登避行
@mlosic
第1話 誘拐
こめかみから冷たい鉄の感触が伝わってくる。
突然、ガタンと大きく体が揺れた。
窓からは、ポツポツと点在する木が生えた緩やかな崖と、それを阻むガードレールが見える。
対向車が来ても避けられないほど幅の狭いこの山道は、日がすっかり落ちていることもあって、不気味さで装飾されていた。
ここはどこだろう。
私は今、知らない男の人が運転する車の助手席に座り、いわゆる人質というものになっていた。
運転しながらもその人は、不規則な間隔でことあるごとに拳銃を突きつけてくる。
「あの、逃げるつもりはないので、それやめてもらえませんか」
「念のためだ」こちらに目もくれず、前を見据えて言う。
「運転しながらだと、危ないと思いますので」
「……お前、なんか余裕に見えるんだけど気のせいか」
「確かに最初はちょっと驚きましたけど」
人質になってから数時間経っていたこともあり、私はこの状況に慣れつつあった。
「そんなことよりもこれ、どこに向かってるんですか」
「直に着く」
男の身なりはお世辞にもキレイとは言えなかった。髭と髪はボサボサに生えていて手入れされていない。
そして汚れた無地のシャツとボロボロのズボンを着ている。
私はバレないようにそのまま男の顔を盗み見る。年齢は三十歳前半くらいだろうか。肌は焼けて少し黒かった。
ちゃんとお手入れしたらカッコよさそうなのになと考えていると、私が見ていたことに気づいて彼は「なんだよ」と言ってきた。
「アカリといいます」
「は?」
私の突然の自己紹介に、男は素っ頓狂な声を出した。まさか急に名乗ってくるとは思わなかったのだろう。
「私の名前です」
「だから、なんで」
「なんとなくです」
「なんとなくってお前……」
「それで、あなたのお名前は?」
「言う必要ねーだろ」
「誰に殺されるかくらい知っておきたいのですが」
「殺すつもりはねー」男は鼻で笑って、すぐに否定した。
ガタンっと再び車が揺れる。
「ほら、危ないですよ」
私がそう言うと男は舌打ちをして拳銃を下ろした。
「お名前は?」
「……東」
断っても無駄だと思ったのか、観念したように小さくため息を漏らして名乗った。
「あずまさんですか、あの」
「今度はなんだ」
少し苛立った様子であずまさんが答える。
「親に連絡してもいいですか?」
「いいわけねーだろ」
「でも、心配させちゃうので、友達の家に泊まるってだけ言っておきたいんですが」
私がそう言うと、数秒の沈黙が訪れた。
「……分かった。ただし、余計なことは言うなよ」
「はい」
私は彼から了承を得ると、ポケットからスマホを取り出してメッセージを作成する。二十秒ほどかけて送る内容を打ち込んだ私は、画面を彼のほうに向けた。
「これなら大丈夫ですか?」
「お、おう」少し戸惑ったように言う。
「ありがとうございます。送信しました」
「……お前、律儀だな」
「何がですか?」
「……いや」
「……」
あずまさんのその言葉を最後に、私たちの間に沈黙が訪れた。
再び窓の外を見ると、乱立していた木の景色から、山の景色に変わっていた。
ギュルルル
私のお腹が空腹を告げる。
「……」少し恥ずかしくなった私は、自分の首元にあるネックレスを軽く握る。
「すみません、お昼から何も食べてなくて」
「……なんでもいいか」
「え?」
突然彼が言った言葉の意味が分からず、間抜けな声で聞き返してしまう。
「嫌いなものはないか」
「あ、はい」
「分かった、もう少し待ってろ」
「ありがとうございます」
「……ところでそのネックレス、大事なものなのか」
お礼に対して彼は反応しなかったが、続けざまに質問をしてきた。
「え?」
「いや、ちょっと気になっただけだ」
「そうですね」私は掌に乗せたネックレスを見ながら言う。
「これ、昔買ったものなんですけど、なんかデザインが歪というか、不格好じゃないですか」
「……」あずまさんは静かに私の話に耳を傾けている。
「でも、心をこめて作られた感じがしませんか? それでなんか元気がもらえるんですよ」
「なんだよ、それ」
「お守りみたいなものですかね」私がそう答えると、彼はそうかとだけ呟いた。
そして、車内に再び沈黙が訪れる。
「あの、音楽とか掛けないんですか」
今まで以上に気まずさを感じた私は、目についた車の音楽プレイヤーを話題にする。
「ああ、普段から聴かねえんだ」そっけなく、あずまさんが返事した。
「たまに聴くと案外いいものですよ。気持ちが晴れたような感じがするので」
「柄じゃないんだよ」彼のその言葉を最後に、会話が再びそこで終わる。
さっきほどの気まずさは感じられなかったので、私もそこで口を閉じることにした。
それから三十分ほど経ったところで、ポツンと佇む一軒のお店が見えてきた。外装はこぢんまりとしていて、いかにも老舗ですといった感じがする。
あずまさんは指示器を操作してハンドルを切ると、駐車場と思しき場所に車を入れて止めた。
「そば屋みたいだけど、大丈夫か?」
「はい」
私の返事を聞くとあずまさんは車のキーを抜いて、シートベルトを外した。私もそれに続き、車の扉を開ける。
その瞬間、土のかおりを纏った空気が顔にかかった。
辺りからは鈴虫が演奏する心地の良い音色が私の耳に入ってくる。
「どうした、行くぞ」
思わず聞き耳を立てていると、彼が私をせかすように言った。
「あ、はい」
店の扉は古き良き木造タイプで、趣があった。あずまさんがガラガラと音を立てながらその扉を開ける。
「いらっしゃい」
中に入ると、店主らしきおばあさんが奥から姿を見せた。店内はそこまで広くなく、座敷は三つだけだった。見たところ、私たちのほかにお客さんはいないようだ。
「まだいけますか?」
「はい、そちらにお掛けください」
私たちはおばあさんに案内された席へと座る。
「お疲れさまでしたね」
おばあさんはそう言いながら、お水とおしぼり、そしてメニューを机の上に置いた。
「うまそうだな」
私はおしぼりで手を拭きながら、彼の視線の先を追う。メニューの真ん中には、デカデカとソースカツ丼の絵が載っていた。そして大きな字でおススメと書かれている。
少し失礼かもしれないけど、この店にはそぐわないデザインが施されていて、広告のように見えた。
「このメニュー表、息子が作ってくれたんですよ」
私が思ったことに気づいたのか、おばあさんが言う。
「そうなんですね」
「ええ、場所が悪いから、せめてメニューくらいはって」
「じゃあ、俺はこのソースカツ丼でお願いします」
私がそのメニューに目を引かれている中、あずまさんが注文する。
「……お前も同じのにするか?」
「あ、いえ私は……この温かいおそばでお願いします」
「分かりました、少しお待ちください」おばあさんはそう言うと、厨房へと向かって行った。
「ほんとにそれでよかったのか?」
突然、あずまさんが訝し気に聞いてきた。
「え、なにがですか?」
「いや、ソースカツ丼をじっと見てたから、てっきり食べたいのかなって思ったから」
あずまさんの言葉に私は少し驚いて、すぐに返事ができなかった。
「そんな風に……見えました?」
「え、まあ」
「そうですか……」
「……」
それ以上私は言葉を返さなかった。それに居心地が悪くなったのか、あずまさんはお水を手に取り、軽く口に流し込む。
私は周りを見渡し、静かに店内の様子を眺めた。
「俺が言うのもなんだけどさ」突然あずまさんが言葉を発する。
「え?」
急なこともあって、少し間抜けな声を出してしまう。
「お前、怖くないの?」
「何がですか?」
「いや、この状況というか、これってまあ……誘拐だろ?」
「そうですね」
「そうですねって、それだけ?」
「さっきの拳銃、偽物ですよね?」
「……お前、気づいてたのか」
「はい。銃口が塞がっていて、黄色でしたので」
「よく知ってんな」
「昔読んだ本に書いてました。それに……」
私はそこで言葉を区切る。彼がこの言葉を聞いたらどう思うか、少し考えたからだ。
「私、もういつ死んでもいいと思ってますので」
考えて、私は言いたかったこととは別のことを話した。
「……」
あずまさんは口をつぐむ。
「お前は——」
「お待たせしました」
何か言いかけたあずまさんを遮るように、おばあさんが料理を持ってきて私たちの前に並べた。
ソースの少しツンとした甘い香りと、ダシのいい香りが鼻腔をくすぐり、立ち上る白い湯気が料理を一層美味しそうに見せる。
「ごゆっくりどうぞ」そうにこやかに言うと、おばあさんは再び厨房に戻っていく。
「……じゃあ食うか」
私は彼の言葉の続きが気になったが、小さく頷いた。
「はい、いただきます」
割り箸を手に取って割り、おそばの中にくぐらせる。箸をすくい上げると、モワッとした湯気が顔を覆ってきたので、思わず目を閉じてしまう。少しずつ目をあけ、冷ますために軽く息を吹きかけてそのまま箸を口元に運ぶ。
「おいしい」すぐにその情報が脳へと伝わった。
コシのあるおそばにさっぱりとしたツユがからまり、素朴ながらもとても懐かしい味がした。
私が舌鼓をうちながらおそばを咀嚼していると、あずまさんが笑ってこっちのことを見てきた。
「よかったな、ほら、これも食ってみ」
そう言ってあずまさんは、器のフタにミニソースカツ丼をつくって渡してきた。
「いや、でも……」
「遠慮すんなって」
あずまさんの強引さに負けて、私はその器を受け取る。そのまま彼の視線は私から離れない。
食べるまで彼の視線から解放されないなと諦めた私はソースカツ丼を箸で掴み、ゆっくりと口の中に運ぶ。
その瞬間、芳醇なうま味が口内に行き渡った。ソースの甘さとカツの肉汁が見事にマッチしていて、お互いがそれぞれの良さを引き上げている。
「おいしい……」
「な、うまいだろ。てかお前もそんな顔するんだな」
笑顔を湛えてあずまさんが言った。
私は少し気恥ずかしくなってネックレスを軽く握り、俯いて咀嚼を続ける。
「恥ずかしがんなよ」からかうようにそう言うあずまさんにムッとして、私は抵抗するように睨んだ。
「怒んなって」
「怒ってません」
その後、あずまさんは「ごめんて」と言ってくるが、全く悪びれている様子もなかったので、私は構わず箸を動かした。
久しぶりにこういうの食べたな。私は心の中で少しだけ、ほんの少しだけ彼に感謝した。
「はあ、うまかったな」
「ごちそうさまでした」
料理を食べ終え、あずまさんがおばあさんを呼ぶ。
そして、とてもうまかったですと満足した様子で言うと、立ち上がりポケットから財布を取り出す。
「それはよかったです。ところで、お客さん、こんなところまで何しに来られたんですか?」
「……」
おばあさんの質問で、あずまさんの顔が少し曇ったように見えた。
「まあちょっと、景色を見にです」
「ああ、根尾山(ねおやま)ですか」
「そうです」財布からお金を取り、おばあさんに支払いながら言う。
「やっぱり、この辺りはそれくらいしかないですからね。ですがもう暗いので、お気をつけて」
「はい、ありがとうございます」
「ごちそうさまでした」
そう言うとおばあさんが曲がった腰をさらに曲げて、頭を下げる。
私もそれに返すように頭を下げ、外に出た。
「あの、お金」
「いいよ」
「ですが……」
「それよりも見てみ」
あずまさんはそう言って人差し指を上に向けた。彼の指の先を目で追うと、
そこには、零れ落ちてきそうなくらいの満天の星が瞬いていた。
「うわ、キレイ……」
「だな、でもなんで田舎みたいな場所じゃ、こんなに光んだろうな」
「それは都会に比べて人工的な光が少ないからですよ。あと、空気が——」
「そういうのを聞きたくて言ったわけじゃねーよ」あずまさんは私の話を遮るようにそう言うと、車に乗り込んだ。
私も彼に続いて助手席に乗り込む。
「お前はほんとロマンチックじゃねーな」
あずまさんは笑いながらそう言うと、静かに車のエンジンを入れた。
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