第8話
澄み渡る夜空は、いつの間にやら黒々とした曇天へと塗りつぶされていました。頬を撫でる風は異様に冷たく、どこかおぞけを感じさせます。
「龍?まさか、学校から出奔した萎び鯉さんを連れ戻しに、龍が顕現されたというのですか?」
「その様子だと、大方の事情は聞いているのだね。答えは
茶ヶ龍さんは何でもないように柔らかな微笑みを浮かべました。
何という事でしょう。無情にも、茶ヶ龍さんの口から飛び出たのは肯定の言葉。ほどなくしてこの場に龍が降り立ち、この街を吹き飛ばすかもしれないと。
私は驚愕のあまりからのコップを落としてその場で呆然としました。
どうするべきか。考えるまでもありません。まずは人命優先です。
私は右肩上がりに盛り上がり続ける先生方へ向かって大声を張り上げました。
「みなさん、お逃げくださーい!ここはもうじき龍に呑まれてしまいまーす!」
しかし、狂おしいほどに熱狂する彼らの耳には私の叫びなどひとかけらも届いていないようで、皆さま依然として、お二方の吞み比べに夢中のようでした。
「どうやら、ここの連中に何を言っても無駄なようだね」
「むむ、困りました。さすがに、先生方を放っぽり出して私だけ逃げ出すわけにはいきません」
彼らは私の人生の指針足る先生方なのです。そんな尊い方々をこんなところでみすみす散らせるわけにはいきません。彼らの人生にはまだまだ面白おかしいことで溢れかえっているのです。それに、今この場では萎び鯉さんが一世一代の大勝負に出ているのです。それを邪魔するなんて、たとえ仏さまが許しても、この私が許しはしません。
思考は一瞬でした。私は先生方への敬愛と、萎び鯉さんの念願成就、そしてねこさんへのあらん限りの愛情をもって、茶ヶ龍さんと相対します。
「茶ヶ龍さん、私も龍のもとへ連れて行ってください」
茶ヶ龍さんはふむと頷きました。
「死ぬかもしれないよ」
「のぞむところです。いえ、
ウソです。私は腕っ節になんてまったく自信はありません。ですが、この時はノリと勢いでついつい口を滑らせてしまったのです。作り出すほっそりとした力こぶしの頼りなさが、その内心を物語っています。
しかして、それ以外は真心を込めた私の嘘偽りない本音です。正直なのは淑女としての嗜みです。それに、面白おかしいを指針とする先生方を敬愛する私が、龍と相対するなんて素晴らしい状況をみすみす見逃すはずもございません。
後先を考えず、取り敢えずその場の思い付きと淑女的直感で刹那的に物事を判断する快楽主義者。それが私なのです。
「ふむ、まあいいだろう。キミの目はひどく正直だ。腕っ節にはあまり期待できないが、君の人間性は龍からしても目を見張るものがあるだろう。来なさい。ここらじゃ人が多すぎる」
茶ヶ龍さんはふらりと歩みを進めて、粛々と人だかりを抜けていきます。私も慌ててその影についていきます。
そうして辿り着いたのは、吞みものの滝からほどなく離れた路地裏でした。吞んだくれ横丁の一角ではあるものの、みなさん萎び鯉さんの呑み比べを見物しに行っているのか、じめじめとした暗い裏手には人っ子一人いません。
「ようし、時間もあまり残されていない。ここなら他の人々に見られる心配もないだろう。別に見られて問題があるわけじゃあないが、今は何より、時間がないのでね」
心底楽しそうな喧騒を遠くに感じながら、茶ヶ龍さんは言いました。
「キミは私の背に乗りたまえ」
茶ヶ龍さんがおんぶして連れて行ってくれるのかしら。そんな阿呆なことを考えておりましたから、私は目の前で起きた、驚天動地摩訶不思議な現象への反応が遅れてしまったのです。
似たような状況につい先ほど陥ったような気もしますが、今回ばかりは致し方なしと弁明させて頂きます。まさかまさか、人が龍に変化するなんて思いもよらなかったのですから。
◇
茶ヶ龍さんの身体が
光は徐々に人の輪郭を失っていきます。
蛇のように細く、長く、しなやかで美しい鱗を纏う
ゆっくりと、その瞼が開かれました。瞳に宿るは深く湛えた知性の光。賢者のように優し気なそれが、この存在が茶ヶ龍さんと同一であることを示します。
龍です。
紛れもなく、煙でもなく、空想でもなく。おおよそ人の想像し得る最も美しい龍の形が、私の目の前に顕現したのです。
「さあ、乗りたまえ」
龍はその身に宿る神威を放ちながら、威厳あるお声でそう仰りました。
恥ずかしながら、このとき私は、あまりに現実味のない幻想的な光景に放心していたのです。
魔法雑貨を取り扱うお店に勤務しているにもかかわらず、この体たらくなのはひどく情けない限りなのですが、如何せん、理外の
萎び鯉さんの手により生まれ出でた魔法の龍もそうなのですが、まさかその日のうちにホンモノの龍と相対することになろうとは想像だにしていませんでした。しかし、今思えば、ねこという理外の生き物に心奪われた瞬間から、幻想と相まみえることは決定づけられていたのです。
むしろ、今ここで幻想とのファーストコンタクトを済ませておいてよかったという考え方もできます。
もしねこさんと初めてお会いした時に、そのあまりの可愛さと衝撃に放心してしまっては、どんな粗相をしでかすかわかったものではありません。
茶ヶ龍さんには悪いのですが、ここは私に対する試金石として活躍してくださったと前向きに考えさせて頂きます。その効果がいかほどであったかは、ここで述べるのは控えさせていただきましょう。言い訳が見苦しいばかりでありますので。
「驚くのも無理からぬ話ではあるが、今は残念ながらあまり時間がないのでね。いささか乱暴だが、勘弁しておくれよ」
龍あらため茶ヶ龍さんは小さく口を開けると、私の服の襟辺りを咥えて、ひょいッと
「しっかり掴まっていたまえ」
そう言うと、茶ヶ龍さんはその身を小さくうねらせて、するすると天へと昇り始めたのです。
軒を越え、鳥を跨ぎ、昇龍は飛行機雲のように淡い光の軌跡を残して大地を捨て去ります。この頃には頬を掠める風の冷たさに我に返り、キャッキャッと二十歳児を遺憾なく発揮しておりました。あまりのはしゃぎっぷりに、茶ヶ龍さんが呵々と笑ったのでした。
ふと、足元の遥か彼方、きらきらと宝石のように輝く吞んだくれ横丁の一角に、楽しげにうごめく人だかりが見えました。萎び鯉さんと乙姫さんの吞み比べです。彼らはお二人の吞み比べに一喜一憂して、その都度大きな歓声を上げているようで、地響きのような雄叫びと熱気が頭上遥か彼方にまで届いているような気さえします。彼らの決着を見届けるまで、私は決してこの世を去ることができません。
私は決意を新たにし、大地よりも近い距離となった大空へ目を向けます。
「ほうら、
冷え切った闇を悠然と流れる雲の間から、ちらりちらりと覗く漆黒の鱗。紛れもないそれは、巨大な龍の腹でした。
◇
轟々と吹き荒れる風が頬を掠めていきます。髪はたなびいて後方へと流されていきます。
おそらく、今の私はライオンの鬣のような髪型になっていることでしょう。普段と比べて威厳が割増しされたやもしれませんが、お生憎さま、大地を支配する百獣の王では、天翔ける龍に勝てる見込みは薄いと言えるでしょう。
視界を埋め尽くす白が晴れました。雲を抜けたのです。
途端、目に飛び込んでくるのは溢れんばかりの星空。狂おしいばかりに魔力を垂れ流す満月。
そして、こちらを睥睨するのは、もはや全容を想像するのすら烏滸がましいと感じる、巨大な漆黒の龍でした。
「やあ、久しいな。何十年ぶりかな」
きわめて軽い口調で茶ヶ龍さんが挨拶をします。
「たわけめ。二百と四十年ぶりだ。そんなこともわからなくなるほど耄碌したか。叡智の龍が聞いて呆れるな」
雄大な山脈を思わせる巨大な黒龍さんは、丸々と肥えた満月を背負って、ひどく侮蔑するような物言いで唸りました。
「歳を取ると時間なんて碌に意識しなくなるものでね。キミもいずれわかるさ」
そんな黒龍さんの言葉に茶ヶ龍さんはどこ吹く風なご様子。柔らかな雰囲気で諭すように微笑むのでした。
どうにもお二人は旧知のご様子。てっきり会敵して即死闘を繰り広げるものとばかり思っていたので、私は密かにたぎらせてきた闘気を散らして肩透かしです。
まだ姿を現す時ではない。そういう考えのもと、私は茶ヶ龍さんの豊かな鬣の中に伏せてその身を隠します。
出来ることならば、矢面に立って正々堂々勝負を仕掛けていきたい所存ですが、もし茶ヶ龍さんとの対話だけで和平が成るというならば、それに越したことはありません。いつの世も争いは起こるものですが、積極的に起こしに行くほど、私は暴力主義ではありません。いざというときの二の矢として、今は雌伏の時なのです。
「そんなことはどうでもいいい。隠居した老兵が、今更何をしに来たというのだ」
「ああ、ひとつ聞きたいことがあってね。どうにも猛々しい気配で飛んでいるものだから、一体何ごとかと不思議に思ったわけだ。その様子じゃ呑みに来たというワケでもないのだろう」
「無論、そんなわけがなかろう。我々気高き龍が人間如きと馴れ合うなどあり得ない」
黒龍さんは心底馬鹿にするようにふんすと大きな鼻息を吐きました。私はあまりの風圧にひっくり返りそうになりましたが、茶ヶ龍さんの鬣にしがみついてなんとか踏ん張ります。
「我はあの落ちこぼれの人間、萎び鯉を連れ戻しに来たのだ」黒龍さんがひどく嫌そうな様子で言いました。「貴様が奴と交流を取っていたのは知っている。邪魔立てするならば容赦はせんぞ」
途端、黒龍さんは世界の果てまで届かんばかりに大きく咆哮して、その万里の長城を思わせる長大な体躯を猛々しく揺らします。びりびりと
「まいったな。そんなにカリカリするもんじゃあないよ。龍の生は
「ふざけたことを。腑抜けた考えをした龍の面汚しめ。もういい、貴様と話していても埒が明かん。これ以上邪魔をするならば、貴様もろともこの街も消し飛ばしてくれる!」
ただならぬ気配を纏っていた黒龍さんは、全身にたぎらせていたエネルギーを口内に集約させていきます。
大いなる龍の為せる
黒く染め上げられた積乱雲は、月明りに照らされて、まるで天空にぷかぷかと浮かぶ巨大な爆弾のようでした。ゴロゴロとお腹の奥底にまで響く幾千の雷を内包して、黒龍さんの頭上で私たちを見下ろします。
間違いなく、何らかの攻撃の予備動作でしょう。
ビームか、はたまたブレスか。どちらにしろ、私どころか足元に広がる吞んだくれ横丁、それどころか朝陽町全域に被害が及ぶことも考えられます。
そうはさせません。このビーム、あるいはブレスが放たれてしまえば、そこから先は大怪獣バトル勃発待ったなし。そこに私の介入する隙が無いのは自明の理です。そうなってしまえば、いくら不意の矢を飛ばそうとも無意味なのです。
ここしかない。興奮に打ち震える心を無理やり抑えつけ、鬣から飛び出た私は、きわめて冷静に黒龍さんと対峙したのでした。
「はじめまして黒龍さん!私は雑貨屋ねこのいえの配達員をやっている者なのですが!いやそんなことはどうでもよくて!ちょっとお聞きしたいことがあるのですが、よろしいですね!というのも、今となってはその影すら拝むことのできない、この世界におけるもっとも愛らしい生き物、ご存じですよね?ここま言ってしまえばもうお分かりですよね?そう、私はねこを探しているのです!!慈悲深き黒龍さん!どうか私にねこの居場所を教えてほしいのです!!」
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