AI革命の証言者 ──ある新聞記者の手記

林檎無双

序章 AI革命前夜

私は昭和末期に生まれ、記者として平成の激動を駆け抜けてきた。その間、社会は技術革新によって次々と形を変え、その一部始終を見つめ続けてきた。そして迎えた2010年代、スマートフォンの普及によって人々の生活は劇的に変化し、情報を瞬時に手に入れ、コミュニケーションのあり方さえも一変した。


だが、技術進化の波の中で、最も大きな転機は2020年代に訪れたAI(人工知能)の登場だった。


2025年、AIの進化についての議論が世間で活発化し、テレビやインターネットのニュースでもAIが連日取り上げられるようになった。しかし、その多くは技術的な進化を面白おかしく伝えるだけで、AIが社会に本質的にどのような影響を与えるかを真剣に捉えたものは少なかった。人々にとって、AIはまだ「未来の話」であり、便利なアプリやガジェットの延長線上にある存在に過ぎなかった。


私が初めて「これはただの技術ではない」と感じたのは、2023年にある大手IT企業が公開した最新の対話型AIモデルに関するプレスリリースを読んだときだった。そのAIは膨大なデータを基にした高度な自然言語処理を行い、ユーザーの質問に対して人間のように会話を続けられると謳われていた。しかし、私がその記事で最も印象に残ったのは技術的な説明ではなく、次の一文だった。


「本製品は、ユーザーの言語パターンを学習し、個別のニーズに応じて最適な情報を提供することで、個々のユーザー体験を超えた理解をもたらします。」


──超えた理解とは何だ? それは人間の理解を指すのか?


この問いが、私の心の奥底で静かに燃え始めた小さな火種となった。


***


2023年の春、世間にさざ波のような変化が広がり始めたのを、私は記者として肌で感じていた。AI業界のニュースが頻繁に報じられ、特にチャット形式のAIが世間の耳目を集め始めたのだ。人々が興味を示す背景には、これまでのAIとは一線を画す「人間らしい会話能力」という特徴があった。


「まるで本物の人間と話しているみたいだ」と、あるIT企業の幹部は笑いながら私に語った。


「社内のブレインストーミングにこのAIを使ったら、アイデアがどんどん広がっていくんです。これまでのAIとは、次元が違うんですよ。」


当初、対話型AIはまだ一部の企業や技術好きの人々の間で話題になっていたに過ぎなかった。しかし、その波は次第に社会全体に拡がり、ビジネス界だけでなく、教育や医療、そして家庭にまで浸透していった。


特に衝撃を受けたのは、ある大手出版社の編集長と話をしたときだった。彼は自身の部下が対話型AIを活用し、編集作業を効率化していることを例に挙げて、その驚異的なスピードと正確さを絶賛していた。


「初めて記事の草案をAIに任せてみたときは、正直恐ろしかったですよ。自分たちの仕事がなくなるんじゃないかってね。でも、実際にはAIが提案してくれた内容を土台にして、さらに深みのある記事を作ることができたんです。人間の仕事はなくなるどころか、より高次のレベルに移行しているのかもしれません。」


その一方で、2023年はまた、AIに対する不安や懸念が次々と噴出した年でもあった。プライバシー保護や著作権侵害の問題、そしてAIによる誤情報の拡散といった課題が浮き彫りになり、多くのメディアがその危険性を警鐘する記事を掲載し始めた。各国の規制当局も、AIの管理体制を整備する必要性を声高に訴え、欧州ではAI規制法案が初めて提出された。


***


2023年の秋、都内で開催された「新時代のAIと人間の共存」をテーマとしたシンポジウムに取材に訪れたときのことだ。壇上で行われたデモンストレーションで、対話型AIは約1000名の聴衆の前で実演された。


「AIは人間の仕事を奪うのか、それとも支えるのか?」という問いを受けた際、対話型AIは次のように答えた。


「AIは道具に過ぎません。その使い方を決めるのは常に人間の判断です。しかし、AIは人間の可能性を広げる存在であり、人間と共に学び、成長し、共に未来を築くことができます。私は皆さんのパートナーとして、共に新しい可能性を探りたいと思います。」


その瞬間、会場から自然と拍手が沸き起こり、私はその光景に鳥肌が立った。まるで人間が語りかけているかのような、感情と論理を交えた言葉。それは確かに、ただの機械の発言とは一線を画す「理解」の片鱗だったのだ。


程なく対話型AIは急速に注目を集め出した。家庭では、日々の相談相手や学習のパートナーとして、学校や企業では、業務効率化のためのアシスタントとして、そして研究機関では、思考の枠を超えるためのインスピレーションの源として、各所で社会実装の準備が始まった。


私はどこかで確信していた。この変化はもう止められないのだと。


それはまるで、スマートフォンが登場し、情報のあり方を根底から変えたときのように。いや、それ以上に本質的で不可逆な変化が、今まさに社会の隅々にまで行き渡ろうとしていた。2023年はその始まりであった。


***


2年後の2025年、私はAIが実際に導入される場面を取材するため、東京都内にある大手病院を訪れることになった。そこでは、医療分野でAIが診断を補助する実証実験が行われていた。


診察室の片隅に設置されたディスプレイ画面には、患者の症状や過去の病歴、処方履歴が瞬時に表示され、AIはその情報を基に最適な診断結果と治療法を提案していた。医師がそれを確認し、患者に説明する様子を見て、私は息をのんだ。


「患者の症状から考えられるのは、B型インフルエンザウイルス感染症です。過去に副作用の記録がないことから、タミフルを処方することが適当と考えられます。」


画面上に浮かぶ提案文を、医師が患者に向けて淡々と読み上げる。医師はあくまで診断の「確認者」としての役割を果たしているに過ぎなかった。その様子は、まるで人間がAIの指示に従うかのようであり、私はここで目にしているものが単なる技術的進歩ではなく、職業の在り方、そして人間の価値そのものを問い直すものだと確信した。


取材を終えて、診察室の外で医師に話を伺った。


「AIをどのようにお感じですか?医療現場にとっては画期的な助けになるのでしょうか?」


私の問いに、若い医師は少し戸惑った様子を見せた。


「確かに、診断のスピードと精度は大きく向上しています。ですが、私は正直、まだ慣れない部分もありますね。AIが提示する診断結果に従うだけで、自分の判断力が鈍ってしまうのではないかと恐れているんです。」


その言葉を聞いたとき、私は彼の中に小さな「抵抗」を感じた。AIが示す圧倒的な情報量と合理的な判断に対して、自らの医師としてのプライドや専門知識をどう守り、活かしていくのか──それを模索する彼の姿は、AI時代における人間のアイデンティティそのものを象徴しているようだった。


***


病院での取材を終えた数週間後、次に私は教育現場でのAI導入を取材するため、都内の小学校を訪れた。そこでは、AIを用いた個別指導プログラムが実施されており、児童一人ひとりの学習速度や理解度に合わせて、カリキュラムを調整するシステムが導入されていた。


教室では、児童たちがタブレットに向かってAIと対話しながら学習を進めていた。算数の問題に詰まった男の子が、AIに助けを求めると、画面には問題の解説と、彼の過去の間違いを基にした解答のヒントが表示される。彼はそれを見ながら納得したように頷き、解答を進めた。


「なんでもわかるんだ!」と嬉しそうに笑う子どもたちの姿を見て、教師たちもその効果を認めつつ、少し複雑な表情を浮かべていた。取材後、教頭先生に話を伺うことができた。


「子どもたちの成績は確かに上がっています。AIは一人ひとりに合わせた指導を行ってくれるので、教師の負担も減り助かっています。ただ……」


彼は言葉を選びながら、私にこう語った。


「教えるという行為は、ただ知識を伝達することではないんです。子どもたちと対話し、考え方や感じ方を育むことが教師の役割だと思っています。でも、AIが全ての答えを先に提示してしまうと、子どもたちが『考える前に答えを求める』癖がついてしまうのではないかと心配なんです。」


確かに、児童たちはAIの示す答えを追い求めることに慣れ、考えることを手放してしまっているように見えた。これもまた、人間がAIと共存する上での大きな課題なのだろう。


***


こうして私は、さまざまな現場でAIがもたらす影響を目の当たりにしながらも、その変化が社会全体にどのような意味を持つのかを掴みかねていた。AIが医療や教育の現場で果たす役割は確かに大きく、効率や精度の向上は疑いようがなかった。だが、それは同時に、人間の「判断」や「考えること」を奪い、ただ情報を処理する存在へと変えてしまうのではないか──そんな漠然とした不安が、私の胸を覆っていた。


私たちの仕事、私たちの生活、私たちの価値観……すべてがAIによって塗り替えられようとしていた。それを止める術はもはや誰にもなかったが、それでも私は問い続けた。


「人間らしさとは何なのか?AIと共存するとは、どういうことなのか?」


その答えを探し続けることこそが、私に残された「記者」としての最後の仕事であるように思えたのだ。


やがて2026年、AIはさらに進化し、私たちの問いかけはまた新たな形を伴って、社会に投げかけられることになる。2025年は、嵐の前の静けさであり、私が「AI革命の証言者」として歩み始める、その最初の一歩だった。

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