side:安藤 実咲
第1話
仕事が上手くいかないことがあることくらい、この年になれば嫌でも思い知らされる。同時に、上手くいくことの方が少ないことも。
安藤実咲は、今日一日でお腹がいっぱいになるくらいの不満をため込んだ。おかげで、お昼ごはんも食べ損ねたし、夜ごはんを食べる気にもなれない。
それでも明日がまた来てしまう。今日が木曜日と言うことが憎らしい。
この逃れようもない現実から逃げる方法なんて、多分ない。
最寄駅から徒歩十分。密集した住宅街にあるアパートの一つが実咲が借りている部屋だ。スーパーや商店街も近くにあるが、料理をほとんどしない実咲にとってはあまり意味がない。それでもかまわない。どうせ通勤の利便性だけで選んだアパートだ。
住んでいる部屋の明かりがついているのを見つけた。どうやら、今日も同居人の方が早く帰宅していたようだ。ふと腕時計を見て、二十二時が過ぎようとしているのが分かると、実咲は大きくため息を吐いた。
「ただいまぁ」
ドアを開けると、部屋の奥から美味しそうな匂いが漂ってきた。
この香りは、香辛料。和でも洋でもない、この香り。間違いない。
「麻婆豆腐!」
「相変わらず、鼻が良いね、実咲は」
黒いエプロンを身に着けた長身。昔は女の子によく間違えられたと言っていた中性的な顔がキッチンから出てきた。
彼は、同居人の楠伊織。
新人研修の時から男女でも友情が成り立つくらいの気が合ったおかげか、入社一年目の終わりからルームシェアをしている。
きっかけは、単純だった。
新人研修後の配属先で、実咲は多忙な部署に配属され、仕事に慣れないまま毎日残業が続いていた。
料理が下手な実咲は料理をする気もなく、毎日ゼリー飲料で食事を済ませていた。たまたま食堂で顔を合わせた伊織に、ごはん目当てにルームシェアをすることを提案。最初は突拍子もない話に伊織も引いたが、数回の話し合いの末、一緒に暮らすことになった。
料理以外の家事は分担制、家賃は実咲がやや多めに出すこと、どちらかに好きな人ができた時にはルームシェアを解消することをルールにして始まった。幸い、お互いに好きな人ができることなく、このルームシェアも今年で四年目を迎えた。
「おいしいぃぃぃ」
「どーも。相変わらずの食べっぷりだな」
「いいじゃんか、美味しいんだから」
もう少し慎ましやかさとかを求められることもあるのかと思っていたこの生活。しかし、伊織はそんなことを求めてこなかった。
キレイに片付いた部屋、美味しいごはん。
仕事に集中しやすいこの空間を作り出す伊織に感謝しかない。
伊織は二カ月前に異動して、今は新しい仕事を覚えるのに大変なハズだ。
でも、そんな素振りを見せることなく、いつも余裕そうに仕事をし、きっちり定時で帰っている。同じ部署に四年もいる実咲はいつも仕事に必死すぎる自分に、情けなさを感じるようになった。
そんな情けなさを消すように、麻婆豆腐を掻きこむ。
「今日もお疲れさま」
ふとやってきた伊織の優しさにこらえていた何かが、実咲の中からあふれ出した。
「聞いてよぉ」
蓮華を置いてから、実咲は今日の出来事を話し始める。
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