第2話
呑んだくれ横丁は旭海町あさみちょうの樋山通ひやまどおりにて連綿とその歴史を紡いでおります。
お洒落なお昼の店が所狭しと並ぶ中で、肩身狭く点在する飲み屋を辿るようにして西にふらふら流れるとアラ不思議。気付くとそこはすでに呑みの祭典。
イイ感じのバーやカフェが軒を連ねてうごうごと犇ひしめきあっています。視線の彼方に霞んで見えるアーチが、その長大さを物語っていましょう。
呑んだくれとは言い得て妙で、そこは真昼間にも関わらず、右を向けばジョッキ片手に人生を語り、左を向けば酒樽抱えてタップダンス、前を向けば母なる大地に五体投地の背後で音頭がわっしょいわっしょい。
つまるところ、紳士淑女入り乱れる、大変素敵な大人の社交場なのです。
ただ面白きかな。
そこは酒精で乱れる堕落の園ではございません。
意外や意外、彼らはアルコールのみならず、呑めるものならなんでも呑み下すツワモノ揃いなのです。
彼らの前では酒も紅茶もコーヒーも、抹茶も麦茶もココアでさえ、呑んでしまえばガハハと酔える、酒精に劣らない人生の楽しみなのです。
なんと素敵なことでありましょう。私はお酒を嗜む程度に舐めますが、そこまで楽しんで呑むことは出来ません。ましてや紅茶やコーヒー、抹茶なんて尚更です。
そして更に特筆すべき点。それは真昼間から呑んだくれているという点です。
本来なら労働に汗水垂らして従事する刻限にもかかわらず、彼等は心底面白そうに今その時を楽しんでおります。無論、中には皆が寝静まった夜の世界で、人知れず勤労に励む者もいましょうが、それはそれとして。
そういった意味では、この呑んだくれ横丁で盃片手に笑みをこぼす彼等は、私が尊敬すべきお方たちなのです。
今その時をがむしゃらに楽しむ刹那主義者であり、且つありとあらゆる飲料で酩酊することの出来る傾奇者。
私もなかなかのものだと自負していましたが、彼等には遠く及びません。私は尊敬の意を込めて、彼等のことを先生と呼ばせていただいております。
そのようなことを店長さんにお話になると、普段は寡黙なその視線が、なにか変なものでも見るような、生暖かい色に変わるのです。まったく、心外の至りです。
ですが、それも致し方なきこと。人伝ひとづてに聞いた程度では、彼等の先生たる所以は理解できないでしょう。なので、ここでは先生が先生たるエピソードを一つ、備忘録的に書き記しておこうと思います。
ある日のことです。当時の私はこのアルバイトを始めて間もなく、呑んだくれ横丁など店長さんとの世間話の中でしか聞いたことがありませんでした。
その日の配達内容は呑んだくれ横丁にある、とある居酒屋の店主に魔法のコルクを届けるというもの。
魔法のコルクとはなんぞや。今でも疑問に思うのですが、問題はその帰り道です。
無事配達を終えた私は、通りの喧騒を物見遊山気分で歩いておりました。
なんとも楽しそうで素晴らしい限りです。そのようなことをぼんやりと考えておりましたから、私は脇の居酒屋から出てきた男性に気付かずに、強したたかにぶつかってしまったのです。
そこから先はまさにピタゴラスがスイッチを押したが如く。
酒樽を抱えていた男性は踏ん張りが効かなかったご様子で、たたらを踏んでお店の外壁に背をぶつけて建物を揺らします。すると、すぐ真上の欄干に腰掛けていた男性は落ちないようにと、咄嗟に対岸のお店との間に架け渡された提灯ちょうちんの掛け紐を掴みました。
ピンッと張った反動で、提灯はその身を激しく揺らし、対岸のカフェの二階テラスへと、波のように伝播。
そうして優雅にティータイムを楽しむ女性の顔面を強かにビンタ。苦痛に悶える女性が痛みから逃げるように身を捩よじると、振り回したう腕がティーポットとミルクの陶器を薙ぎ倒して中身がこぼれます。
ちょろちょろと流れだした二つの川は仲良くテラスの外へ流れ出し、知蛇瀑ちだばく――茸山の麓にある知性を宿した滝のことです――のように螺旋を描いて飛び出します。
そしてそのまま階下のテラス席で大あくびをする初老の男性の口内でブレンディング。
落差数メートルの果てに、空気を多分に含んだミルクティーの完成です。
一瞬にして起こった大惨事に、私は思わず唖然としてしまいました。
なんという偶然。なんという負のスパイラル。これにはピタゴラスも驚愕せざるを得ません。私のちょっとした不注意がこのような結果をもたらすなど、想像だにしていませんでした。
兎にも角にも、早急に謝罪をせねばなりません。
私はぶつかった男性と欄干の男性に謝罪をし、今もなお口でジョボジョボとミルクティー瀑布を受け止める初老の男性のもとへ向かいました。
「あの、すみません。大丈夫ですか?」
男性は依然としてミルクティーを口で受け止めています。
目を見開いてひたすらにゴクゴクと呑み下す様は、いっそ清々しくもあります。
すると、男性はゴクリ、と最後の一滴まで呑み下したのち、
「ひらめいた!」
と、そう叫んでこちらを一瞥することなく、全速力で吞んだくれで賑わう街に繰り出していったのです。
残された私はまさしく、ポカンといった擬音が似合うようなお間抜けな表情を浮かべていたことでしょう。
取り敢えず、そのまま二階テラスへ向かい、女性へ誠心誠意謝罪をし事なきを得たのですが、あの男性はいったい何だったのでしょうか。その疑問は数日後、店長さんに預けられた、あの男性からの言伝により氷解しました。
曰く、男性はこの呑んだくれ横丁の町内会長さんらしいのです。
あの日、会長さんは町おこし企画を如何様にするか考えるべく、いつものように紅茶を吞みながら、ウンウンと頭を捻っていたそうで。
しかし、いくら考えても妙案は出てきません。たまらず眠気に誘われるまま大口を開けて欠伸をすると、なんと天からミルクティーの滝が降ってくるではありませんか。
呑んだくれの性さがのまま、滝壺の如く呑み下す会長さんでしたが、ふと閃きます。そうだ、これである、と。
この事件から着想を得た会長さんは、後日、町おこしの一環として町内に紅茶の滝を設置したらしいのです。
そしてこれが街の呑んだくれたちに好評だったらしく、今現在、他の飲料の滝も設置中なのだとか。
曰く、とある地域にはポンジュースが出る蛇口があるという。なれば、この吞んだくれの街に「呑み物の滝」があっても良いではないか、と。
どこか呆れた様子で話す店長さんでしたが、それらの経緯と私へのお礼の言葉、さらには「呑み物の滝」の優先券をありがたくも数枚頂き、私は尊敬の念を禁じえませんでした。
あのような、不躾を通り越してもはや危害を加えてきた、何処との知れぬ小娘を許すどころか、そこから着想を得て自らの糧にするなど、起き上がり小法師どころではありません。起き上がり大法師だいほうしと呼ぶべきでしょう。
それは会長さんに限らず、私が起こした惨劇に巻き込んでしまった方々も同様です。
彼らは私が謝罪をすると、笑顔で手を振って見送ってくれました。まさに大海の如き器と言えるでしょう。
このように、彼らは私がこれから生きる上で指針にするに相応しい先生たちなのです。
人生是学びであると言いますが、彼らから学ぶことを胸に抱き歩み続ければ、きっとおもしろおかしい道が開けること間違いなしでしょう。嗚呼、私も、彼らのような立派な大人になりたいものです。
◇
わいわいがやがやどんちゃん騒ぎ。
お天道さまの天下のもと、呑んだくれ横丁は今日も平常運転です。
しかし、萎び鯉とは如何様なお方なのでしょう。
私が呑んだくれ横丁を訪れるようになって一月ほど経ちますが、寡聞にして聞いたことがありません。
このまま当てもなくぶらぶらと散策するのも乙なものですが、曲がりなりにも現在私は職務を遂行している身。お給金が発生している以上、時間を無為に浪費することはよろしくないでしょう。
兎にも角にもここはひとつ、町人に聞いてみるが吉でありましょう。
「もし、そこの先生。お聞きしたいことがあるのですがよろしいでしょうか」
「ん。先生ってのは私のことかい?」
大通りから少し路地に入ったところに、かつての栄華を感じさせる商店街があります。
私はその軒下のシャッターの前に堂々と茣蓙ござを敷いて我が物顔で抹茶を点たてている、大変雅な男性に声を掛けました。
齢の程は三十の半ばと言ったところでしょうか。口元には逞ましいもふもふの髭を蓄え、穏やかさを湛える瞳からは、なんとも知性的な光を感じます。
この場にいる以上、彼も生粋の呑んだくれなのでしょう。
しかし、通りの喧騒から少し離れたこの場所は、かの御仁が有する雰囲気と相まってどこか静謐とした空気を漂わせます。俗世から切り取られたような、悠久を生きる賢者と相対したような、そんな印象を受けました。
「そうです。一つお聞きしたいのですが、萎び鯉というお方をご存知ありませんか?」
「なんで先生なのかはわからんが、ああ、その名前はよく知っているよ。彼は私の友人だ」
典雅に茶筅ちゃせんを扱いながら、男性はそう答えます。
なんという幸運でしょう。聞き込み開始一発目にして萎び鯉さんの友人を引き当てるとは、日頃の行いの良さが窺える運の良さ。これなら多少散策しても良かったやも知れませんね。
「彼に何か用があるのかい」
「ええ。実は私はねこのいえの配達人をしておりまして、萎び鯉さん宛ての荷物を届けに来た次第です」
「ああ、君が噂の配達人か。なら、今はやめておいたほうが良い。彼は今、少し訳ありでね」
男性は眉根をひそめて抹茶を啜りました。
「どういうことですか?」
「彼は今失恋中なんだ。あまりにこっぴどいフラれ方をしたもんだから、酷く落ち込んでね。見かねて私が、彼女を見返すくらい素晴らしい男になろう、と言ったら、彼の頭の中で何がどう組み立てられたのか、彼女に相応しい男になると言って、自らにか苛烈な試練を課したんだ」
「それは、なんとも一途で素敵なお方ですね」
「彼は根はいい奴なんだが、如何いかんせん阿呆あほうで直情的で人を見る目がない。彼が惚れた女は界隈では有名などうしようもない女でね。何とかして諦めさせたいんだが、恋は盲目というからね」
溜息と共に男性は諦めた様に視線を落とし、最後に残った抹茶をズズッと呑み干しました。しかし、そこは生粋の呑んだくれと言ったところ。抹茶が注がれたその顔は、途端にほわほわとやわらげな雰囲気に包まれました。
私は茶道を修めていないので本格的な抹茶を嗜んだことはないのですが、彼の表情を見るに、大変に美味なことは確かなようです。
「恋は盲目というお言葉、しかと胸にとどめておきます。というのも、私もつい先日恋をしたのです。しかし、彼あるいは彼女の正体所在は掴めず、わかるのはその愛しき風貌のみ。私は毎日その愛しの君に会いたくて枕を濡らす日々なのです」
あの日、恋色の蒸気にぷかぷかと浮かされた私は、面接が終わってすぐに店長さんに問いかけました。
あれは何という動物ですか、と。
店長さんは答えます。
あれはねこである、と。
「ねこ」
可愛らしくもあり、同時に気高さも感じる素晴らしい御名みなです。その名を聞いて、私はますますねこが大好きになってしまいました。しかし、こんな可愛らしいマスコットを用意するなんて、お顔に似合わず店長さんはなかなかにファンシーな才能に溢れております。
不躾ながら、そんなことをひっそりと考えておりましたが、どうやらこのねこという生き物は実在するらしいのです。
数々の伝承や伝説で語られて曰く、体躯は一抱えほどのふわふわの毛並みで、しゃなりしゃなりと道を歩けば人々はたちまち路肩に傅き供物を捧げ、一声鳴けば途端に狂喜乱舞の宴が始まるというものです。
確かに、そうなってしまうのもうなずける魔性が、このねこという生き物にはある気がします。
実在するとなればもはや我慢する道理はありません。
早速私は店長さんにねこの所在を聞いてその美しい毛並みをもふもふしに行こうとしましたが、そんな私の野望はあっけなく散ってしまいました。
どうやらねこは遥か昔に影を隠してしまったようで、現代ではその威光を拝むことは難しいと。
その時の私の気持ちは筆舌に尽くし難く、買ったばかりのソフトクリームをひと舐めもせずポトリと路肩に落としてしまった時のような、ぐるぐると簀巻きにされて重りとともにマリアナ海溝に放り出されたような、そんな心持ちでした。
敢えて言葉で表現するならば、絶望。その一言に尽きましょう。いや、もしかするとそれ以上やも知れません。
初恋は実らないという風説を昔どこかで聞いたことがありますが、自分には関係ないとばかりに知らんぷりをしていたツケが回ってきたようでした。
その時の私はそれはもう酷い顔つきをしていたのでしょう。あの口下手な店長さんが雄々しい眉根を顰ひそめて私を慰めてくれたのです。
その甲斐あって、今ではこうして立ち直って勤労に精を出しているのですが、しかし、私はねこを諦めるつもりはありません。
このお仕事をしているうちに、いつかねこを知る人、若しくはねこそのものと偶然にも出くわす可能性はゼロではございません。
人生とは暗闇なのです。どこに何が、いつどこで何が起こるかその時にならないとわからないのです。
曰く、一寸先は闇、私の前に道はない、私の後ろに道はできる、けれども見渡す術すべはなし。困難極まる我が道中、さすれど停とまる道理なし。暗中模索の旅なれば、旅路の果ては五彩となれり。
つまり、こんなところでくよくよしてないで、さっさと前を向いて歩きましょう。その先には幸も不幸もだいたいのことが待ってるので、心配する必要はないよ!ということです。
これは配達人をする中で出会ったある御仁から賜ったお言葉なのですが、まさに起き上がり小法師を自称する私に打ってつけの言葉で、私の座右の銘の一つなのです。
ここで一つ宣言しておきましょう。
私は恋をしました。
お相手の名前は「ねこ」さん。
愛らしい瞳と凛々しいお顔、気品に溢れたふわふわの毛並みは天上の雲にも引けを取らないでしょう。そして私は、いつの日か、そのふわふわの毛並みに顔を突っ込んで、思い切り深呼吸をして見せる、と。
そしてその素晴らしいかほりを世の皆さんにお伝えして見せると!私はそう、固く誓ったのでした。
「どうやら、君も難儀な道を歩んでいるようだ。深くは聞かないが、もし何かあれば遠慮なく言ってくれたまえ。私は人の面倒を見るのが好きなんだ」
「お心遣い感謝します。しかし、私のことより萎び鯉さんのことを優先してあげてください。先生はとてもお優しいようですから、このままではお二人とも心労で参ってしまいます」
「ああ。悩み事があるせいか、抹茶も繊細さに欠けている気がしたよ。ヒトの体というものは面倒だね。友人が落ち込んでいるという事実だけで、自分の心にまで仄暗い影が差しこんでくる。嗚呼、いやだ、いやだ」
男性はそう言うと、古帛紗こぶくさから昇龍の描かれた茶碗を取り出しました。
漆喰うるしを基調として金箔で彩られたそれは、通りから僅かに覗く街灯の明かりに照らされて、きらきらと神秘的な輝きを湛えております。
男性は茶碗を掲げると、ホレとこちらに差し出しました。
「どうだい、何やら抹茶に興味がおありの様子。もしよければ、私の点てた抹茶を呑んでくれないか。なに、作法など気にすることはないさ。美味しく飲んでくれさえすれば、他には何もいらない」
どうやら私の不躾な視線はこの御仁にはお見通しだったようです。お恥ずかしい限りです。
ここは甘えて是非とも抹茶を頂きたい所存ですが、私は毅然とした態度で答えました。
「いえ、せっかくのお誘いですが、これでも私は職務遂行中の身。今この時も萎び鯉さんは配達物を今か今かと待ち侘びているのです。なれば、どうして道草が出来ましょうか。私は配達人の端くれとして、誇りを持ってこの仕事に臨んでいるのです!」
私は胸を張ってそう言い切りました。
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