第4話

 突然ではありますが、私は下戸ではございません。


 しかしながら、大変残念なことに、酒豪と呼べるほどの大酒呑みでもございません。


 この呑んだくれ横丁を訪れるようになって幾ばくか経ち、私の顔も皆々様方に知れ渡ったことで、光栄にも呑みの宴席、とりわけ酒精の席に招かれることがあります。


 お仕事中は苦渋の決断の末、渋々丁重にお断りしているのですが、お届け終わった後などは、たまにお邪魔させていただいております。


 そして前述の通り、この呑んだくれ横丁では酒精に限らずありとあらゆる呑み物が酔いの種でございますので、必然的に呑みの席と言ってもハイティーや夜茶会の場合がございます。


 そんな時は気軽に立ち寄って先生方と抹茶や紅茶に舌鼓を打つのですが、私はいつも一抹の寂しさを感じていました。


 周りの先生方は顔を赤らめてワハハと楽し気に笑っているのに対し、私はいつもと変わらぬ素面しらふであるからです。


 もちろん、だからと言って楽しくないわけではないのですが、折角の一種一瓶いっしゅいっぺいにも関わらず、先生と呼んで慕う方々と同じ酩酊感に浸れないというのは中々に堪えるものがあるのです。


 故に、私は吞んだくれ横丁のど真ん中に鎮座するお洒落なバーやクラブなどの、いわゆるホンモノの紳士淑女のお店に心惹かれていたのです。


 とある雑居ビルの三階に居を構える「火星探査」は王道を往く大人のバーです。


 話を聞くに、このお店に出せない酒はないと謳われているとか、いないとか。


 店内は黒を基調として揃えられ、奏でられるジャズが洒脱な雰囲気を後押ししています。カウンターの奥には色とりどりのお酒が所狭しと並べられ、まるで宝石のように私の心を誘惑するのです。


 私はお酒をちびちびと舐めながら、次はどれを頂こうかしら、と思案に耽るのが好きなのです。


 マスターさんはこの道半世紀にもなる歴戦の猛者です。


 顔に厳めしい皺をこれでもかと刻み込んだお方ですが、その実おしゃべりで大変お茶目なのです。


 というのも依然、私がお仕事帰りに先生方の宴席にお邪魔した帰りのことでした。ぽわぽわ気分の夢見心地で帰路についていると、道端で蹲っているご老体がいるではありませんか。


 途端に酔いも吹き飛んだ私は事情をお聴きし、すぐそばにあるという彼のお店へおぶって連れて行ったのです。


 幸いお腹が空きすぎて動けないというチャーミングな理由でしたので大事なかったのですが、その日は大変冷え込んでいたため、もし私が通りがからなければ危なかったやもしれません。


 マスターさんからもお礼と共にそのようなことを言われ、感謝の印として「火星探査」に赴いた際はカクテルがなんでも一杯無料で提供してくださる約束を取り付けてくださいました。


 中々衝撃の出会いでしたが、今でもお仕事帰りなどにはたまに寄らせていただいております。


 また、そのビルの最上階にはクラブ「happiness」が意気揚々と終日営業しております。


 ピンクネオンの蛍光色で「hapiness」の看板を堂々と構えるこのお店を、私がこのビルの前を通るときいつも仰ぎ見ると決めているのです。というのも、いつ何時なんどき見上げても大きなガラス窓から七色の光が絶えず漏れ出していて、非常に楽しい気分になるからです。


 あのお店では一体全体どのようなお酒が振舞われ、そしてどんなパフォーマンスが行われているのでしょう。きっと天井にはご機嫌なミラーボールが人々の影を七色に染め上げ、何も呑まずともむせ返るようなアルコールと、大人の雰囲気で溢れているのでしょう。


 そうやってぽわぽわと想像するだけで楽しく幸せな気分になれるのですから、素晴らしいお店であるのは間違いありません。


 そしてビルの一階。通りに面して堂々とその門構えをさらけ出しているのはキャバレー「竜宮城」。「可愛い!」「酒!」「パフォーマンス!」等々、煌びやかなネオンに飾られた扉を抜けると、そこは限られた大人しか足を踏み入れることのできない前人未到の大人世界。


 そこかしこでお酒を飲み交わす男女で溢れ、しかし表の喧騒に比べてどこか落ち着いた雰囲気を感じさせます。それを後押しするように、店内にはクラシック音楽が流れ、彼らは穏やかに会話を楽しんでいるのです。


 そんなキャバレー「竜宮城」の店内にて。

 ふと、ある男性の視線がお店の奥へと吸い込まれます。


 そこには一段高くなったステージ上で、何やらセットが組まれる最中でした。

 顔を隠した黒子によって備え付けのグランドピアノがそそくさと運ばれ、大きな机と椅子が二つ、そして演目台が運ばれてきます。


 なんだなんだとお客が湧き立つことなど我関せず、何かしらの準備は着々と整えられていきます。


 パタリと店内の照明が落ちました。

 何の説明もないまま急に視界が暗転したお客さんは騒然とします。しかし、そんな喧噪を切り裂くような声が、店内に響き渡るのでした。


「レディース&ジェントルメン!今宵の酒宴、いかがお過ごしでしょうか。まずは何の説明もないまま急な催し事をお許しください。しかし、それも致し方なき事。今宵、我らが絶対王者への挑戦者が現れたのです!それはどんな益荒男か。いかような呑みっぷりを魅せてくれるのか。もはや口上は不要でしょう。――只今より、竜宮城酒浴びデスマッチを開催いたします!」


 静まり返る会場。

 途端、爆ぜるような大喝采。


 先ほどまで紳士の皮を被っていた彼らも、心根は立派な呑んだくれという事でしょう。


 酒浴びなんて単語を聞いてしまえば、その胸に秘めたる情熱が沸き立って居ても立っても居られない。そんな熱気が店内に溢れかえりました。


「さあ、紹介いたしますは我らが絶対王者であり、そして竜宮城No.1キャスト。その妖しい笑みに魅了された異性は数知れません。今宵はいくつの酒樽が転がることになるのでしょうか。登場していただきましょう――乙姫〜!!」


 鳴り止まぬ歓声の中、悠々と登壇したのは乙姫さん。


 しっとりとした足並みで席に着く彼女からは絶対王者たる風格が感じられ、その口元には余裕の笑みすら見受けられます。


 どんな相手が来ようとも正面からねじ伏せる。そんな気迫すら感じられます。


「対して、その経歴のほとんどが不明。乙姫からその呑みっぷりを見初められ、急遽この題目を催すことになった張本人!乙姫をアッと言わせたその呑みっぷり。是非とも拝見させていただきましょう!」


 そうして登壇したのは、肩から大きな斜め掛け鞄を掛ける、どこか場違いな印象を受ける乙女。


 小柄な体躯ながらもその図々しくも堂々とした足並みは、その雰囲気を一回りほど大きく見せます。


 口元には乙姫さんの笑みと同種のものが浮かんでおり、何処からその自信が湧いてくるのかという疑問を観衆に抱かせたことでしょう。そしてのっしのっしと胸を張って歩く様は、少なくとも挑戦者のとる態度ではないのでした。


 つまりは私です。


 数奇な運命に手繰られて、私はねこを知る女性――乙姫さんと呑み比べをすることと相成ったのです。


 半刻ほど前、乙姫さんがまるで魔女のようなイジワルな笑みを浮かべるものですから、果たしてどのような難題が課されるのかとひやひやしておりました。しかし、蓋を開けてみればただのお酒の呑み比べとのこと。


 どうにも私のりんごジュースの滝の呑みっぷりを見てから、うずうずして仕方がなかったらしいのです。そんな折に私の何でもする宣言でしたので、これ幸いと乙姫さんと私のマッチが組まれることとなった次第です。


 当の私は、あらそんなことでいいのかしら、と暢気に考え、乙姫さんのこの条件を快諾いたしました。


 しかし、マトリョーシカの如く更に蓋を開けてみると、乙姫さんはキャバレー「竜宮城」のNo.1キャストであり、この吞んだくれ横丁でも並ぶものはいないと噂される伝説の蟒蛇うわばみだったのです。


 のちに安請け合いした私は戦慄するのですが、逆に考えればそのような御仁と酒席を共にできるのは大変名誉なことであり、乙姫さんは私の呑みっぷりに惚れて勝負を仕掛けてきたのです。


 このような素晴らしき女性に誘われて、どうしてお断り出来ましょうや。据え献呑まぬは女の恥です。


 そうして私はかねてからの憧れでありました「竜宮城」の門戸を叩くこととなったのでした。


 ステージ中央で立ち止まって、私はこちらに目を向ける大勢の紳士淑女の先生方を一望します。


 彼らは皆一様に顔を赤らめ、しかしその目の奥には今か今かと待ちきれない期待がちろちろと見え隠れしています。


 なれば冗長な挨拶など不要でしょう。

 私はその期待に応えるべく、口角を不敵に歪めて、高らかに宣言します。


「今宵、伝説を塗り変えます」


 呑んだくれの雄叫びと共に、戦いの火蓋が切って落とされました。







 聡明な読者諸賢の皆様であればうの昔にお気づきではありましょうが、ここはあえて言わせていただきます。


 不肖わたくし目はこの時、乙姫さんとの呑み比べ、ひいては「ねこ」の情報を勝ち取るのに無我夢中で、魔法の煙管を萎び鯉さんにお届けするという己の役目を忘却の彼方へ置き去りにしていたのです。


 恨むべくは己の刹那主義的な歩みでしょう。「ねこのいえ」の配達人であるという自負を持ちながら、街へ繰り出すや否や、配達依頼を忘れて己の快楽に耽る。


 字に起こしてみるとなんと退廃的で自堕落なのでしょう。呆れてものも言えません。


 しかし、誠に残念なことに、このような事例は今回が初犯というわけではないのです。


 依頼を受けてすたこら赴き、その道中でえにしを結び、廻りまわって万事解決。


 私のつまらなくも面白き人生は、おおよそそのような構造で成り立っていますので、いつしか私は、結果論で物事を考えることが多くなったのです。


 終わりよければすべてよし。みんなでを囲んで大団円。人生の結びにこそ多福を。

 私は、大変に楽観的でご機嫌な結果論者なのです。


 人生に無駄はないと私は考えます。

 すべての行動には意味が生まれて、そしていずれそれは私の歩みとぶつかるのです。


 その過程は二転三転したのちに、複雑多岐な経路をたどって、紆余曲折の果てに因果を越えてやってくるもので、どの縁が何に結び付くかなど予想もつきません。しかしそれでいいのです。


 人生は何があるかわからないからこそ面白い。歩みの果てに何が待ち受け、どのような苦悩が待っていようとも、私は正々堂々と受け入れる所存です。


 故に、今でも私はこの寄り道についてなんの後悔もしておりません。無論、落ち度がないかと問われれば、むしろ落ち度しかないように思えますが、そこは一旦目を瞑りましょう。私はご機嫌で都合のいい淑女なので。


 はてさて、愚かにも私は、この吞んだくれ横丁一の蟒蛇と噂される乙姫さんとの一騎打ちをすることとなりました。


 「竜宮城」を統べる彼女はあまりある強者の余裕と貫録をもって、挑戦者たる私を待ち構えます。


 結論から言いますと、私は見事な大敗を喫するのですが、そんなことで私の歩みは止まらないのです。


 酒精は呑んでも吞まれるな。伝説をどうとかのたまっていたような気もしますが、あれは場の雰囲気に吞まれてしまっただけなのでお気になさらずに。


 今思い出すと、顔から火が出そうなほどの羞恥が身を焦がすのです。







 乙姫さんとの酒浴びデスマッチは表面上は和やかに緩やかに始まりました。そして舞台上に空となった酒瓶の墓標が乱立し始めたころ、私はようやく己の愚かさを悟ったのでした。


 もはや「竜宮城」の店内は酒精のサウナ状態です。


 吞んだくれの熱気と、気化した酒精があたりを漂っているのを肌で感じられます。


 題目は「竜宮城」秘蔵のシードルの吞み比べだったのですが、いつの間にやらあまりに芳醇なりんごの香りに包まれているものですから、なんだか視界まで蜜を貯め込んだ黄金色こがねいろになったかのように錯覚してしまいました。あの時、「竜宮城」内の空気中りんご濃度は類を見ない数字を記録していたでしょう。


 先生方は私たちの呑み比べを肴に酒気を吸い込みにっこり。私は何杯目かもわからぬシードルを呷ってぽわり。乙姫さんはそんな私の様子を楽しそうに肴にしておかわり。


 デスマッチが始まって半刻もせず、「竜宮城」には地獄のような天国が出来上がりました。


「あはは!いいわ、いいわね。その呑みっぷり!お酒はまだまだあるからね。もっともっと破裂するまで呑みなさい!」


 もう何杯目かもわからぬグラス片手の乙姫さんに、「のろむところれす!」と呂律の回らぬ舌で吠えたのを覚えています。


 最初はそんな絵図を楽しんでいた私も、次第に許容量を超えた酒気に充てられ、ぐるぐると目を回してあえなくダウン。カウントをとられて鳴り響くゴングの中、私の王者挑戦は幕を閉じたのでした。


 そこからの記憶は曖昧なのですが、気が付けば私は、乙姫さんの膝の上で看病されておりました。いわゆる膝枕というやつですね。


 ちなみに、愛しのねこに関する情報は結局聞けずじまいでお開きとなりました。


 二十歳児を発症した私は乙姫さんの膝の上でみっともなく駄々をこねたのですが、勝負は勝負だとぴしゃりと諭されてしまいました。しかし、同時にいつでも勝負は受けると宣言してくださったので、私の絶対王者への挑戦権はいまだ健在なのです。


 私は負けず嫌いなのです。必ずやこの吞んだくれ横丁一の蟒蛇乙姫さんを打倒することを心に刻み込み、私は呑んだくれで賑わう街に三度繰り出したのでした。


 夜の帳が下りて久しい刻限となりました。


 往来する人々もその赤ら顔に笑みを浮かべて非常に楽しそうです。吞んだくれ横丁はこれから全盛に入るのです。


 「竜宮城」でも私と乙姫さんの一騎打ちに感化された先生方が、乙姫さんに一気呵成に勝負を申し込んでおりましたから、おそらくこの夜はまだまだ続くのでしょう。


 紺色の空から吹いてくる冷えた風が頬を撫でて、頭の中がしゃっきりとします。いまだ冷える時期ではありますが、この時ばかりは火照った身体に染みて身が引き締まる思いです。


 幸いにして、私は悪酔いをするということはなく、たとえ酒精に浸るほど呑んでもことはないタチなのです。


 故にその足並みが狂うことはなく、私は二の次にしていた萎び鯉さんを求めてずんずんと歩みを進めます。頬が赤いのはご愛敬です。


 しかし、この時私の心はいつも以上に昂っていたのを覚えています。というのも、先ほど申し上げた通り、酒宴の席にて先生方と酔いの楽しみを共有できないことが、私の数少ない悩みでした。


 ところが今の私は「竜宮城」にて格別な林檎酒をたらふくいただき、いわゆる酔いの最高潮でございました。


 そしてこの街路にいらっしゃる先生方はどこを見渡しても幸せな赤ら顔ばかり。蓮見川にかかる小さな橋の欄干から身を乗り出して確認すると、澄んだ水面みなもに映る私の顔も、林檎のようにしっかりと赤いではありませんか。


 まさに念願成就でありましょう。

 残念ながらここは宴席ではありませんが、広義でとらえるならば、この吞んだくれ横丁も一つの広大な酒池肉林であると言えます。


 夢見心地な気分に念願成就も重なって、私の気分は有頂天です。

 思わず喜び勇んでその歩みを早めます。なんならスキップなんかもしちゃいます。ゴキゲンな鼻歌を垂れ流しながら、私は萎び鯉さんの捜索に乗り出すのでした。

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