私の移動

@DojoKota

第1話

「罪悪感のメタモルフォーゼ」という言葉をつぶやいている人がいたら多少興味が湧くかもしれないが、私自身の視点においてそれは、私自身であり、私は私自身に興味を持つことは持つけれども、これまでの経験上それは、数時間とか数日間とかそのくらいの期間持続的に抱く自分自身への興味なので、ふとしたはずみに予期せぬ言葉を吐いた自分自身に刹那的な興味なんて湧くわけはないのだ。

罪悪感って特にない。今は特にない。今は特にないけど、昔は罪悪感ってものがどういう感覚かよくわかっていて、罪悪感を持ちたいなって思った時に、すぐに、心の中でなのか何処でなのかわからないけれど、形作ることができたよな、って珈琲を淹れながら私は考えたんだ。

台所に立つ私は裸足で、ガスコンロは燃えていて、それ以外はみんな真っ暗で、薬罐は炎に炙られて急激に熱くなっていっていて、けれど注ぎ口からしゅうしゅうという息の漏れる音はしていなかった。あと、陶器のコップを食器棚から取り出したところだった。

で、私は考えていたのだ。罪悪感は今はない。罪悪感という感情が一体なんであるのか、今はまるでよくわからない。けれど、昔は、よく感じていたわけで、昔あったものが今はない、なんてことは奇妙なことで、実は罪悪感は形を変えて罪悪感ではない別の何かとして私の身近に潜み続けているのではないか、それは何か、などと考えていたのだろうと思う。なので、呟いたのであった罪悪感のメタモルフォーゼ。

私は思うのであった。だからなんやねん。

罪悪感のメタモルフォーゼは口から言葉として出てくるのに、だからなんやねん、は口から言葉として出てこない。考えてみたら、私の、だからなんやねん、の99・99パーセントくらいは、私の心の中だけで思われる、だからなんやねん、であり、おそらく実際に発話される、だからなんやねん、ってめちゃくちゃ、稀なのであろう。などと思った。

「だからなん」と私は呟いた。

たまには、だからなんやねん、を口から言葉として出してみようかなあ、と思ったのであった。けど、途中でやめた。しかし、たまには、口から言葉として出してみようかなあ、と思ったことに対してさえ、内心、だからなんやねん、と思っている私であるし、一方で、同時に、それを途中で辞めたことに対しても、だからなんやねん、と思っていることが感じられた。

気がついたら珈琲ができていたので、珈琲の入ったコップを持ちながら、家を出るのであった。私は夜道を歩くのであった。

夜道夜道夜道。特に用事があったり、行く宛があるわけでもない。だから、ただ、夜道夜道夜道。と無意味に夜道を夜道で表現する。私の主観において、ただ、暗い場所を、星とか虫の鳴き声とかを無作為に意識しつつ移動しているだけのことだ。幹線道路を走る車の走行音もずっと続いている。どんどん近づいていく。一方、虫の鳴き声はずっと同じような音量であるけれども、たまにその音に近づいたりする。音にはいくらでも近づけるが、音にぶつからないのは不思議である。しかし、音にはぶつからないものである。

夜道を歩く時は、熱々の珈琲を持って歩くことにしている。そうすると、真っ暗な状況でも、誰かとすれ違う際、私とすれ違う相手は、私の持ち歩く珈琲の香りから、それとなく私の存在を知ることができる。便利だ。香水でもいいかもしれない。けれど、珈琲の方がなんとなく夜に反抗している感じがあるからである。私はいつも、たった今、人生でおそらく初めて行ったであろう自発的行為を、もっともらしく理屈づける癖がある。

別に、いつもいつもいつも夜道を歩いているわけではない。いつもは、だいたい寝ている。夜というのは暗いのだ。電気を消せば真っ暗だ。

なぜ、音にはぶつからないんだろう、私は考える。

目を閉じて歩き回っていると、電信柱にぶつかることがある。それと同じように、こうして歩いていて、音にぶつからないのはなぜなんだろう。

そうか、と私はおもう。そうか、音は波だから、ぶつかれないんだ。

だって、波は波だから、ぶつからないんだ、と私は思う。

一方で、電信柱は波じゃない。波じゃないからぶつからないのだ。

いや、なんか違う気がする。

だって、液体にはぶつかることができる。

でも、波打つ液体の波にはぶつかることができない。

だから、サーフィンとかできるのだろう。波は、ぶつかるものではなくって、乗っかったりするものなのだ。

そんなことを、たぶん考えていたのだと思う。けれど、私の音は波だからぶつかれない、という考えに対する、私の熱も気がついたら冷めている。

考えることがなくなって、思うこともなくなって、なんとなくただ歩いている。やることがないから、一気に、冷め切った珈琲を啜る。冷め切ったと表現したけれども、実はちょっとぬるい。

別に、熱々の珈琲が本当に冷たくなるほど、夜道は冷たくないし、本当に冷たくなるほど、長い時間歩いているわけじゃないのだ。せいぜい、五分くらいだ。たった今、近所の公園を通り過ぎる。ということは、たぶん、五分くらいだ。

珈琲を飲み終えた後の私と珈琲を飲み終える前の私とでは、何かがパワーアップし、何かを失っているはずだ。失ったものはなんだろうか。思いつかない。しかし、それもそのはずである。

「何かがパワーアップし、何かを失っている時には、何を失ったのか自覚できないものだから」と私は呟いた。要点のみを言ったつもりだけど、台詞としてはやや長く、呟きながら、ああ、なんだか長い台詞を呟いているな、ああ、なんとなく恥ずかしい気がするし、恥ずかしくない気もするな、と思った。

しかし、概ねその通りなのだろう、的なことを私は、正直、別に概ねその通りかどうか一概に言えないし、という感じに、概ねVS一概にという二つの同じ「概」の字による対立図式を描くような気持ちでもあるんだ。

気が付くと、バス停だった。

私はしばらくバスを待ち続けた。

けれど、こんな夜更けにバスは来ない。

来るのはお日様の方が先だろう。

私にはなんにもなかった。何にもないということがよくわかった。バスを待っている間、ずっと何一つ、事件は起こらなかった。

バスがやってくるほど長時間、ずっと待ち続けているなんて、ただなんとなく、気の迷いで、ふらっと夜道を歩き出しただけの、気分屋の私に、できるはずがなかった。秋の木の葉が舞い落ちるように私は気分屋なのだ。

私はその昔、カマキリに「欲しい」という言葉を教えたことがある。カマキリのことをもっと、知りたかったからだ。そうしたら、カマキリは、時折だけれども、私が教えた「欲しい」という言葉を、その両手を振り回すことで伝えてくれた。カマキリが空中に「欲しい」と書くのだ。わざわざ漢字混じりに書く数が多いのに。私は、カマキリが何が欲しくて、いつ欲しくていつ欲しくないのか、が色々わかった。なぜ欲しいとか、どういう時欲しいとかまではよくわかんなかった。また、「欲しい」という言葉だけでは、何を指し示して「欲しい」なのかが、私の推量に委ねなられた。私がみている前で、蝶々が飛んでいて、カマキリが「欲しい」と伝えてくる。その時、私は、たぶんカマキリは蝶々が欲しいのだろう、と推測する。けれど、カマキリの周囲には蝶々以外にも色々と蠢いている。カマキリは、私が欲しいのかもしれない。あるいは、空を流れる雲とか、空に昇っている太陽とか、太陽の向こうの銀河系丸ごと欲しがっているかもしれない。

そんなことが昔あって、そんなことを昔考えた。

言葉一つだけをある生き物に与えるというのは、大変なことなんだ。私は、私自身の体験に基づき、実感を持ってそう言える。

私は、今、どこにいるのかわからなくなった。

思い出そうと思えば思い出せるけれど、思い出す気はなかった。

なんとなく歩いていたはずだった。あたりは暗いからたぶん、夜のはずだった。地面があって重力があるので地上のはずだった。そして、歩いていて、立ち止まって、ちょっとしたでこぼこに座り込んでいるのだった。




(書いている側としてはキリがないからここでやめた。)

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