第3話
朝、出発する時は行ってきますのキスをしていた時期がある。
柏木はスニーカーを履いたつま先を打ち付けると振り返った。そこにはエプロンをつけた妻。彼女は長い髪を耳にかけた。
「行ってらっしゃい」
「……おう」
「……? 行かないの?」
柏木は妻に近寄ると、首を傾げた彼女に顔を寄せた。玄関が一段低くなっているおかげで、小柄な妻と目線が近くなる。
妻は柏木が何をしたいのか察したらしい。”もう”と怒りを照れを混ぜた声で彼の胸を押した。しかし、力は加えておらず顔は赤い。
「遅れちゃうじゃない」
「一瞬だけだ」
新婚ホヤホヤで、見送りでさえちょっとしたイベント。柏木は妻の唇にそっと自らのを重ねた。
彼女を抱き寄せると首に腕を回され、体が密着した。顔の横で妻がぽつりとつぶやく。
「早く休みにならないかな……」
「どっか行きたい? 今週の土日は休みだ」
アウトドアな彼女は、柏木とドライブするのが好きだった。特に配送担当の彼は運転に慣れているので、彼女がリクエストした場所へ難なく連れていくことができる。
「飛騨高山はどう? 温泉にゆっくり浸かりたいな」
「いいな。予約頼んでもいいか」
「オッケー」
妻は首に回した腕に力をこめ、”週末を楽しみにしてる”とささやいた。
元妻と仲良かった頃は、よく土日にプチ旅行へ出かけていた。
あの時の柏木は今よりも随分若かったから、休日の度に遊びに行っても仕事に響くことはなかった。
今はと言うと、休日は昼過ぎに起きてボーッと過ごすばかり。どうせ休みでもやりたいことはないからと、土日祝関係なく出勤するようになった。
「友だちと会ったりしないんですか?」
「あのなぁ。高校卒業したばっかとかじゃないだぞ? 定期的に会う連れはいないって。そんな若くないんだよ」
ソファに二人で並び、大きな皿を持ち上げた。黄金色のスープからは湯気がたち上っている。まるで温泉のように。スープの中には不格好なロールキャベツが転がっている。
帰ってきたらユリがいなくなっていることを期待していたが、そうはならなかった。くわえ煙草で玄関を開けたら彼女に出迎えられた。あたたかい匂いと共に。
こうして出迎えられ、温かい食事が用意されているのは十年ぶりだ。ユリが作ったロールキャベツは形こそ微妙ではあるが、かぶりつくと中の肉がジューシーでおいしかった。
「そういえば柏木さんっておいくつでしたっけ」
「39だけど」
ユリはロールキャベツに刺していたつまようじを外した。かんぴょうの代用らしい。
「ウチの両親も友だちに会ってるとこ見なくなってきたな……。大人になるとそんなもんなんですか?」
「まぁ人によるだろ。中には子どもがいて自由がないとか。お嬢はよく友だちに会うのか?」
「それはもちろん。彼とは共通の友人も多いし……。チッ」
「思い出して舌打ちすんな」
顔をしかめたユリに、柏木は眉をひそめた。一日経ったくらいでは怒りというか不満は消えないらしい。
「ちゃんと話した方がいいぞ。こんな形で別れたらお前、後悔するぞ。こんなしょうもない意地張って……」
「しょうもない!?」
「やべ」
「晩御飯下げますよ!」
「都合悪いと飯を片付けようとすんのやめろ。超腹減ってんだけど」
柏木は自分の皿を引き寄せて死守した。
ユリは浮かせた腰を下ろそうとしたが、突然顔を真っ青にさせてリビングを飛び出た。
何も言わずに急にどうした、とリビングの外を見ていたら、トイレから水を流す音が聴こえた。少し顔色がマシになった彼女がリビングに戻ってくる。
「どうした。腹壊してんのか」
「違います。また戻しました……」
……と、言ったわりにはそんな様子を感じさせない様子で食事を再開している。
「おいおい大丈夫か……。胃が荒れてるんじゃねぇか?」
「大丈夫です。お腹空くから食べないとしんどい」
「確かにそうだけど……。病院行くか? 夜間緊急ならやってるだろ」
柏木がソファから腰を浮かすと、ユリは首を振った。
「本当に大丈夫ですから。最近ずっとこんなんだし」
「最近ずっとって……。なおさらよくないわ」
「明日にでも薬を買ってきます」
"大丈夫です"と言い張るユリに負け、柏木はソファに座りなおした。
夕飯の片付けは柏木が代わってくれた。なんでも任せっぱなしにはできない、と。ユリは掃除をした湯舟にのんびりと浸かっている。
彼────雅史も時々、片付けをやってくれた。いつもお風呂は先に譲ってくれる。彼の場合、お風呂が面倒だから後回しにしたかっただけだろうが。
(今日のロールキャベツ、あんま上手にできなかったな……。もっと練習しなきゃ)
今日は思いつきで新しい料理に挑戦してみた。味はよかったがキャベツがはがれかけたり、肉がはみ出たりして美しくなかった。それでも柏木は”おいしかった”と褒めてくれた。”俺に食わせてないで旦那に食わせてやれ”という一言は余計だったが。
雅史もユリが作ったものをいつも文句なく食べてくれた。
焦がして茶色くなってしまったシチューも、豆腐を加えてゆるゆるになってしまったお好み焼きも、フライパンからはがすのを失敗して皮がやぶれた餃子も。彼の好物を作っている時は、嬉しそうにそばでわくわくと待っていた。
その様子が可愛くて、笑いながら食事の用意をしていたのが懐かしい。
ふふっと笑いかけたが、人に見られているかのように表情を引き締めた。
雅史の顔を見たくない、という感情は変わらないまま。
昨日から雅史から何度も着信があったが、出たり折り返すことはしなかった。もちろんメッセージアプリでも。
通知センターのメッセージに心が痛まないと言ったら嘘になる。正直、罪悪感はうっすらと生まれていた。
それでも今はまだ、顔も見たくないし声も聞きたくない。言葉を交わしたくなかった。
ユリは目を伏せると、湯舟に深く浸かった。
柏木は食器洗いを終え、濡れた手を拭いた。
帰って来た時に気づいたが、キッチンのタオル掛けが活用されているのを久しぶりに見た。きっとユリが掛けておいてくれたのだろう。普段は洗面所にしか掛けていない。
手を拭き終わり、タオルのシワを伸ばしておいた。
当の本人は風呂から出たのか、洗面所からドライヤーの音が聴こえてきた。
柏木はドライヤーを使ったり使わなかったりなので、まともに動くか少し心配だった。昨日ユリに聞いたら、自宅のドライヤーより時間がかかると文句を言っていた。
(大した髪の長さじゃないのにな……。押しかけてきた分際で文句を言いやがって)
片付けが終わったので一息つこうとしたら、ユリのスマホから軽快な音楽が響いた。リビングのテーブルの上に置いてあるそれをのぞくと、男の名前が白く浮かび上がっている。
「電話か……?」
後で本人に伝えておこうと、もう一度画面をチラ見する。おそらくユリの婚約者だろう。
心配してかけてきたのだろうか。着信は一度切れたが、再び軽快な音楽を奏で始めた。ポップな音楽なのに焦りを感じる。まるで着信に婚約者の気持ちが乗り移ったようだ。
代わりに出てやろうか、と迷っていたらドライヤーの音が止まった。同時に着信も。
「ふー。お先でしたー」
洗面所からユリが出てきた。パジャマは家から持ってきたというふわふわ素材のものを着ている。
彼女にはすっぴんだからと恥じらう様子はない。昨日から。
「電話きてたぞ」
「そうですか?」
ユリはスマホを手に取ると一瞬固まり、顔をしかめてソファに放った。彼女自身もソファにぽふっと座ってテレビのリモコンを手に取った。
「折り返さんでいいのか?」
「いいです!」
「……婚約者か」
「……えぇ」
テレビの画面に見入ったフリの横顔は曇っている。電話のことが引っかかっているのだろう。
知り合いとは言え、彼女は
「俺も風呂入ってくるかな。今日も寒い」
「そうですね」
「トラックの中は昼間あったかいけどな」
「自慢か」
ユリが突き出した拳から逃げるように、柏木はリビングを出た。
ユリが意外と怪力な面を持ち合わせているというのは、入社してすぐに知れ渡った。
特別顔が可愛いということはないが、重たい物を持ち上げて運ぶことには特化している。そんな彼女は誰からも重宝されていた。
『クマちゃんだからなの? 熊だから強いの?』
『名前関係ないですよ絶対』
先輩の冗談に笑うこともしばしば。実際、ユリの実家で彼女ほど力がある者はいない。
しかし、腕の筋肉は大したことはないので誰からも、"細っ! 思ってたより二の腕細っ!"と心配される。
「お嬢、客用の布団出すからそれで寝ろ。ソファで毛布だけじゃ風邪ひくぞ」
23時。柏木は”そろそろ寝るわ”と大きなあくびをした。
昨日もそう言われたが遠慮した。しかし、実際にソファで寝ると体が痛む。
ユリはテレビにリモコンを向け、立ち上がった。
「ありがとうございます。押し入れにしまってあります?」
「おう。空き部屋に持ってくから待ってろ」
「そんな、いいですよ。自分でやりますから」
……と言って、二階にある柏木の寝室から敷布団と掛布団をまとめて持ち出した。
隣の空いた部屋に運び入れ、手を軽くはたく。
このガランとした部屋に、ユリの荷物をキャリーケースごと置かせてもらっている。この部屋の主はいないので、初めて入った時は随分埃っぽかった。昼間に掃除をしたので今は毛埃の一つもない。
「あ。でもこれ一回干したいな……」
後から入ってきた柏木が枕を放った。ぽふ、と掛け布団の上に着地する。
「そうなの? それくらい気にすんなよ」
「いやいや」
明日、布団を干すことにした。だから今日もソファがベッド代わりだ。その代わりエアコンはしっかりきかせて。
「お嬢、お前な」
一階に毛布を持って行こうとしたら、柏木に呼び止められた。
「重いものを運ぶことらい、男に頼っていいだぞ。会社でもよく思ってたけど」
「自分のことですから……。それに私、怪力なんで」
「ほらまたそれだ。その調子だと彼氏に何か頼むこともそうないんだろ」
「それは……。まぁ」
図星だ。怪力なので大抵のものはなんなく運べるからだ。
「男は頼られるのが好きだからな。特に好きなコからだったら。お前はもうちょっと彼氏を頼りにして甘えてみろ」
「う゛ーん……」
「不満そうだなおい」
柏木はやれやれと首を振った。やっぱり婚約者のことを話題にするとふくれ面になってしまう。
ベッドは欲張ってクイーンサイズにした。家具屋で、あーでもないこーでもないと話していたが、結局は雅史が選んだ今のベッドに落ち着いた。
二人で泊りがけで出かけると、一人で寝る物足りなさから解放される。
布団の中で抱きしめ合うとあたたかくて心地よい。そのぬくもりにうっとりしながら寝入ることもしょっちゅうだ。
同棲を始めてからはそれが当たり前になった。サイドテーブルの明かりでほの明るい寝室。ユリは後ろ手でドアを閉め、ベッドに向かって小走りになった。
『まーさーふーみー』
『なんだよー』
ベッドの中に入ってスマホをいじっていた雅史は、ユリがやってきたのを見てスマホをサイドテーブルに置いた。
ユリが胸に飛び込むのを抱きとめ、雅史は彼女の頭をなでた。
『お仕事お疲れ様』
『ユリもね。お家のことありがと』
寝る前はそうしてお互いのことをねぎらい合う。そのまま恋人らしい営みに発展することもしばしば。
最近、入籍の日も式場も決めた。具体的になっていく二人の未来に胸が躍る。
住み慣れた街を出てやってきた都会で、仮暮らしとして選んだ賃貸のマンション。
そこで雅史がダイニングテ-ブルと椅子を買ってきたので、ユリの中で何かがブチンと切れた。
自分は部屋が狭くなるからと気を遣って、持っていた物を処分したくらいなのに。
(バカバカ。針五千本のませないと気が済まない……)
ユリはソファの上でゆっくりと寝返りを打った。眉間にシワが寄る。
家具を買ってくるんならソファにしてほしかった。どうしてもテーブルが欲しいならちゃんと相談してほしかった。そしたらこんなに怒らないのに。
エアコンの風は自分に直撃してこないが、空気が乾燥していて咳込んだ。
温かい風が吹いていても、自分の体は生ぬるいままだった。
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