夕立を越えていけ

月花

夕立ちを越えていけ


 ――拝啓、原一海はらかずみさま。八月に入り厳しい暑さが続いておりますが、いかがお過ごしでしょうか。私は死にました。


 おれは便箋をテーブルに叩きつけながら「そんな遺書があってたまるか」と大声で叫ぶしかなかった。


 かつてのクラスメイトであり、しかし盛大な喧嘩別れをした仲でもある親友から数年ぶりに手紙が届いたかと思えば、でかでかと遺書と書かれているわ、意を決して中を読んでみればこれだわ、貴重な大学3年生の夏休みを無駄にしてしまったとしか思えなかった。おれはそのままベッドの淵にもたれかかったまま大きなため息をついた。


 ベッドに放り投げていたリモコンで室温26度に設定する。1DKはキンキンに冷え切っていた。首を振る扇風機は無機質な音を立て続けている。


 風で飛ばされそうになっている封筒をつまみあげてひっくり返す。佐野深冬さのみふゆ、という送り主は1人しか思い当たらなかった。一体なんのいたずらだろう。けれどいたずらにしてはタチが悪すぎるような気もしていた。


 佐野深冬。


 地元の高校で三年間クラスメイトだった彼女は、卒業してそのまま地元で就職したはずだ。それきりおれたちの関係は途絶えてしまっている。


「でも、深冬の字だ」


 指先でなぞって思い出す。ノートの罫線いっぱいに広がるような大きな字。とめ、はね、はらいがきっちりとしている丁寧な字。もう高校を卒業して二年と少しが経つけれど少しも変わっていなかった。


 おれはじっと見つめたまま数秒間考えた。そして封筒をテーブルに放り投げて、この手紙は見なかったことにしようと決めた。


 よくよく思い返してみれば彼女とはあれだけの喧嘩別れをしたというのに、今さら手紙一つ寄こしてきてなんだと言うのだ。彼女のろくでもないいたずらに付き合ってやる義理などあるはずもない。一行読んでやっただけまだおれは寛大だったと言えるだろう。


 ややあってスマホがチカチカと点滅していることに気が付いた。大学の同期からの連絡だった。


『研究室の希望調査票、もう出した?』


 一気におれの現実へと連れ戻される。


 うちの大学では三年生の後期からは研究室に配属されて、それぞれの教授のもとで専門的に学ぶ仕組みになっている。各研究室への振り分けは学生の希望を聞いたうえで行われるけれど、もちろん全員の希望が叶うはずもないので、人気のある研究室は席の奪い合いになるのだ。これからの進退すら決まる研究室配属だが、ちょうど今、希望調査が行われていた。


「今日の朝送った。メールで」

『マジか。こっちはまだ悩んでる』

「まあ締切まで2週間あるし」

『ちなみに原は第1希望どこにしたん』

「高木研究室」


 既読がついたのにしばらく返信がないと思っていたら電話がかかってきた。親指で右にスライドする。


「もしもし」

「おまえの第1希望、山下じゃないの?」


 挨拶もそこそこに本題だ。おれは「まあ、いやあ」と曖昧に濁した。


「おまえ山下の授業面白いって言ってたじゃん。ほら、有機化学概論のとき。てっきり山下の研究室に希望出すもんだと思っていたのに」

「あの研究室、倍率高いんだからどうせ無駄だって」

「でも希望なんだから出すだけ出してみればいいじゃん。ダメもとでさ」

「でも第1希望に外れたら変なところに飛ばされるっていう話だろ。だったらそれなりのところに収まる方が固いかなって」

「それなりって——卒業研究もそこでするんだぞ。院に行くなら推薦もあるし、就職するにも口利きがあるし」

「まあ、もう提出したから」


 適当なところで話を終わらせて通話を切る。おれはしばらく扇風機が首を振るのを眺めていた。まだ昼間だというのにどっと疲れたような気持ちになって、もうこのまま昼寝でもしてしまおうかと思う。


「…………」


 ふと、例の手紙が目に入った。なんということはない一枚の便箋だ。白い紙に黒い文字、ただそれだけ。だというのに妙に視線が吸い寄せられて、おれはしばらくにらめっこを続けていた。


 深冬のいたずらじみた手紙を読むのは、どうにも彼女に負けたような気がしてならない。意味ありげに目を細める彼女な顔が目に浮かぶようだ。


 そうだ、このまま捨ててしまおう。ゴミ箱に突っ込んでおけば読もうという気も失せるはずだ。明日はゴミの日なのだから、ビニール袋の口を固く結んでゴミ置き場に放り出してしまえばいい。それでこの件はおしまいだ。


 おもむろに手を伸ばして掴み取り、立ち上がり、ゴミ箱へ──向かったはずなのに気づいたときには足を止めていた。そして無言のまま遺書とやらを読み始めてしまっていたのだ。


 あまりにも呆気ない、おれの完敗である。






 佐野深冬を初めて見たとき、高校にはこんなに綺麗な子がいるんだな、と素直に思った。


 彼女と出会ったのは高校一年生の春だった。同じ高校に入学して同じクラスに配属された、つまるところ同級生である。彼女は僕の三つ斜め前の席だった。原一海と佐野深冬。名簿上ではそこそこ離れていたけれど、席順でいえば一周回って近かったのだ。


 深冬はひときわ強い存在感を放っていた——というのはおれの過大評価ではないはずだ。


 真っ白で透き通るような肌、切れ長の目、長く伸ばしたまっすぐな黒髪、女子にしては高い背丈、それに見合うだけのすらりとした細い手足。とにかく深冬は綺麗という言葉が似合う女子生徒だった。芸能人だと言われても不自然ではない。みんながちらちらと深冬に視線を送っていた。


 最初の授業は自己紹介だった。ややあって順番が回ってきた深冬は立ち上がって、それはもう淡泊な挨拶をした。


「僕は佐野深冬です。よろしくお願いします」


 深冬はプリーツスカートに手を添えながら椅子に座る。二秒して、教室がざわつき始めるのを感じた。誰が話しているというわけでもないのに、わずかなどよめきが広がっていったのだ。


 ——僕って言った?

 ——言ってた。

 ——僕っ子ってやつじゃないの。


 もう次の生徒が立ち上がっているのにみんなが深冬に視線を送っていた。興味、関心、詮索、嘲笑、羨望——そんな感情がないまぜになっていた。一年一組の中心はきっと佐野深冬だった。


 その深冬といえば、涼しい顔をしたまま黒板をじっと見つめていたけれど。






「原くん、もう準備できているよ」


 深冬はバインダーに紙を挟みながら言った。ホームルームが終わって20分、おれたち以外誰もいなくなってしまった教室には、トランペットの音が聞こえているだけだった。


 美化委員のおれたちは月に一度、学校中の掃除用具をチェックしなければならない。こんなに面倒な仕事があると知っていたら、せめて保健委員にしたのに——おれは石鹸のボトルを傾けながら「佐野さん、部活はどうすんの」と訊いた。


「今日は休むの?」

「僕は帰宅部だよ」


 あれ、そうだっけ、と言いながら顔をあげた。入学直後の新体力テストでは50メートルを7秒7で走り、シャトルランでもほとんど最後まで残っていたから、てっきり運動部に入っているものだと思っていた。視線が合って深冬は苦笑いする。


「みんないろいろ誘ってくれたんだけれどね。でも僕、スポーツには興味なくて。一応入りたい部活はあったけれど家の都合が悪くてさ」


 そういえば女子たちが一緒の部活に入ろうとひっきりなしに声をかけていたな、と思い出す。最初こそ深冬に話しかけるのは男子が多かったけれど、数日もすれば女子が人だかりを作っていた。


 だがそれも分かるような気がする。深冬は人目を引く顔立ちをしているけれど、それ以上に振る舞いが洗練されているというか、仕草一つにうっかり視線を持っていかれるというか——とにかく強い存在感を放っているのだ。


 この前、クラスの女子がロッカーの上にあるちりとりを取ろうと背伸びをしていたら、深冬が背後から手を伸ばしてさっと取ってやっているのを目撃したことがある。耳を赤くしていたあの子は、たぶん深冬に恋をしてしまったのだろう。そういう具合で彼女は恋する乙女を量産しているのであった。入学してわずか2カ月のことである。


 男子はそれを遠巻きにみていて、陽気に声をかけたかと思えば笑顔であしらわれたり、玉砕覚悟で突撃して本当に玉砕していたり——すでにクラスの人間関係は大変盛り上がりを見せている。


「そろそろ見回りを始めるか」


 おれは備品の詰まったカゴ2つを持ち上げた。ボトルやら掃除道具やらが詰めこまれたそれは思っていたよりもずっしりとしていて、取っ手が手のひらに食いこんできた。さすがに両方持つとなれば足元も若干おぼつかない。おれは顔を歪めつつ歩き出そうとする。けれど深冬が「待って」とカゴに手を伸ばした。


「重いでしょ。僕が片方持つよ」


 おれはふらつきながら振り返る。


「かなり重いけど」


 バインダーを脇に挟んだ彼女は眉をひそめた。


「大丈夫だよ、僕はこれでも握力とか強い方だし——」

「ありがとう、助かる」


 おれは左手に持っていたカゴを彼女に預けて、「正直重かった」と手首をぶらぶらと振った。手のひらにはくっきりと跡が残っていた。


「二人いてよかったよ。おれだけで両方持って校内を回るとか、本当にきつかった」

「原くん」

「……待って、今のってもしかして社交辞令だった?」


 おれは瞬きをした。一応気遣いで声をかけただけ、ということだったのか。男女がそろっているのに重い荷物を持たせるなんて、と軽蔑されているとか。おれは取り繕うように「重い? やっぱりおれが持とうか」と尋ねた。


「まあそこそこ重いけれど——そうじゃなくて。こういうとき本当に持たせてくる人ってあんまりいないから、ちょっと意外だったというか」


 まあそうだろうな、とおれは静かに口を閉じる。相手はこの佐野深冬である。喜んですべての荷物を持つ人がいてもおかしくない。少なくともクラスで目立っている男連中だったらそうしたはずだ。親切は人の心を買う──的な下心で。


「今まで見たことのないタイプだよ」


 これは空気を読めという意味の鋭利な嫌味だったりするのだろうか。ただの社交辞令もわからない間抜けだ、とクラス中に吹聴されるのはさすがに気まずい。俺は小さくかぶりを振った。


「いや、でも、持ってくれるって言ったのは佐野さんじゃ——」

「うん、僕が言ったよ」


 彼女は目を細める。


「君、モテないでしょ」

「な——」


 あはは、と笑った彼女は、しかしなんのフォローもしてくれない。たぶん本音だった。


「面白いよね、原くんって」


 おれは首を傾げた。これもまた彼女の本音だったはずだが、その顔はどこか晴れやかだったのだ。


 まったくわけが分からない。荷物を持たせたらどいうわけか彼女の中での好感度が上がったのである。






 名前で呼んでほしい、と言いだしたのは深冬だった。


「苗字、嫌いなんだよね」と長い髪を指にくるくると巻き付けながら言った彼女は、窓の外をぼんやりと眺めていたのを覚えている。その横顔がやけに寒々しい雰囲気をまとっていたことも。


 2年生になってもクラスメイトのままのおれたちは、一昨日から夏休みだ。平日は毎日バトミントン部の部活に来ているおれと違って、帰宅部の深冬が学校に来ることはほとんどない。けれど今日は校門の前に集合していた。お互い、私服で。


「おはよ、一海」

「……ああ、うん。おはよう」

「なに、変な顔しちゃってさ」


 深冬はうっすらと笑った。真っ白なワンピースを着ている彼女は、日よけのためかつばの広い帽子をかぶっていた。顔に落ちた陰からのぞく黒い目がじっとおれを見上げている。思わずたじろいでしまうと深冬が「似合うでしょ」と言った。


「まあ——確かに」


 おれは曖昧に頷いた。彼女は細身だからか、すらりとした服がよく合っているように思う。肩甲骨の下まで伸ばされた黒髪と相まって似合って——どちらかといえば似合いすぎているくらいだ。


 深冬は首回りが暑いのか髪をかきあげながら笑った。


「おばあちゃんが、僕にはこういう服が似合うからって買ってくれるんだよ。百貨店に寄るときまって毎回ね」

「百貨店って駅前の?」

「そうそう。あそこ、物産展とかよくやっているでしょ。おばあちゃんが北海道展好きなの」

「深冬って百貨店で服買うんだ……」


 ショッピングモールに入っている店で一枚3千円弱のTシャツを買っているおれとは大違いである。思わず自分の服を見下ろしてしまった。


 彼女は「歩きながら話そうよ。買い出し、早く終わらせたいし」と言いながら足を前に出した。このあたりで一番大きいホームセンターまで歩いて25分かかる。いつまでも校門前で世間話しているわけにもかないから、すたすたと歩いていく彼女を追いかけた。


 今年の文化祭が10月の初めにあって、夏休みはどのクラスも準備まっさかりといった感じだ。2年3組の出し物は脱出ゲームということになっている。教室を飾り付けるための大道具がいろいろと必要で、さっそく終業式の日から組み立てが始まっていた。そして今日の買い出し当番がおれたち2人なのである。土曜日に部活がない人は少ないのだ。


「僕たち、すっかりペアみたいな扱いされていない?」


 深冬は帽子をかぶりなおしながらおれを横目で見てきた。おれもそんな気がしていたので「なんでだろうな」とわざとらしく返す。


「おれは毎日ちょっかいかけられているだけなんだけど」

「人聞きが悪いな。大親友の間違いでしょ?」

「大親友は期末テストの点数で勝ち誇ったようなドヤ顔をしたりしない」

「いやあ、本当仲良しだよね、僕たちって」

「なんで無視した? 親友の声に耳を傾けろよ」


 深冬は声をあげて笑ってから「まさか全教科で勝てるとは思わなくて」と肩をすくめた。


「僕たちって来年にはもう受験生なんだよ。一海は受験勉強とか大丈夫なの?」

「偏差値68から心配されて身が引き締まる思いだなあ」


 おれは棒読みで返した。深冬はこの前の模試で学年9位を取っていたほどの秀才だ。


 1年生のころ彼女にテスト勉強を見てもらったことがあるけれど、これが本当に絶妙な分かりづらさで、それ以来おれは大人しく職員室に出向くようにしている。深冬からは「人の親切心を無駄にして」とか「絶妙ってなんだよ、普通に説明が下手って言えばいいじゃん」と散々文句を言われたが、テスト前の1分1秒は何よりも惜しいのである。


「来年かあ」


 おれは首筋をしたたり落ちてくる汗をぬぐった。


「来年もまた同じクラスだったら3年連続だな」

「一海も理系だし、特進クラスに希望出しているんだから確率は高いよね」

「おれが特進の足切りに引っかからなかったら、だけど」

「ギリギリ大丈夫じゃない? いざっていうときは僕がまた勉強教えてあげるって」


 深冬は「修学旅行、一緒の班になりたいじゃん。体育祭も文化祭も」と行事を指折り数えていく。そうだな、とわずかに目を伏せて返事をした。


 もし来年同じクラスになれたとして、その次はもうないのだなと気付いてしまったのだ。俺たちは2年生で、次が最後の学年だ。そのあと俺たちは別々の大学へ進むだろう。


「深冬は大学、どこ考えてるの」

「この前、先生から推薦を受けないかって話をもらったんだ」


 少し先を歩く深冬がはにかんだ。


「工学部なんだけど、建築科に有名な先生がいるらしくて、その人のところで勉強してみたいって思っているんだ。1週間前にオープンキャンパスにも行って、模擬授業がすごく面白かった。30分あるのにあっという間でさ。建築デザインの話で、機能と外観のバランスが——」


 そっか、と短く返した。


 おれはせいぜい地元か、上手くいって都内の中堅私立。深冬はおれより模試の偏差値が10高いのでどうやっても同じ進路になることはない。最初から分かりきっていたことではあるけれど。


 でも頑張らなくちゃな——とぼんやり思った。


 つまるところ影響を受けてしまったのだ。深冬がこんなに頑張っているのだから、おれももう少し頑張ってみたっていいはずだ、と思うくらいには。おれにどこまでやれるかは分からないけれど。


 話しているうちにいつの間にかホームセンタ―の前に到着していた。自動ドアが開いた瞬間に冷風が吹き抜けて肌の表面温度がすっと下がったのがわかる。


 だだっぴろい店内をバカでかいカートを押しながらぐるぐると回っていく。やけに高い天井、細かな砂でざらりとしている床、何種類あるか数えるのも諦めたくなるねじの群れ、何に使うのかさっぱりわからない金具——そんなものを横目に見ながらおれたちはリストに従って買い物を済ませる。

 

 あちこちを行ったり来たりしている間にずんぶん時間が経っていたらしく、店から出たころには15時になっていた。


 外はむっとした暑さだった。わずかな風が吹いても熱気がまとわりつくだけで、額や目元に汗がじわりとにじんだ。相変わらず強いひざしが頭皮に降り注いでいる。けれど空の端から濃い灰色の雲が流れてきているのが見えて、おれは「降りそうだな」と呟いた。


「またゲリラ豪か?」


 ここ最近、昼過ぎから激しい雷雨になることが多かった。ベランダに干していたユニフォームがぐっしょりと濡れてしまったことは1度や2度ではない。おれが眉をひそめていると深冬は少しだけ眉尻を下げた。


「夕立っていうんだよ」


 夏の季語、雷が鳴るようなにわか雨——彼女は空を見上げながら教えてくれた。じっとりと湿度の高いにおいが鼻をかすめる。


 おれは夕方に雨が降るたびきっと今日のことを思い出すのだろうな、と思った。






 ぽつぽつと振り落ちてきた大きな雨粒が肌を濡らす。あっという間に大雨になり、薄暗くなった空が時折ぴかりと光った。すぐに大きな音がする。あたりがうっすらと白くなるような激しい雷雨だった。


「いったんコンビニに入ろう」

「あそこ、向かい側にある」


 傘を持っていなかったおれたちは荷物を抱えながら横断歩道を走り、1番近くのコンビニに飛びこんだ。頭上で電子音がピロピロと鳴り響く。コンビニの床は水とわずかな泥で汚れていた。空調の風は冷たくて、全身から水がしたたるほど濡れているおれたちは思わず腕をさすった。


「傘はここで買うとして、どうする? おれ靴の中に水がたまっているんだけど」

「着替えよう。このままだと風邪をひいてしまうから」


 深冬は水滴が垂れている髪を後ろでまとめた。そうは言っても学校までまだ遠い。それに部活用の服を置いてあるおれと違って、深冬は着替えがないだろう。深冬はしばらく考えこんでいたけれど、やがてぽつりと呟いた。


「僕の家に来てくれる? ここから5分もかからないんだ」


 彼女がそう言うのならおれは頷くしかなかった。深冬は視線を合わせなかった。






 深冬の話すことからなんとなく察していたことではあったけれど、彼女の家は庭付きの立派な日本家屋だった。四方を石の壁にぐるりと囲まれていて、正面には小さな門まである。彼女は片手で押し開けると振り返った。


「どうぞ。遠慮しないで」


 おれは思わず会釈をしてから門をくぐった。手入れされているのであろう松の木を見ながら彼女の後ろを恐る恐るついていく。


 引き戸を開けると大きな玄関があって、靴箱の上には色鮮やかな花が生けられていた。おれは花の種類なんて向日葵か薔薇くらいしか知らないので、それがどういうものかよく分からなかったけれど、綺麗だなとは思った。


 玄関には靴が1つも置かれていなかった。おれがじっと見ていると「おばあちゃんはお花のお稽古で、お母さんはたぶん夕飯の買い物」と深冬は言った。


「タオル持ってくるからそこで待っていて」


 深冬は駆け足で廊下の向こうへと行ってしまう。黙って着いてきて今さらだが、本当によかったのだろうか。おれはどんな顔をして待っていればいいか迷って、玄関をきょろきょろと見回していた。


 すぐに戻ってきた彼女はおれの頭にバスタオルをかぶせてきた。自分も髪の水気を絞りながら「ぐっしょぐしょだ」と笑った。


「一海って身長どのくらい?」

「たぶん170センチ」

「僕、168センチ。じゃあ僕のスウェット貸してあげるよ」


 おれは釈然としない気持ちで「ありがとう」と言った。おれたちは並んでも視線の高さが変わらないどころか、彼女がいつも履いているローファーのヒールの分、むしろ彼女の方が若干高いまであった。妙な悔しさがあったが背に腹は代えられない。おれはバスタオルで腕の水滴をふき取っていく。


「今着ている服、乾燥機にかけてあげようか」

「いやそこまでは——ゴミ袋か何かあったらほしいけど」

「え、その服燃やすの?」

「持って帰るんだよ!」


 普通に驚かれたのでおれも驚いた。もしかすると彼女はおれの私服をダサいと思っていたのかもしれない。


 俺はもう一度髪を乾かす。俯きながらタオルで髪をぐしゃぐしゃとかき乱していると、玄関のタイルが目に入った。おれの足元には小さな水たまりができていた。埃も砂も掃かれて綺麗にさえている玄関には、俺の靴の跡がうっすらと残っている。


 雨宿りさせてもらっている身で家を汚していくなんて失礼極まりない。あとで拭かせてもらおう――と口を開きかけたとき、玄関の引き戸がガラガラと音を立てながら開いた。


 着物姿のおばあさんがそこにいた。


 この人が深冬の祖母なのだな、ということはすぐに分かったけれど、だったら彼女から見たおれは何だと言うのだろう。


 おばあさんは目を見開いたまま黙りこんでいる。おれはとっさに「怪しいものではありません」と言った。声はひっくり返っていた。


「おれは深冬……さんと同じクラスで、あっ、同級生で、雨が降っているので家に呼んでもらって、タオルを貸してもらって――」

「おばあちゃん、おかえりなさい」


 深冬がタオルを首にかけたままで声をかけた。おれの肩をとんとんと指で叩いたのは、もう余計なことを喋るなという意味だったのかもしれない。


「この人は私の同級生で原一海くん。私の友だち」

「あらまあ、そうなの」

「私がうちに呼んだの。さっきまで雨がひどかったでしょう、私も原くんもずぶ濡れになってしまったから服を乾かしたくて」


 おばあさんは小さく声を発しながら荷物を下ろした。手首に引っかけていた傘をしまってから、おれを真正面から見つめた。


「はじめまして。いつも深冬がお世話になっているようですね」

「いえ、あの、こちらがお世話になっています」


 おれはぺこりと頭を下げてから端に避ける。おばあさんが先に下駄を脱いで上がっていく。そのまま廊下を進んでいくのかと思えば深冬のすぐ隣で立ち止まった。彼女の方へ身体を寄せて耳打ちするのが聞こえる。


「男を連れこむなんてみっともないこと、今後はしないでちょうだいね」


 あなたまで由美子みたいになったら嫌よ、これ以上がっかりさせないで――。


 おれは顔をあげる。こちらからは深冬の表情だけが見えていた。彼女は一瞬口を開きかけたのを堪えるように唇を噛んで、はいともいいえとも答えなかった。






「由美子っていうのは僕のお母さんのことね」


 彼女の部屋に入って1番最初に言われたのがそれだった。おれがとりあえず頷くと彼女はクローゼットを開けた。


「僕のお母さん、駆け落ちしたんだ」

「だ、誰と」

「僕のお父さん」


 クローゼットの中をあさっている深冬が振り返った。


「これがまあちゃらんぽらんな人でさ、仕事をしたりしなかったり、ぽんと大金が入ったかと思ったらうっかり使い切って借金しちゃうような人で――趣味は競輪とボートレース。たしなみでパチンコ」

「それはなんというか、模範的なちゃらんぽらんだ……」

「なのに困ったことに顔はいいんだな、これが。性格も悪くない。結構気のいいひとでさ、話も上手いし。それでお母さんがすっかり惚れこんじゃったわけ。運命的なラブだったわけ」


 深冬は苦笑いしながら「でもおばあちゃんが結婚に賛成するわけないでしょ?」と続けた。おれがおばあさんと話したのはほんの一瞬だったけれど想像にかたくはなかった。


「それで駆け落ちちゃった、と」

「でも惚れた腫れたなんてあっという間だ。1年半でクールダウン。だってそんな人と生活なんて成り立つわけがないじゃない」


 「気づいたところであとの祭りだよね」と深冬はぼやいた。それから「芋の煮えたもご存知ないって感じ? おばあちゃんの育て方が裏目に出たのかな」と付け足した。


「諸々あって、一通りのことが起きて、結局2人は離婚した。でもそのころには僕が生まれていたし、お母さんには僕を育てられるような収入もなかった。見かねたおばあちゃんに呼び戻される形でここに舞い戻ってきたんだよね」


 おれは勧められたクッションに座ったまま返事をした。なるほど、おおむねの事情が見えてきた。駆け落ちたあげくに実家に戻ってきた母親と深冬はさぞ肩身が狭いことだろう。金銭面で頼りきりになっているならなおさらだ。


「……ちなみに、深冬のおばあさんって何している人なの」

「地主。このあたりの土地、おばちゃんのものなんだよね。隣の家とか向かいのアパートとか」

「ああ——それで」


 この立派な日本家屋になるわけだ。


 深冬が何かを放り投げてきたのでキャッチする。灰色のスウェットだ。そのあとズボンも投げられたのでそれも受け取る。これを着ろということだろう。


 さっさと着替えてしまおうと服に手をかけたとき、電話の鳴る音がしてびくっと全身が硬直した。窓際に置かれている固定電話だ。深冬は慣れた手つきで受話器を取って、一言、二言話している。


「おばあちゃんに呼ばれたから少し外すよ。その間に着替えていて」

「ありがと」

「あ、部屋の中あさっちゃ駄目だからね」


 そこまで無礼な人間のつもりはない。おれは早くいって来いよ、と手を振った。


 階段を下りていく足音を聞きながら、スウェットを頭からかぶり目元にかかった髪を払う。いまだにしっとりとしているがじきに乾くだろう。ズボンも履いてまたクッションの上に座りこむ。


 おれは視線をあちらこちらに向ける。深冬のいない深冬の部屋、というのは妙に居心地が悪くて落ち着かない。


 というよりもむしろ、深冬の部屋とは思えないといった方が正確だったかもしれない。


 白い壁紙、ベージュの床、ピンク色のカーペット、花柄の敷布団カバー、ガラスの花瓶、クマのぬいぐるみ、エトセトラ。甘さがこれでもかと詰めこまれた部屋だった。深冬がこの部屋で眠っているところなんてまるで想像できなかった。


 開けっ放しになっているクローゼットが目に入って、おれは見てはいけないと思いながらも横目で見つめてしまう。ハンガーにつるされているのはワンピースとスカートばかりだ。きちんとアイロンがけされているのか皺一つない。


「……あれ、奥だけぐしゃぐしゃ……」


 おれは気づけば片手をついて身を乗りだしていた。クローゼットはきちんと整頓されているのに、奥に隠すように丸めて詰めこまれた服があるのだ。そういえばおれに貸してくれたスウェットも、あのあたりから取り出していたような気がする。


 おれはスウェットの裾をつまみあげる。この服もよく見れば折り皺がくっきりとついていた。きっと長いことしまわれていたのだろう。


 むしろこういう服の方が深冬らしいのに——と少し考えこんでいると、どこからか怒鳴り声がうっすらと聞こえてきた。


「⁉」


 おれは扉のすぐそばまですりよって耳を澄ませる。何を言っているかまでは聞き取れないけれど、それが女性2人の声だということはわかる。たぶん深冬とおばあさんのものだ。


 だんだんと声が大きくなってきて、「あなたのためを思って」だとか「押しつけがましいの」だとか言葉の端々が聞こえた。ややあって激しい足音が鳴り響く。


「そうやって私のこと思い通りにして何が楽しいわけ⁉」


 怒鳴り声が反響した。誰かが階段を駆け上がってくる。おれはあわてて後ろに下がるけれど、すぐに部屋の扉が勢いよく開いた。おれは背をのけぞらせる。鼻のあたりをかすめそうになった扉は、壁にぶつかってガンッと物音を立てた。


「いや、別に、何も——」


 おれは特に聞かれてもいない言いわけを勝手に始める。けれど深冬はおれのそばを通り過ぎて、ベッドのそばに置いてあった通学バッグに荷物をつめていった。ホームセンターのロゴが入ったビニール袋も持って立ち上がる。


「学校、行こう」

「でも雨が」

「もうじき止むよ。買ってきたものを教室に置いておかないとね」


 深冬はにこりと微笑んだけれど目はまったく笑っていなかった。おれは窓の外をみやる。透けるレースカーテンの向こうはまだ薄暗かったけれど、確かに雨は小雨になっていた。






 すたすたと早足で歩いていく深冬の後ろをついていくようにして学校へと戻った。下校時間も近いからか生徒は少ない。体育館の方から掛け声らしきものが聞こえるだけだった。


 おれたちは自分の教室へ入る。深冬はほとんど口を開かなかったけれど、ビニール袋の中に入っているものを取り出しながら、唐突に「訊かないんだ?」と言った。


「一海は気にならないの、さっきのこと」

「……話したいなら訊くけど」

「じゃあ訊いてよ」


 おれは背を向けたまま「何があったんだ」とやや棒読みで尋ねた。深冬はようやく少し笑った。


「僕、本当は軽音部に入りたかったんだよね」


 まるで脈絡がなかったから思わず聞き返してしまった。深冬は肩をすくめて、まあ黙って聞いていてよ、と呟く。


「高校生になったらギターやりたくてさ。昔からずっと好きだったんだよね、邦ロック。バンド組んで自分でも弾いてみたいって思ってた。でもギターを買ってもらえなくて」

「……安いものだったら3万円くらいで売っているんじゃ」


 うちの高校はバイト禁止だが、それでも毎月のお小遣いをためるか正月のお年玉を使うか、高校生なら決して買えないような値段ではなかったはずだ。けれど深冬は「うち、お小遣い制じゃないから」と言った。


「おばあちゃんがいいって言うものしかお金出してもらえないんだよ」


 ビニール袋のなかから取り出したものを机の上に並べていく。一つずつ、順番に。


「服も、本も、ゲームも、おやつも、雑貨も、家具も、遊びに行く先だってそう——おばあちゃんは自分が納得できないものには1円も出してくれない。本当に、1円たりとも」


 深冬は小さなスプレー缶を指先で押して倒した。それはカランと甲高い音を立てて、机の上を転がっていく。


「笑っちゃうよね、うちはむしろ裕福な方なのにさ、僕は自分の欲しいものは何一つ持っていないの。あの家にあるものはぜーんぶおばあちゃんの欲しいものだ」

「待って、それじゃ」


 おれは思わず言いかけたまま、けれど続きを言葉にできなかった。それじゃまるで——。


 ふと彼女のクローゼットを思い出していた。レースがたっぷりと使われたワンピース、リボンがついたブラウス、裾にフリルのついたスカート。淡くてかわいらしい色で埋め尽くされたそれは、おれが知っている佐野深冬のものではない。


 深冬は首をのけぞらせて短く笑った。笑って、「仕方ないよね?」と言い聞かせるみたいに呟いた。


「仕方ないよ、僕はまだ子どもだから。保護者にお金出してもらわなきゃなんにもできない子どもなんだから——」


 おれは勢いよく顔をあげた。それを仕方ないの言葉で済ませてしまうのはきっと残酷だったと思う。


「仕方なくなんて」


 でも、だったらなんだというのだろう。高校生であるおれたちが一から十まで親に養ってもらっているのも事実なわけで。好きにさせろ、なんて言うのもまた子どものわがままなのだろうか。


 おれが言葉に詰まったのを見て、深冬は唇を固く結んだ。


 深冬は自分の髪に手を伸ばした。長く伸ばされた黒髪を指の間に滑らせる。1年生の春からまったく変わらないロングヘア。よく手入れされたその髪は彼女のトレードマークだった。


 教室の光を反射して艶々と光る髪を、深冬はぐしゃりと握りしめた。


「こんなもの」


 深冬は机の中に手をつっこんだ。手首の向こうがまさぐるように動いて、すっと引き抜かれたのは小さなハサミだった。


 おれは「あっ」と声をあげる。彼女が何をしようとしているかなんて一目瞭然だが、それはあまりにも衝動的すぎるというか、後先考えていなさすぎるというか。たぶん後になって困るのは彼女自身だ。


 それなのに深冬は迷うことなく自分の髪に刃先をあてがう。柔らかく目を細めた彼女は指先をわずかに力ませた。刃先が交差してジャキンと子気味いい音をたてた。


 宙に黒髪が1本ずつほどけるみたいに舞い散った。


 教室の床に落ちた真っ黒な塊はもうゴミにしか見えなかった。深冬は残った右側の髪も鷲掴みにしてハサミをジャキジャキと入れていく。鏡も見ずに手探りで。制服のシャツには長い毛が何本もついている。


 やがて両手をぶらんと下ろした深冬は、ははは、と力なく笑い声をあげた。あの綺麗なロングヘアはどこにもなくて、肩の上になってしまった毛先はガタガタといびつで、段々になっていた。


「ねえ、どう。いい気味だと思わない?」


 深冬は1歩後ろに下がった。おれは彼女になんて声をかけるのが正解か分からなかったけれど、いい気味かどうかと訊かれれば、どちらかと言えばそうという感じだ。


 彼女はこの後どうするつもりなのだろう——おれは呆然としたまま見つめていたが、しかし切ってしまったのだから、どうしようもない。


 おれは椅子を指さして「そこ座って」と言った。深冬が瞬きしてから椅子の背もたれを掴んで引く。おれは彼女の背後に回り、ポケットに突っこんでいたスマホを出してYouTubeを開いた。ちょうど8月になったばかりでよかった。速度制限がなくなっている。


 検索欄に髪、切り方、と入力する。1番再生回数が多そうな動画は、ひげを生やした金髪の美容師がウイッグにハサミを入れているものだ。


「ハサミ」

「え、ああ」


 右手を出せばぽんと乗せられる。おれはスマホを隣の机に立てて、見よう見まねで毛先を指の側面でつまんで揃えて、ちょきんと細かく切る。深冬は振り向くことなくじっとしていた。お行儀よく背筋を伸ばしたまま座っている。


 おれは自分が思っているよりも器用らしい、ということが分かって、だんだん調子に乗り始めた。毛先をすくようにハサミを縦に入れた。けれど所詮素人なので、髪が縦方向にばっさりと切れただけだった。


「やば…………」

「ねえ今、絶対失敗したよね?」

「まだ大丈夫、まだいける」

「駄目なら今のうちに言ってよ⁉」


 深冬は「僕ハゲてないよね」と毛先を触りながらげらげらと笑った。おれもつられて笑ってしまって、電気のついていない教室に2人分の笑い声が響いた。おれたちはそれからずっと笑っていた。


 外はいつの間にか雲が薄くなり始めていて、灰色の雲の隙間から日差しが差しこんでいた。


 なんとか人前に出られるくらいの見た目になった深冬は「どうかな、似合う?」と首を傾げる。すっかり首元が涼しそうになってしまった彼女に、おれは「美容師の腕がよかったんじゃない?」とすっとぼけた返事をした。


「似合ってる」


 深冬は満面の笑みで頬杖をついた。オレンジ色になりはじめた光に強く照らされて綺麗だと思った。あまりにも眩しくておれは目を細めてしまう。


 少年のように短い髪が艶々と輝く。


 だが夏休みも明けて、10月の文化祭が近づいてきたころ、深冬の髪は肩に触れるくらいの長さにまで戻っていた。






 3年生の夏休み前、特進クラスでは進路面談がある。担任、親、自分の3者面談で、この前受けた模試の結果を見ながら志望校を相談するのだ。


 おれは16時半からの予定で、その時間だけバドミントン部の練習から抜けることになっていた。校舎前でお母さんと合流してから廊下を進む。教室の前にはいくつかの椅子が並べられていたけれど、珍しく前の面談が早く終わったのか扉は開いていた。


「ではさっそく、一海くんの模試の結果ですが——」


 白黒コピーされたA3の紙に赤ペンでくるりと丸が書きこまれていく。第1志望は都内の私立大学で、D判定だ。「このまま頑張れば秋にはC判定になりますよ」という言葉を聞いて、お母さんはほっとしたように何度か小さく頷いた。


 深冬みたいに、とはいかないけれど、2年の秋から真面目に受験勉強を続けてきた成果がようやく表れてきたらしい。


 面談は15分くらいで終わってしまって教室を出る。廊下の椅子に並んで座っていたのは深冬と、たぶん彼女の母親だった。


「あれ、私の前って一海だったんだ」

「おれも全然知らなかった」


 深冬の母親は腰をあげてぺこりと頭を下げた。これが駆け落ちしたと噂の——とおれはまじまじと見てしまう。どちらかといえば地味な、どこにでもいそうな中年女性という感じの人だった。無地の服を着ていて化粧も薄く、ほとんど印象にも残らない。


 深冬たちが教室に入っていくのを見送ってから、お母さんはさっさと帰ってしまった。家でカレーを煮こんでいる途中だったらしい。


 おれも早く部活に戻らないといけないが、どうせなら深冬と少し話してからにしよう、と廊下の椅子に腰かけた。深冬は推薦を使うと言っていたから、進路面談もそう時間がかからないだろう。たぶん10分くらいで出てくるはずだ。


 廊下はしんと静まりかえっていて、教室の中からうっすらと声がしていた。クーラーと扇風機の音に交じって、担任が模試の結果を説明する声が聞こえていた


「——で、深冬さんは推薦を取りやめて、地元企業で就職するということですが——」


 椅子がわずかに軋む。おれは無言のまま身を乗り出していた。


 就職、と聞こえたような気がするけれどそんなはずがない。きっとおれの聞き間違えだ。だって深冬は1年生の頃から模試で学年10位以内をキープ、2年生のとき推薦がもらえるのだと嬉しそうに話していたのだから。


 最近は進路の話をしていなかったけれど、彼女が国立大の工学部を目指しているのは変わらないはずだ。


 そうだ、たぶん、担任がほかの誰かと取り違えているのだろう。面談は1日に何回もあるからうっかり誰かの話と混ざってしまっただけで——。


「高校生の就活って秋からでいいんだよね、先生」

「そうだね、夏休みには就職組と模擬面接をしてみようか。お母さん、一般クラスの面接練習に混ぜてもらえるよう話を通しますので、それでよろしいですか」

「よろしくお願いします」

「あ、先生、できれば家から通いやすい会社がいいなと思ってて。職種は事務で」

「だったらこのあたりとか——」


 30分の面談枠をきっちりすべて使い切って、深冬が教室の扉を開けた。椅子に座ったまま待っているおれを見つけて一瞬目を見開くと、眉を下げた。


「ごめん、お母さんは先に帰ってて。私は友だちと話してから帰る」


 彼女はくるりと振り返る。彼女のお母さんはスマホのホーム画面を見て「車で一緒に帰らなくていいの」と言った。


「門限までそんなに時間がないわよ。今日、おばあちゃんいるんだから」

「大丈夫、10分くらいで終わるから」


 深冬は近くにあった非常階段へのドアを指さした。おれは頷いてゆっくりと立ち上がった。




 非常階段の踊り場はいつも風が吹き抜けている。深冬は「わっ」と声を上げて、舞い上がった黒髪を背中に流した。肩甲骨まで伸びた髪は、前ほどではないにしろロングヘアと言っても差支えないほどの長さになっていた。


 深冬は壁にしなだれるようにもたれかかって夕焼けを眺めていた。でもおれは彼女の後姿ばかりを見ていた。


「お母さんの前でも、私って言うんだな」


 深冬は「ああ」とか「まあね」とか曖昧な返事をした。


「ちゃんと分けておかないと、うっかり家でも言っちゃいそうだから。普段から癖づけておかないとね」

「就職、するの」

「いきなり本題に入るなあ」


 困ったように笑った彼女はやっぱり振り返らなかった。背中を丸めたまま手すりに体重をかける。


「どうせ聞こえていたんだから、もう話すこととかなくない?」

「なんで。まだ理由を聞いてない」

「それ、一海に何か関係あるわけ?」


 深冬は笑い声交じりに言った、けれどたぶん笑ってはいなかっただろうな、と思う。髪を人差し指にくるくると巻き付けながら「どうだっていいじゃん」と呟いた。


「関係あるとかないとかとか、そういうのじゃないだろ。どうでもいいとかおれは思ってない」

「僕はどうでもいいよ」

「嘘だ」

「嘘じゃない」

「絶対嘘だ」


 深冬はそこで何も返すことなく黙ってしまった。髪を遊ぶような手を止めて、おれにも聞こえるように大きなため息をつく。


「だからさあ、前にも言わなかった? うちはお小遣い制じゃないんだって」


 おれはわずかに首を傾げた。去年そういうことを聞いた覚えはあるが、話の繋がりが分からない。おれが戸惑っていることに気配だけで気付いたのか、深冬はほんの少しだけ早口で続ける。


「おばあちゃんがいいって言うものしかお金出してもらえないんだよ。許可制なの。ねえ一海、大学進学するのに一体いくらかかるか知ってる?」


 おれは数秒間考えこんでいた。彼女の言わんとしていることの意味を考えて、気付いて、そして両目を見開いた。


「反対された……ってことか?」

「もう大変だったよ」


 深冬は両手を広げた。


「最終的には60超えてるおばあちゃんと掴み合いの喧嘩になってさ、家の中が大惨事。100万円する陶磁器の花瓶が粉々になって。僕は怒鳴るし、おばあちゃんは喚くし、お母さんは泣きながら止めてくるし」

「それっていつの話」

「2月くらいだったかなあ」


 言われてすぐに数える。もう5カ月も前の話だ。それなのに深冬から進路の話は一度も聞いたことが——待て、一度も聞いたことがない?


 そういえば深冬とは長らく進路の話をしていなかったような気がする。2年生のころは模試の点数とか判定とか、毎回のように深冬の方から見せつけるみたいに自慢してきたのに、いつの間にか何も言ってこなくなったのだ。


 おれは口元を押さえた。なんでもっと早くに気付かなかったのだろう。どこかで気付けたはずなのに、おれはろくに何も考えず、呑気に毎日彼女とどうでもいい話ばかり——。


「でも、自分で学費払うとか」

「工学部、試験料1万7000円、入学料28万円、授業料年間52万円。どうするの?」

「あ、ほら、奨学金があるじゃん。深冬の成績なら学費免除とか受けられるかも」

「そういうのって収入基準があるんだよ」


 何も知らないんだね、と深冬は鼻で笑った。


「世帯でいくら以上の収入があると受けられませんっていう制限。うちは余裕ではみ出しちゃってる」

「バイト、とか……」

「入学料はどうするの? 今から僕が稼いで28万も貯められると思う? もしそうなら受験勉強の合間にバイトするってこと?」

「お母さんは、なんて」


 まあそこが一番問題だよね、と深冬は両腕をぐっと伸ばした。


「だって僕とお母さんを養っているのはおばあちゃんなんだからさ。そのおばあちゃんの機嫌を損ねるってどういうことか分かる?」

「どういう」

「僕に、僕とお母さんの生活を支えるだけの手段はない」


 母親を養う、という選択肢はおれのなかに存在していなかったのに、彼女の口からは至極当然のように飛び出してきた。


 彼女のお母さんはスーパーでレジ打ちのパートをしているらしい。けれどその収入だけでは家を出て衣食住を賄うのは難しい。だが今さら派遣や契約社員になれるようなスキルもないから、結局パートを増やすしか選択肢がない。それでも深冬を大学に行かせるだけの余裕はないだろう。


 深冬はけらけらと笑った。その乾いた笑い声が耳にこびりつくみたいだった。


「最初から詰んでいるんだよ、僕」


 なんで気づかなかったんだろうなあ、と深冬は頭皮をガリガリと掻きむしった。


「よく考えれば分かったことなのに。おばあちゃんが僕を大学に——しかも工学部なんて行かせてくれるわけなかったのにね。そうとも気づかず今まで無駄な努力しちゃったなあ。真面目にテスト受けて、推薦狙って、馬鹿みたいだ。意味なんてないのに馬鹿みたい——」

「そんなこと言うなよ、深冬が!」


 ただの勢いだけで叫んでいた。急に大声を出したからか、乾いた喉の奥がカッと熱くなった。


 ずかずかと大股で近寄って、彼女の肩を掴む。引っ張るようにして無理やり振り向かせる。彼女は貼りつけたような笑みを浮かべたまま、静かにおれを見つめ返していた。そういうところが本当に気に食わなかったのだ。


「無駄な努力って、そんなわけないだろ。深冬が今までずっと頑張ってきたことが全部無駄になるわけがない」

「他人の綺麗事だね」

「深冬はいつも全力だった。遊ぶのも勉強するのも、なんでも。去年の文化祭も毎日夜まで残って頑張っててさ、体育祭はリレーに立候補していたし、なのに次の期末テストの点数めちゃくちゃ良くて、小テストはいつも満点で、いつも放課後は図書室で勉強していて——」

「だからそういうのが無駄だったって言ってるじゃん」

「無駄なところなんて一つもないだろ!」

「外野は黙っていてくれないかなあ⁉」


 深冬の怒鳴り声がコンクリートの壁に反響した。固い石階段に彼女の甲高い声が響き渡って、それからあたりがしんと静まりかえる。


 髪の生え際にじわりと汗がにじみ始めていた。シャツが背中に張り付いている。おれはもう何も言えなくなってしまって、両手を握りしめたまま黙っていた。


 深冬もしばらく全身を力ませていたけれど、やがて思い出したように「これ以上追い打ちかけないでよ」と呟いてうなだれた。


「どうでもいいって思わなくちゃ、やっていけそうにないんだよ」


 うっすらと雨のにおいがしていた。湿り気のある空気が非常階段に流れこんできて全身に重くまとわりつくみたいだった。今日もにわか雨──そう、夕立だ。


 彼女の深い深い絶望を、おれは何一つ理解できていないんだろうな、と思う。だっておれは外野でしかないのだから。


 深冬のたった一言に、深冬の折れる様に、深冬の絶望に、ここまで傷ついている自分がいることも信じられなかったけれど。






 翌日の朝、おれは小さく深呼吸してから教室に入った。予鈴10分前、後ろの席に座っている深冬に声をかけてから自分の机にリュックを下ろす。けれど彼女は文庫本から顔をあげることはなかった。


 無視された、と気が付くまでおれは3回声をかけたので、なかなかの間抜けだったことだろう。


 夏休みまであと数日というところで始まった彼女の無視は卒業まで続いた——のだと思う。なぜ断言できないかと言えば、おれもまた彼女を無視していたからだ。


 最初は単純に腹が立って、だったらこっちも話しかけてやるものか、という対抗心からだった。けれどいつしか引っこみがつかなくなって、今さら話しかけたり謝ったりするきっかけもなくて、それでも自分から折れるだけの勇気もなかった。深冬がどういうつもりだったかは知らないが、まあ似たような感じだろう。


 結局おれたちは卒業式の日さえ一言も話すことなく、それぞれの進路も知らないまま、3年間の高校生活を終えたのだった。






 おれの記憶違いでなければいかにも子どもじみた喧嘩別れをしたわけだが、そんな彼女から届いたのがこの遺書だった。


 結局すべての文章に目を通すことになったおれは顔を上げる。中身はありきたりなもので、どういうことが苦痛だったかとか、でもおれとの学生活は楽しかったとか、そういう文章がつらつらとつづられていた。


「いや、まさか本当に——でもそれは」


 口元を覆いながらもごもごとひとり言を繰り返す。おれはたちの悪い冗談だと勝手に決めつけていたけれど、確証があるわけではない。深冬が高校卒業後どういう生活を送っているかなど知らないのだ。もしこの遺書が本物だったとすれば。


 ——私の10代はもう進むことなく永遠になるのです。さようなら!


 おれは連絡先を開く。今でも時々遊びに行ったりご飯を食べに行ったりする同級生が何人かいるから、深冬について知っていることがあるか尋ねた。


『卒業した後、銀行の窓口に就職したらしいけど』


 数分で返信が来る。


『駅前の本店。通帳を作りに行ったら佐野さんがいたからびっくりしたわ。向こうも苦笑いしてた』

「それって今も?」

『さあ。去年は何回か窓口にいるの見かけたけど、最近は全然』

「誰か詳しそうな人知らない?」

『なんか音信不通らしい。女子が連絡しても既読つかないって。もうアカウントごと変えたんじゃない?』


 おれはスタンプだけを返してベッドに倒れこんだ。スマホを枕元に放り投げて、仰向けのまま遺書の入った封筒を持ち上げる。


 もしこれが本物だったとして、おれはどうすればいいのだろう。


 どうして深冬がこんなものを寄越したのかも分からない。あの3年生の夏の日から一言も話さなかったのに、今さら。おれへの当てつけだろうか。だとすれば何を求められているのか。たぶんあの日のおれは、どうしようもなく間違ってしまったのに——。


「……うん?」


 おれは天井照明にかざしている封筒をじっと見つめた。強い光に透けて、うっすらと文字のようなものが見えているのだ。


「まだ何か、入って」


 おれは身体を勢いよく起こしてベッドの淵に座った。封筒の口を大きく開いてひっくり返す。底の方にぴったりとハマっているそれは、何度振ってもなかなか出てこなかった。結局手をつっこんで指で引っ張り出す。


 ドリンクチケット、と書かれた一枚のカードだった。


「……なんで急にドリンク……?」


 店のロゴマークと日付が印刷されているだけで、どこで交換できるかなどはまったく書かれていない。店名すら見当たらない。ドリンクを飲めること以外の情報がまるで出てこない。


 深冬の考えがいよいよ分からなくなってきた。どうしておれにドリンクを飲ませようとしているのだ。


 もう他に何も入っていないだろうな、と封筒をくるりと返した。裏面にはやはり深冬の字で名前と住所が縦書きされているけれど——あれ、と手を止めた。


 地元の銀行に就職したという深冬から送られているのに、送り元が東京になっている。


 おれは枕元でひっくりかえっているスマホに手を伸ばした。ぶつぶつと読み上げながら住所を打ちこんでいく。検索結果で一番上にあったのは東京のライブハウスだった。






 ライブハウスまでは電車で数駅だったからたどり着くまでそう時間はかからなかった。4限の授業が終わってからいつもとは違うホームで電車を待った。


 密集するビルの中にその店はあった。6階建ての地下フロアがすべて店になっているようだ。急な階段を下っていく男2人の後ろを着いていくようにして店に入る。受付では特にとがめられることもなく、バンド紹介のビラを渡され、ドリンクの引き換え場所を教えてくれただけだった。


 薄暗い部屋に眩しい光の線が何本も交差する。


 自分の背丈よりも高い舞台の上には大きな機械がいくつも並べられていた。スポットライトギラギラと光っている。フロアには人が増えていって、おれは流されるように後ろの方でぼうっと立っていた。客は50人くらいいるだろうか、いやもう少し多いかもしれない。


 やがてバンドメンバーが舞台袖から現れる。


 ギターとして現れた彼女を見てもさすがに予想外なんて少しも思ってはいない——それでも目を見開いてしまうのは、最後に見た彼女とは似ても似つかなかったからだ。


「どうも、とりあえず1曲やります!」


 マイクがキンと甲高い音を立てる。ベースの低い音がかき鳴らされて、すぐにギターとキーボードが追い付いてくる。おれがぽかんとしている間にもアップテンポな曲が始まって、あたりの雑音なんてすべて飲みこまれていく。興奮が伝播していく。もう何が何だか分からなかった。


 そこにいるのは佐野深冬だ。

 でもおれが知らない、佐野深冬だった。


 ギターを下げている彼女は、あの綺麗な黒髪を刈り上げるほど短く整えて、両耳にきらきらと光る小さなピアスをつけていたのだ。


 真っ黒なシャツとスラックスを着ている彼女は、大きく口を開けて歌う。噛みそうになるほど早口な歌詞も、激しく上下する音程も、全部楽しそうな顔で。


 そういえばあの夏の日、深冬は言っていた。

 高校生になったらギターがやりたかった、と。


 客は腕を高く上げて振っている。まるで1つの生き物みたいになってリズムが刻まれる。暗闇のなか振り回される光にいくつもの手の影が浮かぶ。おれも気付いたときには右腕を伸ばしていた。


 いまいちリズムに乗り切れていないおれの手は悪目立ちしていたのかもしれない。深冬の視線がこちらへ向いて、そしておれを捉えた。


「————!」


 深冬は叫ぶように歌った。


 足を大きく踏み出して髪を乱す彼女が信じられないほど格好良くて、ああそうだよ、おれはずっとこんなおまえが見たくて——おれは大きく息を吸いこんで歓声を上げた。






 ライブハウスの裏口から出てきた深冬は「ごめん、待たせたよね」とかぶっていたキャップを取った。近くで見てもやっぱり髪が短い。なんだったらおれよりも短い。丁寧に刈り上げられた後ろ髪は触り心地がよさそうだった。


 深冬の喉は枯れてしまったのか、やや声が掠れていた。あれだけ何曲も歌い続けたらそうだろう。ペットボトルの水をごくごくと飲み干した彼女はおれを見た。


「どうだった、僕たちの曲」

「すっげーよかった。CD買った」


 おれはショルダーバッグから取り出して見せる。ちゃっかり物販の列に並んで購入してきたのである。深冬は瞬きしてから噴き出した。


 バッグの中に戻しながら「せっかくだからサインくれよ」と言えば「今ペン持ってないからまた今度ね」と肩をすくめられた。


「……あんな手紙を送りつけたってことは、訊いてもいいってことだよな」

「訊いてほしいってことだよ。ちょっとは僕のこと分かってきたみたいだね」


 昔もこんなやり取りをしたような気がする。どうやらおれも少しは成長したらしい。


 深冬は近くにあった自販機のなかに小銭を数枚入れた。迷うことなく右中央のサイダーのボタンを押す。ガコンと音を立てて落ちてきたペットボトルをおれに投げてよこしてきた。おれが高校生のときよく買っていたサイダーだった。


 炭酸が噴き出さないように慎重にキャップを回していると、深冬がくすくすと笑った。


「僕の就職先ってもう知ってる?」

「銀行だろ。本店の窓口」


 高校時代のクラスメイトに訊いたと言えば、彼女は特に反応することなく壁にもたれかかった。詮索したことを咎めるつもりはないらしい。


「おばあちゃんのツテで就職が決まって、しばらくは真面目に働いていたんだよ。本当に。お金出して、数えて、システム入力して、ノルマ分の保険売って、たまにご老人の世間話に付き合ってみたいな感じで。別に悪い職場じゃなかったよ。パワハラ課長はいたけど」

「それは悪いだろ」

「社会なんてこんなもんだって。一海も数年したら分かるよ」


 深冬は眉を下げた。一足先に社会にもまれた彼女の言うことには妙な重みがあった。


「でも秋の終わりだったかなあ——ボーナスの金額が発表される時期っていうのがあるんだけど、そのときの金額を見て、ああ僕これで入学金払えるじゃんって思ったんだよね」


 まあ毎日お金のことばかり考えていたからね、仕事上、と彼女は苦笑いした。


「本当にただの思い付きだったんだけど、気づいちゃったらいてもたってもいられなくて。もともとお金の使い道なくて貯金していたから、1人でやっていけるくらいの蓄えはあったし」

「でも、だったらおまえのお母さんは」

「今はフルタイムパートで働いているよ。もうすぐ安いアパートに引っ越すって。おばあちゃんの機嫌は最悪らしいけどね」


 深冬がけらけらと笑い飛ばした。想像にかたくなかったのでおれも苦笑いした。


 なんということはない——深冬はようやく自分でお金を稼ぐ手段を手に入れて、自由に進むための力を得たのだ。おれが当たり前に与えられていたものを、深冬は遠回りしてもがき苦しみながら、それでも自分の力で勝ち取ったのである。


 彼女が動き出したのだから、その家族も否応なく巻きこまれる。彼女たちはバラバラになることでそれぞれの道を行き始めたのだろう。


「2年間仕事してお金貯めながら、こっそり受験勉強していたんだ」

「働きながら?」

「現役時代に基礎をしっかりやっていたから、ちょっとやれば思い出せたよ。応用と2次対策をゆっくり進めた感じかな」

「さすがだな……おれじゃ絶対無理だ……」


 おれは顔を覆った。大学の授業を丸1日受けただけであれだけぐったりしているのに、働いたうえで、さらに受験勉強をするなんてとても考えられない。深冬は簡単そうに言ったけれど相当の努力をしたのだろう。


「本当すごいよ、深冬は」


 心の底からそう思う。深冬は静かにはにかんで「一海の言う通りだったね」と呟いた。


「無駄なことなんて一つもなかった」


 すぐ傍の電灯がジジッと音を立てながら瞬いた。切れかけているである電球は、しかし平静を取り戻してまたあたりを照らし始める。おれたちの影は長く遠くまで伸びていた。


「僕がずっと頑張ってきたことは無駄じゃなかった。ちゃんと僕の中に残っていた。だから僕は今こうやって——周回遅れかもしれないけれど大学生になって、好きな服を着て、ギターも弾けている。僕のやりたいことは全部叶った」

「……でもおれはあのとき、深冬のことを傷つけた。追い打ちだった。おまえのこと何も考えずに自分の言いたいことだけ言ったんだ」


 おれは絞り出すように言って、ゆっくりと視線を下げた。


 あの日のおれはひどく身勝手だったと思う。自暴自棄になっている深冬があまりにも痛々しくて、とても見ていられなくて、ただおれの思うような理想を押し付けたのだ。それがより深冬を追い詰めるということにも気づかずに。


 深冬はうつむきがちに指先を絡めた。


「正直、綺麗事だなって今でも思う。あんなものは絶望したことのない人の言うことだ」

「ごめん」

「でもね、その綺麗事がいつまでもこびりついて離れなかったんだよ」


 深冬は空になったペットボトルをゴミ箱に放りこんで、大きく1歩を踏み出した。両腕を伸ばして踊るようにくるりと回って、歌うみたいに言った。


「私はもう死んだ。あの佐野深冬は永遠に19歳で行き止まり」


 くるり、くるりと回転する。あの長く伸ばされた髪がたなびくことはもうない。フリルのついたワンピースの裾が舞い上がることもない。ヒールの靴は履かない。彼女は自由だった。


「それで、ようやく僕の人生が始まったんだよ」


 満面の笑みを浮かべた彼女はおれをまっすぐに見つめた。夕立のあとに見たあの笑顔よりも、ずっとずっと晴れやかで、おれもつられて笑った。


 両手を組み「あのとき無視しちゃってごめんね。僕に怒ってくれてありがとう」と照れくさそうに言った彼女に、「俺こそ無視してごめん。手紙くれてありがとう」とこれまた照れくさいと思いながら返した。3年越しの仲直りだった。


 20歳になって佐野深冬は生まれ変わった。

 ああ、だから遺書、とおれは今さらながら納得したのだった。






 ブンブンと音を立てている扇風機の電源を切ってから、スマホに電話番号を打ちこむ。あて先は大学の学務だ。


「すみません、研究室の希望調査票を再提出したくて——」


 いや本当すみません、そこをなんとか、と自分しかいない部屋でぺこぺこと頭を下げる。


 無駄なことなんて1つもない、なんて啖呵を切ったのは自分なのだから、だったらおれもちゃんとしなくちゃなあ、と思ってしまったのだ。いつだって佐野深冬の親友だと正面切って言えるおれでいるためにも。


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夕立を越えていけ 月花 @yuzuki_flower

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