第9話
実際の所、当時の私は度重なる
無論、それは決して悪い意味などではなく、むしろあまりの歓喜に心が打ち震え、神経がスパークし、脳髄が沸騰するような、まさに、脳みそゆで卵のお花畑状態だったのです。
正気を失うなど、淑女としてあるまじき痴態です。理性の
もちろん冷静ではありませんでした。なけなしの理性が直前まで黒龍さんと対峙するのを抑えつけていたのですが、それも吞んだくれ横丁に住まう人々の危機とあっては容易に解き放たれましょう。ただただ、
そんな私を待ち受けていたのは、無慈悲に放たれるビームだかブレスの、どちらにしろ、私もろとも大地を焼き焦がす破壊のうねり――ではありませんでした。
私の理性と正気をかなぐり捨てた、狂喜なる狂気の願いが聞き入れられたのか、黒龍さんは毒々しい緑の光を霧散させて、ジッと私を見つめました。
「どうしたのですか?そんなにもったいぶらず、是非とも教えてください!今ならねこのいえの割引券も差し上げます!」
私は元気いっぱいに両手を広げて、精いっぱいアピールします。
「......何だお前は?なにをしに来たのだ」
黒龍は呆れたようにそう言って、茶ヶ龍さんに促しました。
「おい、茶ヶ龍、なぜ人間がここにいる。貴様、とうとう人間に使役される立場にまで落ちぶれたか」
「とんでもない。この
呵呵と茶ヶ龍さんが笑いますが、私は茶ヶ龍さんに友人だと思われていたことに照れてしまい、でへでへと頬を緩ませて頭を掻きました。
「友人だなんて、光栄なことです」
「一献、盃を呑み交わせば、その者すでに
「なるほど。茶ヶ龍さんは大変に懐が深いのですね」
「はは、そうだろう、そうだろう。どうだい、なかなか可愛らしい素直な
「なに......?」
黒龍さんが信じられぬとばかりに大きな口をあんぐりと開けます。表情の変化に乏しい龍のお顔ですが、なぜだかこの時ははっきりとわかりました。なにを言っているんだこいつは。そう言いたげな表情でした。
沈黙は唸るような地響きによって遮られました。
しかしここは天空にほど近い大空のさなか。およそ大地とは一番かけ離れている世界です。そんな場所で地響きなど聞こえるはずもございません。
ではなんなのでしょうか。不思議に思って耳を澄ませてみると、その怪音は目の前の黒龍さんから聞こえてくるものでした。
「――――!」
途端、世界が音で満たされました。
鼓膜をこれでもかと揺るがす大音声で、黒龍さんが笑ったのです。
萎び鯉さんたちの呑み比べに熱狂する先生たちの比ではありません。目をまん丸にする私をよそに、黒龍さんはこれでもかと
「いや、笑った、笑った。こんなに笑ったのは半世紀ぶりだ。茶ヶ龍、まさか貴様の口からそんな言葉を聞くことができるとは」
くつくつ喉を鳴らしながら黒龍さんは続けます。
「これは傑作だ。これを肴にしばらく呑めそうだ。どうだ、なんなら今から呑むか?無論、街を焼き払った後でだがな」
「いいですね。是非呑みましょう。龍と呑めるなんて、今日は何と幸運なのでしょう。きっと、これからもいいことが続くに違いありません。なんでしたら、呑み比べでもしましょうか?無論、私は負けるつもりなど毛ほどもございませんが」
黒龍さんの言葉尻を奪い取る形で、私は矢継ぎ早に言葉を紡いでいきます。
黒龍さんは私を見ていませんでした。
正確に言うならば、人間である私を見ていなかったのでしょう。彼は終始、私を取るに足らない人間だと決めつけ、その存在すら意識の外に置いていたのです。これでは対話も何もあったものではありません。
であるならば、無理やりにでも私の存在を認識させればよいのです。そしてお会いして間もないのですが、黒龍さんの性格はおおよそ掴めておりました。こういう手合いの対処は慣れております。これもつまらなくも数奇な我が人生の賜物です。あとは虎、あるいは龍の尾を踏まないように注意しつつ、流れに任せるのみなのです。
「......小娘、貴様、今何と言った。龍である我に、呑み比べで勝てるだと?羽虫にも劣る人間風情が、あまり調子に乗りすぎるなよ」
「怖いのですか」
「なんだと」
「人間であるこの私に、呑み比べで負けるのが、そんなに怖いのかと、私は聞いているのです」
私は一度間をおいて、口元に手を当てると、精いっぱい相手を小馬鹿にするような笑みを浮かべました。
「だからそうやって必死に呑み比べから逃げようとするのですね。龍が聞いて呆れます。なんと恥ずかしいのでしょう。恥ずかしすぎて、なんだか身体が痒くなってきました。かいかいです。かいかい」
これ見よがしに身体をくねらせ、腕や足、背中に手を伸ばして掻き毟ります。
もちろん、実際にはまったく痒くなんてありません。しかし、こういうのはパフォーマンスが大事なのです。言葉だけでなく、わかりやすいボディーランゲージでのソウルとソウルの会話。如何せん、種族からして違うので、ここは念には念を入れるべきでしょう。果たして、その効果は覿面に効いているのでした。
真っ赤です。黒龍さんの漆黒のお顔が、にわかに朱を帯びていたのです。黒を基調とした黒赤のカラーリングはいかしていると思うのですが、黒龍さんはどうやらお気に召さないご様子で、わなわなと怒りに震えているのでした。
「わ、我が、この我が、人間如きを恐れているだと?しかも、龍である我を前にして、呑み比べでだと?そんなわけがあるか、貴様。気が変わった。今すぐ貴様を腹の足しにしてやろう」
私から受けたあまりの屈辱に、黒龍さんは怒りに震える声でうめくと、ガパリとその大きな口を開きます。
「おや、私を食べるのですか。それもいいでしょう。今までもあなたはそうやって人間との吞み比べから逃げてきたのですから。呑み比べで勝てないからと、手も足も出ない人間を蹂躙して、呑み込んで。それで人間を取るに足らない存在だというのだから、ちゃんちゃらおかしいと言わざるを得ないです」
やれやれと言わんばかりに肩をすくめます。
「茶ヶ龍さんもそう思いますよね」
「うむ、龍たるもの、挑まれた吞み比べから逃げることなど言語道断。そんなことをしては龍の沽券にかかわる。それがたとえ、小さな人間からのものでもね」
くつくつ、と。喉の奥で茶ヶ龍さんは潜むように笑います。
これには黒龍さんも口を開けたまま硬直するしかございません。
かたや取るに足らないと認識していた人間からの侮辱の嵐。そして同胞である茶ヶ龍さんからも、彼のプライドを刺激する言葉が浴びせられます。
黒龍さんの言葉の端端から、己は龍であるという絶対の自負が感じられました。であるならば、そこをうまい具合につんつんと刺激してしまえば、冷静さを失って
そんなこと知るかとばかりにパクリといかれたら、私は新時代の一寸法師として勇名を馳せることとなっていたでしょう。
うぬぬとばかりに黒龍さんは低く唸ります。私はいつでも食べてくださいとばかりに、茶ヶ龍さんの頭の上で大の字で寝ています。
沈黙は一瞬でした。ぷるぷると震えていた黒龍さんは、大きく開いた口をそのまま天高く掲げて、その怒りを発散するが如く、真っ青な炎を吐いたのでした。ごうごうと燃え盛る炎が、満月の夜を焦がします。
「......確かに、龍であるならば、挑まれた吞み比べから逃げるなど言語道断」
黒龍さんは口の端から白煙を立ち昇らせながら、こちらを睥睨します。
「いいだろう。小娘、貴様と呑み比べをしてやる。ただし、貴様が負ければ、その命共々大地を焼き払ってやる」
「のぞむところです!」
そうして、紆余曲折を経て、私は吞んだくれ横丁を救うべく、黒龍さんと仁義なき吞み比べをすることとなった次第であります。
◇
大空を悠然と流れるふわふわの雲に乗ってみたいとは、幼子ならば誰しもが思う大変かわいらしい夢でございましょう。かくいう私もそのクチでした。しかし、現実とは非情なのです。幼子を脱却して少年少女へと移り変わり、貞淑なる紳士淑女となる頃には、そのような夢など忘却の彼方。遥か過去へと置き去りにした忘れ物となってしまうのです。
かくいう私もそうでした。世界各地の面白きことに興味津々ムネドキドキであるこの私が、あろうことか、頭上を流れる雲へと向けるべき、きらきらと輝く眼差しを、いつの間にか失ってしまっていたのです。
まさに痛恨の極みであります。しかし、そんな私から、皆様及びちびっこたちに、ひとつ、重大なご報告がございます。
雲は乗れます。間違いなく。この私が身をもって証明したのですから。
踏みしめた感触は体操マットに近いでしょうか。弾力がありながらも、ちぎり取れるくらいふわふわもちもちなこの感触は、地上にはないものです。
もちろん、食べました。舌触りと質感は綿あめのようで、口の中に入れた瞬間じゅわッと溶けてしまうのです。
特にこれといった味はしないのですが、さわやかな風味の奥に、どこか懐かしい甘さを感じたような気がします。
これは美味い。失ったことすら忘れていた失せ物を取り戻した私は、目を爛々と輝かせて、足元の雲を貪り食います。
今にして思えば、淑女としていかがなものかと存じますが、うちなる二十歳児を抑えることは到底叶いませんでした。幼き頃、家の庭に降り積もった新雪を、がむしゃらに口に運んだことを思い出させます。
そんな私を心底愉快そうに見つめて、茶ヶ龍さんは話を進めていきます。
「それじゃあ、ルールを説明しよう。といっても、龍との呑み比べに決まりなんてそう多くはない。ただただ、呑んで吞んで、呑みまくる。それだけだ」茶ヶ龍さんは黒龍さんを見つめます。「ただし、相手に危害を加えるのはなしだ。いいかい」
「わかっている。そんな能書きを垂れる暇があるのなら、そこの
黒龍さんは苛立たしげにそう言います。
この時、私は雲を食べることに夢中で、彼らのお話をまったく聞いておりませんでした。まったく、人を褒めるならちゃんとその人が聞いているときに言ってほしいものです。好意というものは存外、人には伝わりにくいものなのです。態度だけで表すのではなく、相手の目を見て言葉で伝える。これがコミュニケーションの極意です。
座り込んで雲をつまむ私の前に、ドスンと音を立てて酒樽が置かれました。酒樽になみなみ注がれたそれからは、芳醇な麦の香りが漂ってきます。吞まなくてもわかりました。これは大変に、飛びぬけて美味な酒であると。
「これは
呵々、と。茶ヶ龍さんは笑い飛ばしました。
なんと太っ腹なのでしょう。先の大先生しかり、我が道筋には気前の良い素晴らしき方々で溢れています。しかし、私の分は事足りすぎるとしても、遥かに巨大な黒龍さんにとっては雀の涙ほどの量しかございません。いったいどうなさるおつもりか。
そんな疑問が顔に出ていたのでしょう。黒龍さんは顎を上げてこちらを見下ろすと、ふんすと鼻息を漏らしました。
「我の酒は我で用意する。貴様はその安酒で満足しておけ」
そう言って、黒龍さんは頭上で浮かぶ巨大な積乱雲に向かって、甲高い咆哮を轟かせました。
辺りにアルコールの匂いが立ち込めます。
酒精の雨の前兆です。
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