屋には普通、多くの子どもがいるものだ。貴族は子沢山の家が多く、当主の家に子どもがいなくても、親族の子を含めると相当な数になる。
しかし、リーディアは一人娘であり、親族もいない。
そして彼女は、リキュール伯爵家のたった一人の後継であり、高位治癒魔法師を生むことのできる貴重な存在だ。妙な輩を近づける訳にはいかないので、その辺の子どもを集めて子ども部屋に入れる訳にはいかない。かといって、他の家系の貴族の子をリキュール伯爵領にずっと滞在させることも難しい。
一時は、乳母アリスの娘であるオレリアが子ども部屋に通っていたが、リーディアが乳母アリスを取られたくなくて、オレリアに嫉妬するので、オレリアが通うことはなくなった。
そういう経緯もあり、リーディアはいつも一人だった。
なので、いつも自分と過ごしてくれる
「ママ! お人形遊びしましょ!」
「ママー! 次はボール遊びがいい」
「ママ、何読んでるの? リーにも読んでほしい!」
「ママの飲んでるやつ、リーも飲みたい! 真っ黒いやつ!」
「ママー!!」
こうして、わたしの日中は、追跡魔人リーディアとの時間で占められるのだ。
~✿~✿~✿~
十六時になると、乳母アリスは仕事上がりだ。彼女は自分の家の夕飯を作るために帰らなければならない。
そして乳母アリスがいなくなり、侍女が交代しても、ずっと家にいる
~✿~✿~✿~
十八時。
リーディアに夕ご飯を食べさせる。
再び出てきた人参に、リーディアは悲壮な顔をしていた。
あまりに気の毒だったので、しばらくは人参はすりつぶして何かに混ぜるよう、シェフにお願いしておいた。
~✿~✿~✿~
十九時。
リーディアの就寝準備。
早いときは、このぐらいの時間に、リキュール伯爵が帰ってくる。
「リーディア、ただいま」
「パパー! お帰りなさい!」
「うん。今日も楽しかったみたいだね」
「そうなの! 沢山遊んだのー!」
「そうか」
またしても美人が美少女を抱き上げている。
わたしが手を合わせて二人を拝んでいると、リキュール伯爵がこちらを向いた。
「マリア、ただいま」
「伯爵様、お帰りなさいませ」
嬉しそうに微笑むリキュール伯爵に、何故かリーディアも嬉しそうにしていた。
~✿~✿~✿~
二十時。
「まだ眠くない!」というリーディアを寝かしつけ、わたしは夕食を摂るため、食堂に向かう。
そこにはリキュール伯爵が待っていて、私を見ると儚く微笑んだ。
「マリア、ご苦労様」
「伯爵様。……お仕事でお疲れでしょうに、待ってくださらなくてよかったんですよ?」
「私が勝手にしたことだ。今日は寝かしつけに時間がかかったようだな。マリアの方こそ大変だったろう」
「はい、疲れました……今日はお昼寝が少し遅めだったから、目が冴えていたみたいです」
「ハハハ。君も疲れることがあるんだな」
「もう、それはそうですよ。でも、もしかしたら伯爵様より体力はあるかもしれませんね」
ムン、と握り拳を見せたわたしに、リキュール伯爵は珍しく声を出して笑っている。
「君は、出会ったときからそうだった」
「ふふ。あまり貴族らしくないでしょう?」
「いいと思う」
「ありがとうございます」
そう言うと、わたしとリキュール伯爵は夕食を摂った。
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二十一時。
最近、就寝前に、リキュール伯爵は必ずわたしの部屋までやってきて、夜の挨拶をする。
「マリア。起きてるか?」
「はい」
彼の声がすると、わたしは必ず、厚手のガウンを羽織って、自分の体のラインが見えないように気をつける。
彼は女性に迫られてノイローゼになったのだ。
わたしがここで女性らしさを意識させてしまっては、リキュール伯爵の精神状態を守るための隠れ蓑失格である。
(ガウンを取ったとしても、わたしに女性らしさがあるかどうかは、謎だけどねー!?)
「こんばんは、伯爵様」
「こんばんは」
「今日も夜の挨拶ですか?」
「……ああ、そうだ」
「……?」
最近のリキュール伯爵は、なんだか煮え切らない態度のことが多い。
「おやすみ、マリア。今日も一日ありがとう」
「おやすみなさい、伯爵様。今日も一日お疲れ様でした」
こうして、わたし達は笑顔で挨拶をすませ、それぞれの寝室で就寝した。
これがリキュール伯爵家の一日である。
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