第5話

 そこはいわゆる路地裏でした。


 吞んだくれ横丁の外れに佇む小さな酒屋と喫茶店の間に伸びる、見るものを奥へ誘うような小さな路地。


 怖いもの知らずな私は勇み足でそこを進みました。

 所有者の知れぬ枯れ果てた植木や、乱雑に置かれた麦酒ビールのケース。それらを意に介さず、己の直感の示すままにずんずんと奥に進み、そして私は見つけたのです。


 最初はどこかのお家の洗濯物が、風の精の悪戯で路地裏に不時着したのだと思いました。


 しからばよく見てみると、どうにもそれらとは毛色が違うことがわかります。


 まず大きさです。

 おおよそ成人男性がすっぽりと入るくらいでしょうか。泥や埃に塗れてはいますが、つやつやとしたナイロン質であることが窺えます。

 どうにも布団らしいぞ、とあたりを付けてみたのですが、それにしては薄いのです。ペラペラです。形状から見るに一枚の布を円筒状にして、何らかの形を象ったものだと推察できるのですが、それ以上に気になったのが、この布に何かが包まれているということです。


 こんもりと膨れた布が、わずかに上下して不規則に影を作ります。そして時折聞こえるいびきらしき怪音。

 おそらく酔いつぶれた先生が寝床を探し求めて路地裏に行きつき、そこで見つけた推定お布団に潜り込み、そのまま力尽きたのだと私はあたりを付けました。


 願わくばこのままぐっすりとお休みしていただきたいのですが、そろそろ夜も深まってくる刻限。次第に寒さも耐え難いものになります。しかも路地裏とあっては他に見つけてくれる人も期待できません。


 ここはひとつ、心苦しいですが先生の身の安全のためにも起こして差し上げましょう。


「おはようございます!お休み中のところ申し訳ございませんが、起きられたほうがよろしいかと」

「......お、おお。なんだ、何事だ」


 そうして推定お布団の中から現れたのは、放蕩学生を思わせる気だるげな雰囲気の青年でした。


 ぼさぼさのくせ毛に野暮ったい丸眼鏡が特徴的です。モラトリアムを有意義に無為にす方法について希求して久しい。そんな印象を受けました。


 歳のほどは私とさほど離れてはいないでしょう。もそもそと這い出た青年は、右手に酒瓶、左手にグラスとといった出で立ちです。吞んだくれ横丁ではこれが標準装備なのです。


 彼はぼさぼさの髪をボリボリと掻いて、こちらを怪訝そうに見つめました。


「なんだね、キミは。せっかく人が気持ちよく夢の世界へ旅立っていたというのに」

「それは大変失礼しました。しかし、このような人目につかない路地で寝入るのは些か身の危険を感じまして。それに夜も深まれば耐え難い寒さが襲ってくるでしょう。差し出がましいでしょうが、おやすみになる場所を変えた方がよろしいかと」


 彼は得心したように頷き、口の周りの無精髭を撫でました。


「なるほど。その寛大な気遣いに感謝しよう。しかし、私は常人ではない故に身体がきわめて丈夫なのだ。たとえ雨の中風の中、吹雪の中だって一晩を過ごせる」

「なんと、素晴らしいです!なんと剛健なのでしょう。もしや、火炎の中へでも容易にその身を沈められるのですか」

「いや、私は熱いのは苦手なのだ。風呂も人肌ほどじゃないと入れない」


 なるほど。この御仁、只者ではないようです。


 自らを常人ではないと称していましたが、確かにその佇まいからは、ただの放蕩学生からは感じられぬ凄みを漂わせます。


 いうなれば、講義へ一度も出席せずに、気が付けば同期は卒業を控えていて、もはや焦りを通り越して出自不明の余裕すら浮かんでくる。そんな雰囲気です。


 そんな彼は、会話の最中も壁にもたれるようにして座り込み、起き抜けの一杯をキメてほうと一息ついています。


 私の不躾な視線に気が付いたようで、彼はグラスをほれとこちらに寄越しますが、丁重にお断りしました。お酒は「竜宮城」にてたらふくいただいたので、今宵の飲酒は休業なのです。


「それで、キミはなんだってこんなところに来たのだ。私が言うのもなんだが、ここはキミのような女性が来るところではないのだが」

「そうでした。私は人探しをしているのです。起き抜けに恐縮ですが、萎び鯉という御仁をご存じありませんか」


 そう言うと、彼は眠そうに開かれた目をまん丸にして


「私がそうだが」


 と、そう呟きました。


 なんということでしょう。

 我らが「ねこのいえ」を発ってはや数時間となりますが、ようやく萎び鯉さんのもとに辿り着きました。


 思えば、ここまでの道のりは険しいものでした。

 茶ヶ龍さんに抹茶をご馳走され、溢れんばかりのりんごジュースの瀑布を口で受け止め、乙姫さんの居城にて酒浴びデスマッチ。波乱万丈と言って差し支えないでしょう。


 しかし、それらの苦労がようやく実を結ぶ時が来たのです。

 私は配達鞄から布で包まれた煙管を取り出して、萎び鯉さんへ差し出しました。


「萎び鯉さん。遅ればせながら、雑貨屋ねこのいえよりお届け物を配達にまいりました。こちら、ご注文の魔法の煙管でございます。どうぞ、お納めください」

「...とすると、キミはねこのいえの配達人なのか」

「はい!この春より不肖わたくしめが、ねこのいえの配達人を任されております!」


 すると、萎び鯉さんは慌てた様子で地面に捨て置かれていた布にくるまってごそごそと何事かしています。


 「少し待て!」


 何か事情が御有りなのでしょう。

 私はおもむろに布にくるまった萎び鯉さんを珍妙な面持ちで見守っておりました。


 その時にふと、気が付いたのです。


 私が推定布団だと推測していた布の正体。

 これは寝具なのではなく、鯉のぼりだったのです。泥や埃に塗れていて、一見しては判別できませんでしたが、萎び鯉さんが身動ぎをすることによって差し込んだ月光に朱色の鱗が反射してキラリと輝きました。


 なるほど。萎び鯉とはその名の通り、薄汚れた鯉のぼりを愛用することからつけられた通称なのですね。しかし、せっかく通称を名乗られるのでしたら、もっと恰好いいもののほうが良いのでは。


 猛り鯉なんてのはどうでしょう。

 煙管を受け取ってもらえたら、萎び鯉の由来をお聞きするのも良いかもしれません。


 そんな阿呆なことを考えておりましたから、不覚にも私は、目の前で突如起こった出来事に上手く反応することが出来なかったのです。







 鯉のぼりに身体をすっぽりを埋めた萎び鯉さんが、その動きをどんどん激しくしていきます。


 まるで陸に打ち上げた魚のように、その身をうねうねとくねらせると、途端に宙に浮き、文字通り今度は水を得た魚のように路地裏を駆け出したのです。


 右へ左へ。上へ奥へ。それはさながら登竜門を登り損ねた半端な龍のようで、些か滑稽な光景でした。


「やあやあ、我こそは吞んだくれ横丁の萎び鯉なり。我が愛しき安眠を遮るとは何たる狼藉か」


 縦横無尽に駆け巡っていた萎び鯉さんはお店の軒ほどの高さでふよふよと静止します。


 そうして鯉のぼりの口から上体だけ覗かせて、見得のようなものを切りました。


 萎び鯉さんの雰囲気や摩訶不思議な状況と相まって、妙な迫力を感じられます。


 それらの理由に関しては先ほど述べたと思うのですが、しかし萎び鯉さんにも何かお考えがあるのでしょう。


 宙を駆け出した萎び鯉さんへの驚愕は一旦捨て置いて、空気の読める私は今一度、萎び鯉さんと相対するのでした。


「やあやあ、我こそが雑貨屋ねこのいえより参った専属配達人であるぞよ。今宵は遅ればせながら、其方宛の配達物をお届けに参った次第である」

「うむ、なれば其方の狼藉も許そう。我は寛大なる龍故に、ただ人へ配慮ができるのだ」

「ははー!ありがたき幸せー!......ところで、寛大な龍である萎び鯉さんは、如何なる理由でこのような路地裏でお休みになられていたのですか」


 そう聞くと、萎び鯉さんはその勇ましくあつらえたお顔を涙でくしゃくしゃにして、おいおいと泣き始めたのです。


「おお、おお。よくぞ聞いてくれた。私はこのひどく寂しい路地裏で、人の心というものについて思索に耽けていたのだ」

「それはなんとも哲学的ですね」

「しかるに、きみは恋愛という言葉について思考を巡らせたことはあるか。愛し恋し。たった一文字だけでも凄まじいまでのロマンティックと胸の苦しみを生じさせる言葉を二つも連ねたのだ。ひとたび心に恋愛こいあいの甘い毒が巡れば、死病の如き焦燥感に駆られてしようがないだろう。かつての私はそんな連中を鼻で笑っていた。学生の本分は勉学である。龍なんてチョロいといそぶかれていたのは幾世紀も前の話だ。私は偉大なる龍となるため、本気で登竜門の門戸を叩いたのだ。しかし、忘れもしないひと月前の出来事だ。私は恋をした。いや、これは恋や愛なんて生易しいモノではない。私の胸の奥でぐつぐつと煮えたぎるこれは、既存の言葉で表現できるものでは無いだろう。私の灰色の脳細胞は瞬く間に桃色に染め上げられ、私の頭の中には常に彼女が居座ったのだ。きっかけは友人と気紛れにとある店に入ったときだ。そこは雑居ビルの一階に位置する。ネオンで飾られた店で下品な看板が大々的に掲げられていた。そんな店だから、私は酒もなにも期待していなかったのだが、そこに彼女はいた。彼女はその店一番の女であるらしく、引く手数多であった。しかしそんな中、彼女は新参者である私たちの席へ来て酌をし始めた。私は尋ねた。何故呼んでもいないのに来たのかと。そうするとその女は答えた。私たちに興味があったからだと。その時は思わず鼻で笑い飛ばしたが、彼女と親交を深めるうちにその認識も一変した。聞き上手で理知的で、しかし私が意見を求めると物怖じせず忌憚なき言葉をくれる。おまけにその容姿は野原に咲く一輪の鈴蘭すずらんの如く可憐で、その笑みは優しくもありどこか妖しくもあった。存外に楽しめた私は以降も彼女に会いに行った。だがそこで私ははたと気づいた。彼女は私に惚れている。私が彼女に惹かれていると同時に、彼女も私に惹かれていたのだ。なんと運命的か。両想いを悟った私はすぐに彼女に想いを告げた。しかし告げられた言葉は非情なる拒絶であった。恐らく、店と客という立場が我々の愛の障害となっているのだろう。まさにロミオとジュリエットである。しかし障害があるからこそ秘めたる情念は燃え盛っていくものだ。そう考えた私は店に通いつめた。そうしてその度に彼女に想いを告げた。だがその度に彼女は曖昧な笑みと共に拒絶の言葉を吐く。何故だ。何故分かってくれないのだ。君がたった一言告げてくれるだけで、私は如何なる手段を使ってでもここから連れ出してみせる。ロマンティック暴走機関車となった私は、恋と愛を燃料に、彼女の手を取ってそう叫んだ。......そこから先は記憶がハッキリとはしていない。いつの間にやら私は酒瓶とグラス片手に店の表へ放り出されていた。ひりひりと熱を飛びた右頬が、ひんやりとした冷気に晒されてひどく傷んだのを覚えている。痛む頬に手を当てて、逡巡の果てに気づいた。私はフラれたのだ、と」


 語り口が激化するにつれて、空中を縦横無尽に駆けていた萎び鯉さんは言葉尻を弱弱しくしていきます。


 そうしてとうとう、木枯らしに吹かれて落ちる木の葉のように、その身を大地に落としました。


「私のどこがダメだったというのだ。今ではこんな体たらくだが、私は本来ならば秀才なのだ。こんな辺境で燻ってはいけない存在だ」


 鯉のぼりを噛みしめて路地裏の石畳にこぶしを叩きつけながら、萎び鯉さんは慟哭します。


 先ほどまでのあふれんばかりの貫録を背負う姿との落差に私は思わず面を食らいますが、その間も萎び鯉さんは構わず言葉を紡ぎます


「私だって阿呆ではない。告白の言葉に拒絶の一撃を食らった以上、私にも何か非はあるのだろう。友人に愛のある叱責をされ、私は今一度彼女にふさわしい男になる決意をした。なれば、まずは己がなぜ拒絶されたかを考えねばなるまい。私は考えた。知蛇瀑のうねる水流に打たれながら瞑想し、茸山のてっぺんに住むといわれる仙人のもとへ教えを乞いに赴いた。東西教へ入信して悟りの道を切り開こうと試みるも、あまりに俗世にまみれていると早々に追い出された。そのほかにもあらゆる方法を試したが、それでもわからなかった。私は途方に暮れた。万策尽きたのだ。もう私にできることはこうやって、人目につかない路地で、脳みそを酒で浸して無為に思考に耽るしかないのだ」


 そうして言葉を締めくくった萎び鯉さんは項垂れると、おもむろにこちらに顔を向けます。


 その顔は雨に濡れた迷子の子犬のような、絶望と諦観を綯い交ぜにしたような、そんな悲壮を漂わせておりました。


「なあ、私はどうしたらいいのだ」


 狭い路地裏に、萎び鯉さんの救いを求める声がぽつりと溶けました。


 茶ヶ龍さんの言っていた通り、どうにも萎び鯉さんは意中の異性にフラれて傷心中のご様子です。それだけならまだしも、彼は自分がフラれた理由がわからず奔走しているうちに、人生の歩み方すら忘れてしまったご様子。これは大変な事態です。


 私といたしましても、萎び鯉さんには意中の女性と結ばれて元気になっていただきたいのですが、如何せん私も恋や愛の色ごとに関しては未だ求道者の身。故に、人にどうこう言えるほどの見識を持ち合わせておりません。


 しかし、俗世に塗れ、特別な知識、才覚を持ち合わせていない平々凡々な私ではございますが、ことに人生の歩み方に関しては少々一家言のある身です。


 ここはひとつ、若輩者ではございますが、わたくしめが一肌脱いで御覧に入れましょう。


「萎び鯉さん。あなたは今、己のうちに潜り込んで探求するあまり、自分そのものを見失ってしまっているのです。まずは顔を上げ、思い切り深呼吸してください」


 言われるがまま。萎び鯉さんはしおしおに萎びてしょぼくれた顔を上げ、何度か大きく息を吸って吐きました。これで少しは気持ちも落ち着いたでしょう。私はその様子を確認して言葉を続けます。


「いいですか萎び鯉さん。人は平等ではありません。ですが、それでもただ一つ平等なことがあります。それは生まれながらにして、皆人生という壮大な長編ストーリーの主役ということです。ただあなたは、今その主役という大役を、不覚にも見失っているにすぎないのです」

「ではどうすれば人生の主役とやらに返り咲けるのだ。私はそんな大層な方法、寡聞にして知らぬぞ」

「そんなもの至極簡単なことです。特別な才覚、容姿、資産、国家資格等は一切必要ありません。それでは不肖この私が、萎び鯉さんにその方法を伝授して差し上げます。まず、顎をクイッと引いて、背筋を伸ばすのです。その際、胸を張るのを忘れないようにしましょう。気分はスーパーマンです。そうすれば後は簡単です。己の脚を使って、己の心に従うまま歩くのです。そうすると、アラ、不思議!いつの間にか楽しくなって、笑顔が生まれてえにしが出来て、金運は巡り、天運はもはや我が手中と言っても過言ではありません。ほら、萎び鯉さんも、私に続いてください!」


 そう言って、私はムンと胸を張って威風堂々風林火山、大手を振るって喧騒と酔いであふれる街路に繰り出していきました。


 私の勢いに押された萎び鯉さんは、不承不承といった顔で私に追従します。


 私のしぐさを見よう見まねで真似して、不器用ながらその歩みは進んでいきます。堂に入らず些か不格好な歩き方ですが、それでいいのです。


 彼が座り込むことをやめて歩き出した。それが重要なのです。


「本当にこんなことで私は主役になれるのか」

「違います。厳密にいえば、たったこれだけのことで主役だったことを思い出すのです。細かな違いではありますが、ここは譲れない重要なポイントです」


 風の向くまま気の向くまま、私は迷いなく歩みを進めます。


 己が今どこを歩いているのか、そしてどこへ向かおうとしているのか。それはさして重要なことではありません。大事なのは己の選択に従って歩みを進めること。そしてその選択にもさしたる理由はいらないのです。


 舞い踊る蝶々に心惹かれて、美味しそうな匂いに誘われて、石畳に刻まれた紋様を辿って。


 そんなくだらないことがいいのです。


「おい、私たちはどこへ向かっているのだ。こうも変に堂々と二人連れだって歩いていると、そろそろ観衆の視線も気になってくるのだが」

「いえ、別に目的地はないのですが。強いて言えば、そろそろおなかの虫が騒がしくなる刻限ですので、酔いの匂いに紛れる美味しそうな匂いを辿っているのです」

「なに、そんなくだらないことのために私を連れだしたのか」

「食事を甘く見てはいけませんよ。一食抜くごとに寿命が一日減ると私の祖母は言っていました。それにこの程度の視線を気にしていては、人生という名の悪路を歩むことなど到底できようもありません。のちの偉大なる龍がそんな体たらくでどうするのですか」

「なにおう。いいだろう。そこまで言うならばやってやろうではないか。私は未来の偉大なる龍だ。有象無象の視線など、意に介すほうが不自然というもの!我が鮮烈な歩み、とくと見るがいい!」

「そうです、その調子です!」


 この時、私は萎び鯉さんの言う龍が何を指すのかはイマイチわかってはおりませんでしたが、それっぽく焚きつけてみると、萎び鯉さんは面白いくらいに煽られてくれました。


 先ほどまでの消極的姿勢はどこへやら。大げさなまでに胸を張り、大きく手を振って行進しております。その顔には不敵な笑みまで浮かんでいらっしゃいます。


 素晴らしい、素晴らしいのです!


 萎び鯉さんは今まさに人生の大舞台に再び上がろうとしているのです。しかし、ここで気を抜いてはいけません。もしかすると舞台袖にバナナの皮が落ちているやもしれません。


 私が歩む分にはむしろどんとこいの精神で踏みに行くのですが、萎び鯉さんは傷心の身。万が一転んでしまっては再びお怪我をされて、今度こそ立ち上がるのに難儀するやも。ここは慎重に慎重を重ねるのです。


「では、萎び鯉さんも納得されたことですし、ここはひとつ腹ごなしに参りましょう。安心してください。行く宛の一切は決まっておりません!」

「いいだろう。こうなったら私はキミにとことん付き合おう!」


 張り巡らされた提灯ちょうちんの間から覗く、果てのない空をビシッと指差して、私は宣言しました。


 萎び鯉さんも同調するように吠え、いつの間にやらその顔からは一切の憂いが消えています。


 やけっぱちとも言えますが、何はともあれ萎び鯉さんは再び歩き方を思い出したのです。


 今この時より、今宵の主役は萎び鯉さんへ移り変わったのを確信しました。


 心持ちを新たにした萎び鯉さんと私は、すっかり夜も更けた吞んだくれ横丁を二人連れだって快活遊歩。その両の脚が行く先は、私たちの気まぐれと、おなかの虫が求めるところとなるのです。


 だんだんと楽しくなった私は、いつものようにお歌を垂れ流し始めました。


 そして萎び鯉さんもグラス片手にお顔を赤くして、陽気に鼻歌を口ずさんでいます。


 彼の奏でる音階や旋律に囚われない調和的な不協和音は次第にその勢力を高めていき、不格好な五線譜を巻き起こしながら呑んだくれ横丁を席巻します。


 音程もへったくれもないお歌は萎び鯉さんの心中を吐露したものでしょう。悲恋や人生についてをがたがたのリズムに乗せて、講釈めいたうたを垂れています。


 常人ならば思わず眉を顰めるような歌声ですが、あいにくこの街に常人などいるはずがないのです。道行く人々は萎び鯉さんの振り切ったお姿に興味津々のご様子です。


 こうして、萎び鯉さんは吞んだくれ横丁の隅で打ち捨てられた薄汚れた鯉のぼりから、呑んだくれ横丁の一夜を風靡する、猛々しい鯉のぼりへと姿を変えたのです。


「よお兄ちゃん。なんだそんなへたくそな歌うたって。失恋でもしたのかい」


 萎び鯉さんのロックめいたバラードに惹かれて、店先で呑んでいた先生が声をかけてきました。例の如く、お顔は真っ赤です。


「なにおう。貴様に私の歌のすばらしさがわかるものか。だが私は寛大な龍ゆえに、貴様の問いには答えよう。...私は恋に破れた!」

「わはは。それなのにそんな面白そうに歩きやがって。気に入った。腹はすいてないか?焼き鳥でもおごってやろう」

「断る!なぜなら、私は今、焼き鳥の気分ではないのだ!そんなに私におごりたくば、我々についてくるがいい!」

「なんだ。ますます変な奴だな。だが気に入った。今日の俺は懐が暖かいんだ。お前が立ち直るまでたらふく食わせてやる!」


 そう言って、喫茶店のテラスや居酒屋で吞んでいた先生が一人、また一人と列に加わっていきます。


 そうなればもはや止まりません。

 ひとつ歩けば酔っ払い、ふたつ歩けば飲み友達、みっつ歩けば大宴会。


 毎日をおもしろおかしく過ごすの精いっぱいの人達ですから、こんな妙ちくりんなことを放っておくわけが無いのです。


 気が付けば、その列は大名行列もかくやというほどに膨れ上がっておりました。


 皆自分勝手にお酒や紅茶、各種飲み物を持ち寄り、呑んで騒いで大行進。なんでもない日をひたすらに楽しみ、その盛り上がりはお祭りもかくやという熱狂ぶり。


 中にはなぜ行進しているのかわからぬまま列に身を寄せた方もおりましょうが、そんな方々も皆笑って楽しんでいるのなら、それはそれで正解なのです。ただ歩いて楽しむのに意味はいらないのです。


 萎び鯉さんもすっかり笑顔が板についてきました。

 この長蛇の列を率いる長としての貫録といいましょうか。先ほど鯉のぼりを被って宙を駆けていた時よりも、一段と雰囲気がおおらかになっております。


 そんな萎び鯉さんを後ろから眺めつつ、私は笑みをこぼします。そうです。萎び鯉さんはいつの間にやら私を追い越して、自ら先陣を切っているのです。


 もはや私が言うことはありません。老兵はただ去り行くのみ。あとは萎び鯉さんの歩むがままに、我々の行く先は決まっていくのです。


「む。この素晴らしくいい匂いはなんだ」

「たしか、ここは街でも評判の喫茶店ですね。なんでもデミグラスソースオムライスが美味しいらしいですよ。おそらくその匂いでしょう」


 気が付けば私たちは、吞んだくれ横丁の外れにある喫茶店の前で足を止めていました。


 雑踏とした吞んだくれ横丁にあって、その赤煉瓦造りの外装はひどく目に留まりました。しかし、不思議と浮いた印象は受けず、周囲に溶け込んでいます。


 扉に掛けられた「open」の看板。

 小窓から覗く限り店内にお客は見受けられませんが、マスターらしき人物がコーヒーを淹れている姿が確認できました。どうやら誠意営業中のご様子です。


「萎び鯉さん、いかがいたしますか」

「うむ。私の腹の虫が言っている。今日はオムライスの日であると。今宵の夕餉はこの喫茶店でいただくとしよう!」


 そうして私たちはこの喫茶店「aqua」で夕食をいただくこととなりました。

 夜も更けたころ、急に雪崩れ込んだ大量の酔っ払いに度肝を抜かれるマスターさんでしたが、ワケを話すと心底面白そうに私たちを迎え入れてくださいました。お優しい限りです。

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