縮まれ、ユビキタス。

納骨のラプトル

縮まれ、ユビキタス。

 私は、生まれてから人工物以外の上を歩いたことがない。

「A-002、起床時間だ」

 スピーカーから聞こえてくる無粋な声で目覚め、あまり柔らかくないベッドの上で起き、裸足のまま冷たい金属板へと降りる。顔を洗う時間も、歯を磨く時間もないまま、ロボット・アームが朝食を運んでくる。その朝食を食べながら、スピーカーから流れてくる音声とモニターが運ぶ無機質なニュースを見るのがモーニングルーティンである。そんな生活が私にとってありふれた日常であるのだが、どうやら世俗はそうじゃないらしい。

 世俗からかけ離れた生活をしているのは他でもない、私の右手におどろおどろしい蝶の紋様が施されているせいである。

 十八年前、「パッチング・スタンプ事件」と呼ばれる事件が起こった。この事件の発端となったパッチング・スタンプは新型の女性向けスタンプ注射で、生まれてくる子供たちに対して母体から継承される免疫を増幅させることにより、出生時から高い免疫を獲得させるための予防接種と謳われていた。そして、パッチング・スタンプも今までの予防接種の例に違わず、弱い病原菌を体内に入れることによって抗体を作り出すものだった。しかし、その病原体の弱毒化が不十分だった。おかげで、生まれてくる子供たちの抗体をむしろ弱めるような注射が出来上がってしまった。さらに不運なことに、私の母親がそのパッチング・スタンプを接種していた。私の右手に施されている蝶の紋様が何よりの証拠である。この紋様は、当初パッチング・スタンプを接種した母体から出生した子供であることの証明として耳元に小さく埋め込まれる予定だった。しかし状況が変わった。パッチング・スタンプを発売する会社は私たちのようなパッチング・スタンプ被害者を「バタフライ・チルドレン」と呼称し、本来耳元に埋め込まれる予定だったこの蝶の紋様を右手に大きく施すこととした。その後、被害者たちの感染症感染対策という名目で私が今生活している「スフィア」と呼ばれる施設に一人一人隔離した。

 しかし……そんなことが現実的に可能なのだろうか?事件のアウトラインを聞く限り、実被害が広範に及んでいる事件だと推測される。であれば、わざわざ一人一人隔離する必要性があるだろうか?集中管理にして中で防菌室などに分ける方が効率的だと思うのだが……どうにも、この一人一人隔離するという点にこだわっているらしい。

 この隔離措置は出生と同時に行われたから、私はモニター越しにしか空も、海も、あまつさえスフィア以外の建物も見たことがない。外界とスフィアは一枚の密閉扉で仕切られているだけだったが、外界の各種存在する菌に対する抵抗もないから、このスフィアから出ていくことも叶わない。総じて、私はこのスフィアの中に文字通り囚われていた。

 私の毎日は単純でつまらない。毎日厳格に定められたプログラム・タイマーに従って生活しなければならない。朝、六時ちょうどにさっきも聞いたような声で叩き起こされる。そして、今しているように朝食を取りながら目の前のモニターが映すテレビ番組から社会情勢などの情報を収集する。そのあとは九時まで自由時間ということになる。といっても、スマートフォンなどは持ち合わせていなかったから、たいていの場合自室のモニターでテレビを見るか、自室を出たところにある書庫で本を読み漁ることになるが。おかげで、本に出てくる知識やら社会情勢やらにはむやみに詳しくなった。仮に詳しくなったところで、使える場面はないというのに。九時になると、自室に戻って午前の学習時間が始まる。私なら、高校三年生の頃の教材。事件が起こったのが十八年前、問題が発覚するまでに半年。その間にパッチング・スタンプを接種した親から生まれた子供たちがバタフライ・チルドレンなのだから、私以外にバタフライ・チルドレンがいたとしておおむね十五から十七の子供たちに該当すると考えられる。尤も、私以外のバタフライ・チルドレンを見たことはないから、ただの推測になってしまうのだが。その学習を途中昼食をはさんで十五時まで行う。その後も変わったことはあまりなく、軽い運動をこなし、また自由時間にはテレビを見るなりし、夕食を食べ、きっかり二十二時に眠る。変わったところと言えば、日記が義務付けられていることとフィードバックを提出しなければならないところだろう。日記はただの日記だが、フィードバックというのはなかなかに奇怪なものだった。

 今日の私も、特に変わったことのない、プログラムに定められた通りの一日を過ごした。

「特に変わったことはありましたか、ねぇ……」

 今日のフィードバック用紙も、私と同じでいつもと同じ文言が並んでいた。特にない、としか書きようがないのだが。わざわざこんなものを提出させるということは、継続的なモニタリングは行われていないということだろう。いつものように特にない、と走り書いてロボット・アームに渡した。

「A-002、就寝時間だ」

 やはりスピーカーから聞こえる無粋な声で、私の一日はいつものように終わる。何も変わらない、箱の中で飼育されるような日常。そんな退屈な日々を、私は受容せざるを得なかった。

 次の目覚めた朝、私は珍しく自分自身について考えていた。今まで特に不自由を感じていなかったので考えたことがなかったが、私はどこで生まれたのかも、両親の名前も、それどころか自分自身の本名すら知らない。自分自身のことを呼ぶための「私」は日々の学習で習得したけれど、A-002以外の名前で呼ばれたことはない。こんなことを考えているのは夢のせいだった。昨晩私にしては珍しく夢を見た。その夢の中で、私は誰かに名前を聞かれたのだが、返せなかったのである。そこで目覚めた私は、思考の濁流に飲みこまれてしまった。その思考が私の頭の中を支配してしまって、今日の学習も自問自答の補助材料にしかならなかった。そして考えがある程度まとまったので、私は午後の自由な時間の多くを日記を書くのに費やしていた。

「七月十三日 天気:不明 今日、正確に言えば昨夜は非常に意地の悪い夢を見た。そのせいで自分自身について考えることになった。私って、どうして存在するのだろうか。今まで私が生きてきた、私自身の人生が、虚像であるように思えるのだ。あるいは、私こそが実在して、それ以外、つまりは外界の人々が虚像なのではないか?それどころか、外界が存在するかどうかも私にとっては疑問に思える。私が名前を知らないのも、本当は私が虚像なせいなのではないか、あるいは外界が存在しないために知らないのではないか。それに、今日の学習はその疑問を増大させてくれた。人々の存在がどのようにして確かめられるか、という話を社会学的に並べた、名文句たちの集合体があった。人は助け合って初めて承認されるとか、他者があって自己があるとか、互いに認め合うことで人間としての成熟が満たされるとか。全部が全部、私にとって賛同できるとは言い難かった。確かに、いわゆる通常の精神成熟過程において言えば、この名文句たちはかなり意義のあるものなのだろうが、生まれてから一人だって人間に直接会ったことのない私にとってはそうは思えない。一体、どこの誰が、私を私として認めてくれるのか。そんなことを考えてはみたが、いずれにしてもここには私しかいない。私のこの疑問が解消される日は来るのだろうか?」

 日記帳を静かに閉じて、フィードバック用紙を手に取る。普段と変わらないフィードバック用紙が何だか小さく見えたが、そこに

「私という存在に、初めて疑問を持った。」

 と、紙の許す限り大きく書いた。いままでフィードバックに何か内容のある事を書いたことはなかったが、書いたことで何か変わるのだろうか。きっと何も変わらないのだろうが、それでも出してみる。何か変われば儲けものだろう。フィードバックを出した後も私の考え事はしばらく続いたが、考え事の疲労が出たのだろう、私の意識はすぐに睡眠の世界へと放り投げられたのであった。

 次に目が覚めると、机上に見慣れない物があった。それはこの時代に似つかわしくもない黒電話だった。その黒電話には付箋でメモがあって、この電話の電話番号と書置きが残されていた。

「フィードバックを見た。役立ててくれ。」

 あまりきれいとは言えない字だったが、私をここに封じ込めている組織の人間が書いたのだろう。フィードバックも出してみるもんだな、と思った。にしたって電話か。電話番号を一つだって知らないから、使いようがないのだが。さあこの黒電話をどうやって使おうかと考えながら、やはり今日もテレビを見ているのだが、今日の番組だけは少々様相が違った。

「あの事件から今日で十八年、バタフライ・チルドレンたちは今」という大々的な見出しで報道される、ドキュメンタリー番組が放映されていた。

「こちらの目の前にあるような、スフィアと呼ばれる建物に彼らは一人一人隔離されています。我々取材班は、本日006スフィアと呼ばれるスフィアに対しての取材に成功しました」

 そういって画面が映していたのは、青い半球状の、出入り口が一つしかない建物だった。私は気がつくと筆記具を手に取り、画面やキャスターたちが提供する情報を事細かに紙に書き留めていた。青い半球状のドーム。スフィアと外界を隔てるドアの先にある厳重なエアフィルターに、ウィルスをシャットするための防護服。徹底的な除菌体制はさすがと言うべきか哀れと言うべきか、どこか恐ろしいように思えた。

「本日は、実際にバタフライ・チルドレンとなってしまった佐藤君にお話を伺いたいと思います。よろしくお願いします」

 そのレポーターの発言と、それになんの疑問を示さないバタフライ・チルドレンのふるまいに私は少し違和感を覚えた。今、このレポーターは通常管理番号で呼ばれるバタフライ・チルドレンを名字で呼んだし、バタフライ・チルドレンの方も名字で呼ばれたことに疑問を示さなかった。キャスターの側は例えば両親から聞いていたとしても、バタフライ・チルドレンの方はそもそも自分の両親が誰であるかさえ知らないはずだから。基本的に人の名字は親の名字を引き継ぐものだから、彼が名字を知りうる道理は私の知る限りなかった。そのことに私が疑問を抱く間も、テレビは止まらない。

「まぁ……やっぱり、外界に出てみたいとは思いますね。僕の両親にも会ってみたいですし、広い世界を見てみたいという気持ちはあります。出る手立てがないわけじゃないんですが、まだいろんな準備も整ってないですし。それから、僕以外のバタフライ・チルドレンたちにも会ってみたい。きっと、すごく寂しい思いをしてきたと思うんです。彼ら彼女らも、多分外界に出れていない。だからこそ、みんなと会ってみたい。そう考えるようになりました」

「全国に遍在するスフィア。その数は五百程あると言われています。現在でもこの隔離措置が事実上の治験ではないかという批判も根強く――」

 手が止まった。治験?この生活が、治験である?私の、今までの生活のすべてが、治験であると言うのか?非常に受け入れがたい話だったが、今までの都合を勘案しても治験という話には説得力があった。例えばフィードバック。あるいは徹底したプログラム・タイマー。そのどれもが、治験の上という前提があれば納得がいく。私の呼ばれ方もそうだ。A-002という、管理番号に近い呼び方。治験のサンプルとしての識別子としてなら納得がいく。

 しかも、この番組で言っていた通り、私以外にもバタフライ・チルドレンがいるという話も正しそうだった。私以外にも、治験のサンプルにされているバタフライ・チルドレンたちがいるかもしれない。確かに外界は存在するかまだ分からないけれど、それを確かめる手段も今朝支給された。

「我々放送局では、パッチング・スタンプ事件への情報提供を求めています。どんな些細なことでも構いません、ぜひ情報をお寄せください、電話番号は――」

 手こそ止まっていたが、集中していた私が電話番号を聞き漏らすわけはなかった。渡りに船とはこのことか、すぐさま電話をかけた。

「……はい、そうです。私もパッチング・スタンプ事件の被害者で……えぇ、私もスフィアから出たことはありません。それで……今日テレビに出ていた――佐藤君ですか、彼のスフィアに電話はあったでしょうか……あった、それはそれは……えぇ、取り次いでほしくてですね……本当ですか!ありがとうございます!そうですね、私の電話にかけてきてほしくて……電話番号ならお伝えできるんですが……なんと言いますか、私は自分の名前を知らなくて……そうですね、私は普段A-002と呼ばれてるので、そのまま伝えていただければと……はい。何卒よろしくお願いいたします。失礼いたします……」

 つながった先は、モニターの先にある外界だった。私の疑問だった、外界の存在。電話がつながるということは、外界はおそらくあるのだと、そう思えた。信じてみても、いいのかもしれない。私は、受話器の前でしばらく考え事をした後、いったん学習に向き合った。

 数時間経過しただろうか。ジリリリリリ、ジリリリリリと黒電話が鳴り響いてくれたので、今が学習時間であることも放り出してその電話に応対した。

「はい、A-002です……あなたが……佐藤君ですか?」

「そうです、僕です。お電話の話ありがとうございます……あー、すいません、あなたを何とお呼びしたらよいか……」

「私のほうはA-002で構わないんですが……そもそも、あなたが何で名字を知ってるか、私にはわからないんですが……」

「名字は……フィードバックに書いたら教えてもらえました。『名前を知りたいと思った』と書いたんです。そしたら、次の朝に机上に書いてありました。……あなたのことをどう呼んだらいいかわからない、というのは、あなたを組織から呼ばれている名前で呼びたくない、ということなんです。きっと、あなたにも素敵な名字があるんですよ、それを無視したくない」

「でも、私は私の名字を知らない。それどころか、両親さえ知らないというのに、どうして……?」

「知らないと存在しないは違うんですよ。それに、あなたも僕と同じで生まれた時からここにいただけで、それがあなたの持つ名前や名字を蔑ろにしていい理由にはならないはず。……というわけで、僕はあなたをそんな名前では呼びたくないんです」

 彼の声からは確かな強さと優しさが感ぜられた。しかし私にも返すべき名がないから困る。とりあえず、名字を知ることから初めてみるか。

「……とりあえず、私も名字を取り戻してきます。今度は私の方から電話をしますから、電話番号を――」

 相手から電話番号を聞き出すと、そのまま電話を切った。なるほど、これがコミュニケーションか。今まで勉強してきたけれども、実際にアウトプットするのは初めてだった。なかなかうまくいったと言えるだろう。

 その後私は就寝時間まで心躍らせていた。学習で何を扱ったかなども、高揚しすぎていてよく覚えていない。電話、ドキュメント番組、佐藤君のインタビュー、フィードバックの意義。私の好奇心は続々と外界へ集められていったのである。もはや、内省的な日記にはあまり興味が湧かないほどに。そしてフィードバックの時間にようやくなったので、はやる心を抑えて丁寧に

「私の名前に興味が湧いた。」

 とゆっくり時間をかけて書き、ロボット・アームに渡した。明日には私の名字もわかるのか、そう考えると楽しみで眠るに眠れなかったのだが、スピーカーが

「A-002、就寝時間だぞ。早く寝ろ」

 なんて夢のないことを言うので、私は掛け布団に深く潜った。すると初めてのコミュニケーションでの疲れが出たのだろうか、不思議なほどにすぐに寝付いてしまうのだった。

「A-002、起きろ。もう起床時間を三十分超過している」

 その声で慌てながら飛び起きると、真っ先に机に目を向けた。そこには期待通り、一封の茶封筒が置かれていた。破りたいほどに興奮した気持ちを抑えて、中身が傷つかないように慎重に、少しずつ封を切っていく。そうして綺麗に切られた茶封筒の中身は住民票の写しで、その二つに折られた紙が鉛のように重く感じた。その鉛をどうにかこうにか両手で開くと、住所の欄こそ空欄だったが、そこには私が持っていながら十七年以上知らなかった本名が機械で印字されていた。

 私の本名は田中或中(あちゅう)という名前だった。特に知って嬉しいなどの気持ちが浮かび上がって来るわけではなかったが、これが外界の人々たちが使っている名前というものかと、興味深く思った。

 さぁ、私が呼ばれるべき名前も取り戻したことだし、早速電話をかけよう。

「……はい、佐藤です、えーと……誰だかはわかるんですが……何とお呼びすれば良いですか?」

「田中といいます。田中或中です」

「田中さんですか。じゃあ、これからは田中さんで。で、田中さんは……連絡をくださったわけですが、ご用件は……」

「あなたが、テレビで外界に出て、他のバタフライ・チルドレンにも会ってみたいと言っていたから。私も、他のバタフライ・チルドレンに会ってみたい。出来ることなら、可能な限り多くの」

「……まぁ、そうだとは思っていましたが。僕も同感です。僕は、できるだけ多くのバタフライ・チルドレンたちを集めて――一つの巨大な集合体、新スフィアを作りたい」

「新スフィア?」

「そう、新たな巨大なスフィア。そこにすべてのバタフライ・チルドレンたちを集めたいんです。そうすれば、少なくとも我々をスフィアに封じ込めた組織からは解放される。それで、我々だけの自治を成立させることができれば……我々の失われた17年間ほどを、取り戻せる可能性がある。どのスフィアにもモニターはあるでしょうし、地上波と提携できれば訳ないはずです。だから、僕は地上波に出る選択をしました。まだ地上波に出れる当てもあります」

「……そこに至るまでの、解決策ももうあるということ?新スフィアとする建物や、そこまでの足、外に出るための防護服は?」

「建物は何とかなります。地上波の放送局と話を取り付けました。昔撮影で買い取った建物を払い下げる予定だったのが、この計画の話をしたら譲渡してもよいとのことでした。どうやら世間は我々にずいぶん同情的なようです。問題なのは残り二つなんですよね」

「足代は最悪考えないものとしても、防護服がなければ我々は出られないんですよね?」

「その通り。僕たちがいくら外界の人間と同じように生活しようとしても、僕たちの免疫が異常に弱いのは事実です。防護服がなければ、そもそもスフィアから出られません。だから……」

 佐藤君は意を決したように、強い言葉を発した。

「皆さんには、防護服を仕入れてもらいます。額面に直して、十五万円ほど。こちらから地上波出演のギャランティで援助はしますが、それでも一人十五万円ほど出してもらわなければいけない」

 私はその言葉をすぐに飲み込めなかった。稼ぐ?この閉ざされた空間の中で、どうやって?

「疑問に思う気持ちはわかりますが、何も体がなければ稼げない仕事ばかりではないですよ。例えばメディアに出演するとか、あるいは何かそこから動かずに売るとか」

「なるほど……」

「この計画自体は一週間後に地上波で放映されます。だから、そこから防護服を買うためのお金を、どうにか皆に工面してもらう必要がある。クラウドファンディングをやるより、リターンがない分自分で稼ぐ方がよいかと。……フィードバックに効果があるあたり、組織も我々を抑圧する気概はないと見えます。中から経済活動を行うのも可能でしょう。……僕は防護服の手筈が整ったので、新スフィアの準備に取り掛かる予定です。組織とも交渉をしなければならない。……田中さんと新スフィアで会えるのを楽しみにしています。では」

 ガチャンと受話器を置くと、この後のことについて考えなければならなかった。私も新スフィアに行きたいが、さてどうやってお金を工面するか。自分の体はここに置いていくしかないから、何かこの中で行えることを考えなければならない。私の今までこの中で過ごしてきた十七年が、初めて学科試験のように問われているように感じた。

 私の二日間、必死に考えた結果は本を書いて出すことであった。今まで暇な時間に書庫にこもって本を読むぐらいしかやることがなかったこともあって、本に関する知識はあった。それに、私には、私たちには、この事件を風化させてはいけないという使命がある。私たちが生きてきたこの十七年を、記録せねばならない。仮に新スフィアで自治が成立しようとも、このスフィアという建物で、パッチング・スタンプという事件で、人生の多くの時間を奪われた人々がいることを後世へ受け継がねばならない。

 その日から執筆に傾倒し始めた。生まれてから、ここを出ようと思うまでの十七年間。事実と私の心の中を、できるだけ事細かに書き記していく。私の今までの人生全てが集約されたこのスフィアの中から、スフィアの外へ向けて。書いている最中、何度も右手の蝶の紋様が目に映り、その度に積みあがった原稿用紙の束は高さを増していった。

 執筆にはちょうど二か月を要した。私の今までの人生がたったの二か月でまとまってしまったと考えるとなんだか虚しいが、それ以上に新スフィアへの求心力が勝っていた。出版社に電話で出版の話をしてみたら、二つ返事で

「ぜひ出しましょう。世間にも、あなた方の記録を残すべきです」

 と快諾されたことも私の筆を速めた。

 出版された私の本は、名前を「バタフライ・エフェクト」と言った。パッチング・スタンプ事件の、当事者目線で書かれた物語。私が十七年生きた歴史書が、世間に売り出されていった。

 ジリリリリリ、ジリリリリリ。

「はい、田中です」

「田中様、あなたの『バタフライ・エフェクト』の印税がおっしゃられていた十五万円を突破しました」

「……本当ですか」

「えぇ、間違いなく。いかがいたしましょう、防護服を買いたいとおっしゃられていたと思いますが」

「はい、そうです。……通販で頼めると思います、前に原稿をお渡ししたところに持ってきてはいただけないでしょうか」

「畏まりました。すぐに手配いたします」

 その日の夜、私はフィードバック用紙に「ここを出ていくつもりだ。明日の朝になると思う。」と書いて出した。すると電話が鳴った。どうせ組織の人間だろうな、と思いながら受話器を取る。

「はい……私です」

「A-002、本当に出ていくのか?」

 その声は、あのスピーカーから聞こえてくるいつもの声だった。

「もちろん。なんのために本を書いたと思ってるんですか」

「……我々には、君を引き留めることはできんな。君が生まれて、我々の都合でここに留め置いたとも言えるからな。君が今までこの十七年間と数か月、ここに住まわせてしまったからには……君の自由というものを、認めてやらなければならないだろう。もっとも、君がここにいてくれた方が我々としては……いろいろと、楽なんだがな」

「そうですか。それはそれは。私には関係のないことですから」

「そうだろうな。寝る前だというのに呼び止めたりして悪かった。じゃあ……これから、頑張れよ」

 そう言って、組織の人間は電話を切った。私は、あの無粋なスピーカーの先には人間がいたということをようやく飲み込めたような気がしたが、それは私の新スフィアへの探究心を止める理由にはならなかった。明日の出発に向け、溶けるように眠りに落ちた。

 私がいつも通りの時間に起きると、防護服が配達されてきていた。私が書いた本の集大成がこの防護服かと思うと感慨深かったが、今は感慨にふけるより防護服を着て新スフィアへ向かうのが最優先だった。密閉されたドアを開き、生まれて初めての外界へと踏み出していく。

「眩しいっ……!」

 スフィアを出た瞬間に、私は眩しさを訴えた。今まで太陽の光を受けたことがなかった私に、その光はあまりに眩しかった。光量が一定のモニターでは絶対に味わうことのできない、初めての衝撃が体中にほとばしる思いだった。その太陽の下、私は新スフィアの所在地のある方向に歩き続ける。その道中の全てが新たな体験だった。初めて歩いた土には、人工物にはないクッション性があった。あの、化学繊維で生み出した人為的な反発ではない。一度土が私の体重を受け止めて、その後に跳ね返すような反発。その土の上を歩きながら、途中でいくつかの町にたどり着いた。その町の往来にはいずれも人々がいた。今までモニター越しに見ていた時の人々は、さながら人形劇のようだったが、実際には私と同じような人々だった。モニター越しにしか見ることのできなかった外界が、私の五感を刺激して、外界が存在するかわからないという疑心が、太陽の熱で氷解していく。深い部分で存在していた、知らないことと存在しないことは違うという問題が解決したことで、私の心は解放されていく。私が、社会の中に一人の人間として、溶け込んでいく。私がどうやって存在するかという、私の解決しなかった自問自答。それが、外界に初めて出たこと――そして、これから私と同じような境遇のバタフライ・チルドレンたちに会うのだと考えると、その問題を解決するための「承認」という点において、私の期待は高まるばかりだった。そうして期待に胸を膨らませながら、外界の様々な刺激に驚かされながら歩き続ける。そして数時間後、ついに新スフィアに至りついた。大きな建物だった。新スフィアにするために、新たに備え付けたと思われる密閉扉だけが新しい見た目で、それ以外は少々年季の入った見た目をしている建物だった。

 防護服を脱いで、エアシャッターを浴び、新スフィアの中へ入ると、そこには四十名少々の、私とほとんど歳の変わらない子供たちがいた。全員右手には私と同じ蝶の紋様が入っている。皆が私に拍手していた。その拍手が作りだす橋を渡って、新スフィア中央へと歩みを進める。

「田中或中と言います。昔はA-002と呼ばれていました」

 簡単な自己紹介を済ませると、一人の男の子がこちらに歩いてきた。

「佐藤です。あなたの書いた本を読みました。……本当に、今までお疲れさまでした。そして、ようこそ新スフィアへ。バタフライ・チルドレンとして、私たちの新規集合体です」

 そう言って彼は右手を差し出す。私はその手を、強く握り返した。私の蝶の紋様が、こちらを向いているように見えた。

 新スフィアにいるバタフライ・チルドレンたちは様々な方法でここまでたどり着いていた。メディアに出演した者。音楽を生み出した者。私のように、文芸でたどり着いた者もいれば、絵画の才能を評価された物もいた。だが、いずれの者も、スフィアの中にいた、十七年間で自ら生み出した才能を活用しているという点においては同じことだった。彼らの生み出した文化や芸術に触れることは、ここに来るまで体験しえなかったことだったから、新鮮だったし、一つ一つが興味深かった。何より、私含めて一人一人違うものを作り上げていたことが、私を私として認めてくれたように思えて、私の存在に関する疑問を解消しきった。私は、私として生きられるんだと、希望があふれる思いだった。

 新スフィアについてから三か月後、次々とバタフライ・チルドレンたちが集結する中で、ついていたテレビが速報を示すビープ音を発した。

「速報 新スフィアに全バタフライ・チルドレン集結 製薬会社が治験の終了を発表」

「えー、ここで速報が入りました。当放送局で継続的にお伝えしてきましたパッチング・スタンプ事件や新スフィア関連ですが、先ほどすべてのバタフライ・チルドレンが新スフィアに集結したと製薬会社直々に発表。その会見において、今までの処置が不当な事実上の治験であったと認め、治験の終了と謝罪を発表しました」

 そのニュースの声で、新スフィア内は大いに沸き立った。新スフィア内での興奮冷めやらぬ中、ニュースはさらなる情報を伝えていたのだが、それを聞く者はいなかった。

「これに際して、旧隔離スフィアは取り壊しが決定しました。また、被害者への補償についても追って公表するとのことでした。事実上、パッチング・スタンプ事件は終結したことになります。……どうですか、コメンテーターの皆様」

「まぁ、そうですね、私はいいことだと思うんですが。今まで、全国に遍在しているスフィアの中で、ずっと一人で生きてきた子たちでしょう。それが、ぎゅっと固まって、偏在するようになった」

「私も似たような感想です。彼らの創作した物も、今ではすっかり良作として社会に溶け込んでいますから。彼らには今後も、ぜひ頑張ってほしいなと思います」

 新スフィアにはフィードバックがなかったが、日記だけは続けていた。私は今日の日記に

「バタフライ・チルドレンたちは、ようやく羽を閉じて眠れるようになった。」

 とだけ記して、柔らかいベッドの上で目を閉じた。

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縮まれ、ユビキタス。 納骨のラプトル @raptercaptain

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