椿

花霞千夜

1

「これで終わりにしましょう」

蔦子は、誰もいない欄干に手を伸ばす。蔦子の周りは深い霧ばかりで、欄干の下がよく見えない。いや、見えなくて良い。見えない方が、良い。その方が何も考えないで済むから。これでやっと、ずっと求めていた自由が手に入るのだ。余計なことは考えたくない。蔦子は迷いもなく帯に挟んでいた短刀を取り出した。鞘には、血のように赤い朱殷色で椿文様が描かれており、そのおかげか、まるで何かに取り憑かれたように毒々しい雰囲気を放っていた。何かに取り憑かれているのだろうかと考える隙もなく、蔦子は鞘から短刀の刃をあらわにする。刃を月の光に反射させてみると、キラリと光った。この短刀は、今日この日のためにずっと大切に保管してあったものだ。きっと、嬉しいのだろう。やっと使ってもらえると。

「やっとよ。私はどれだけこの日を待ち望んでいたか」

蔦子はふぅとゆっくり息をはいて、短刀を両手で握りしめた。いよいよだ。そして、ゆっくりと刃を自分の首の中心に向けた。

(さようなら。私を愛せなかったこの世。もうお別れよ)

蔦子は最期に自分の意思でいけるのだ。生まれて初めての幸福であるに違いない。

(さようなら)

蔦子は、思い切り自分の喉を突いた。



はずだった。


「何をしているんですか!」

どこからか、ふと椿の香りがした。

「え、、、。あ、あれ、私、や、やっと、逝けると、お、思ったのに、なぜっ」

そうだ。蔦子は確かに自分の喉を突いたはず。それなのに、なぜ。蔦子はまだ生きている。

(あ、わ、私のた、短刀が、ない)

なくなっている。確かになくなっている。先程まで、短刀は自分の手にあったはずなのに。蔦子は諦めずに短刀を探す。しかし、暗くて足元がよく見えない。

「た、短刀は?あ、あれは、私の、た、大切なもの、なのっ」

「これでしょう。これは返しませんよ。絶対に」

あぁ、そうか。蔦子は、自分の首を落とす前に、この男に手を取られたのか。そして、蔦子が短刀を落とした瞬間に、彼は蔦子の短刀を掴んだのだろう。信じられないことだが、蔦子が死を望むのをこの男に阻止されたのだ。

(あ、あれは、わ、私の、大切なもの、なのに。短刀も、私の手も、離してっ)

蔦子は今、この彼に手を取られながら、地面にへたり込んでいた。

「ど、どうして、、、?そ、それがないと私はっ、私はいけないのっ!」

「これが貴女にとって大切なものでも、俺から見れば、人の命を簡単に落とせる凶器にしか見えないんです。こんなことはやめてください」

「そちらこそ、やめてくださいっ!急に現れてなんなのですか!離してください、私の短刀を返してっ!」

(私、反抗することなんて、できるのね)

蔦子はこれまでに反抗をしたことがない。それだから、これは蔦子が生まれて初めて自分の意思を尊重して起こした、自分なりの反抗だった。

「先程、貴女は自分の首を落とそうとしていましたよね?それは絶対にやってはいけないことなんですよ!?」

「どうしてですか!?貴方には私がどうしようとどうなろうと関係ないでしょう!?ですから、離してください!」

「嫌です。俺は貴女を離したりしません。離したら、見ず知らずのうちに貴女は逝ってしまうのでしょう?俺は絶対にそのようなことはさせません」

「別に良いでしょ!?私が唯一、自分で決めたことなの!私の邪魔をしないでっ!」

「俺はただの通りすがりの者ですが、さすがに見過ごすわけにはいきません。貴女にどのような過去があり経緯があって、そんなことをしようとしたのか分かり得ませんが、自ら命を断つことだけは何があっても絶対にやってはいけないことです!」

「、、、じゃあ、私に、何をしろと言うの。この世には愛されず、誰からも必要とされないここで。それに加えて、私の気持ちを無視して、親が勝手に決めた人と結婚しなくてはいけないだなんて。私は絶対に嫌よ。家に帰れば、娘ではなく使用人同然として扱われるの。毎日のように手を挙げられ、おかげで私の身体は傷だらけ。ご飯も満足に与えられず、痩せ細るばかり。街に出れば、誰もが私のことを見て嘲笑う。そんなこの世で、私は、どうやって生きれば良いの!?何を信じて生きていけばいいの!?頼れる人も信頼できる人も誰もいないのにっ!私には生きる価値なんてものは存在しないのよっ。私は、もう、全てを終わりにしたいのっ。生きているだけ、良いことなんて何一つもないんだからっ!」

蔦子は、ずっと抱え込んできた苦いものを吐き捨てるように言った。蔦子はこれまでに自分の気持ちを誰かに伝えたことはなかった。けれど、自分の感じている苦みを素直に伝えられたのは、彼は知らない人であり、蔦子自身ももうどうにでもなれと思ったからかもしれない。それに、なぜか彼からは優しい椿の香りがするのだ。蔦子の実家にも、毎年冬になると必ず椿が咲いている。昔の蔦子は時間があれば、よくその椿を眺めていたものだ。今は昔のように余裕がなく、椿を鑑賞する時間は少ないが、それでも蔦子にとって、椿は慣れ親しんだものであり、大切なものなのだ。その香りにのせられたから、率直に声に出すことができたのかもしれない。

「そのような悲しいことを言わないでください。あぁそうだ、申し遅れました。俺は、千歳といいます。貴女は?」

「、、、蔦子といいます」

「蔦子さん、良い名前です」

彼、もとい千歳は蔦子の名前を呟いてから一言、良い名前だ、と言った。

「蔦でずっと縛り付けられている子みたいな名前のどこが良いのでしょう。私には分かりません」

「蔦というのは、野山などに力強く生息する植物です。だからこそ、生命力が強いんです。そこから、蔦子と取ったのでしょう。強い生命力を持った子に育つように。だから、俺は良い名前だと思います」

「どうせ、親はそんな意味ではなく、子を縛り付ける意味で名付けたのでしょうね。良い名前だんて、初めて言われたわ。蔦に縛り付けられている子としか言われませんもの。貴方は、想像力が豊かですのね」

「いえ、俺はそんなものは持っていません。それよりも、蔦子さん、好きなものはありますか?」

「好きなもの、、、。ないわ、そんなの」

「では、嫌いなものはありますか?」

「嫌いなものもないわ。私は私自身に興味がないんだもの。考えたこともなかった」

「本当にそれで良いんですか?」

「え?」

「悔しくないですか?自分のことを何も知らないのに、全てを諦めて終わらせてしまうのは。もったいなくないですか?どうせなら、自分のことを知り尽くしてから、終わらせましょうよ」

「けれど、自分の好きなものや嫌いなものを知っても、何にもならないじゃない。幸せになれるわけでもないし、生きる意味が見つかるわけでもない。それなら、時間の無駄でしかないわ」

「幸せになれない確証はありますか?」

「ないわ、そんなの。生きてみないと、分からない」

「そうなんです。生きてみないと分からないんです。では、反対に、幸せになれる確証はありますか?」

「それもないわ」

「では、どうやって、確証を作りますか?」

「そんなの、生きて証明するしか、、、あっ、、、」

「そうです。そうなんです。幸せになれるかなれないかなんて、生きて証明するしかないんです。蔦子さん、気になりませんか?これからの自分が幸せになれるのかなれないのか。今ここで、命を絶ってしまえば、自分の意思では逝けますが、幸せにはなれません。だって、この世が憎いのですから、魂だけはこの世に残ってしまうのです。けれど、生きてさえいれば、どんなことだってできるんです。幸せだと感じられないことだってあるかもしれませんが、それを幸せに変えられるのは、蔦子さん。貴女だけなんです。貴女が死を望めば、先程みたいに死に近づく。けれど、反対に幸せを望めば、幸せに近づいていくんです。幸せが蔦子さんについてくるんです。だから、蔦子さんは、幸せになれるんです」

「何をそんな」

「何をそんな偉そうに。ですよね。俺は今日初めて会った人、何よりも貴女の邪魔をした人です。そんな人を信じられないのは了承済みです。当たり前です。信じられるわけがありません。もし、俺が貴女だったら、俺も同じようなことを言うでしょう。では、俺を信じられないのであれば、自分自身を信じてみるのはどうですか?実は、自分自身が自分の1番に信じられる人であり、頼れる人なんです。自分を信じて、幸せになれる確証を手に入れるため、もう少しだけ、生きてみませんか?」

「、、、私は、し、幸せにな、なれる、のよね」

「はい。蔦子さんがそう願うのなら」

「なら、少しだけ、もう少しだけ、生きてみようと、思います」

「はい、そうしてください」

蔦子はなぜ、そこで生きてみようと言ったのか分からない。ただ、蔦子に目線を合わせ、優しく問いかけてくる千歳に、なぜか心惹かれたのだ。千歳はきっと、自分という誇りを持っている人なのだ。蔦子にはない誇り。人は、自分という人それぞれ違う誇りを持って幸せに生きている。もしかしたら、蔦子も自分という誇りを見つけ、幸せになりたかったのかもしれない。どんな時でも誇り高く、幸せに生きてみたい。

「蔦子さん、立ち上がれますか」

「はい」

千歳が蔦子に手を差し出す。蔦子は、戸惑いながらも千歳の上に手を重ねる。すると、千歳は割れ物を触るように蔦子の手を優しく包み込んでくれた。暖かく大きなその手は、蔦子の手をすっぽりと収めるほどである。千歳は蔦子の手を引いて、ゆっくりと歩き始める。後ろを歩く蔦子には、千歳から優しい椿の香りがしたような気がした。


それから蔦子は千歳に連れられ、すぐに帝国病院を訪ねた。とりあえず、重い怪我はなく、日頃の擦り傷や打撲ぐらいであった。これなら、数週間ほどで完治するらしい。蔦子はそんなに酷くなくてほっとしてしまった。今の蔦子には、幸せかどうかなんて分からない。そもそも蔦子自身、幸せというものがよく分からないのだ。これを千歳に言うと、これから見つけていけば良いとのことだった。



現在は、それから約数年後のこと。

「今日の帝都の街も、人が多いわね。気分が上がるわ」

今にして思えば、あの時の自分は本当に未熟だった。死にだけ捕らわれ、本当に蔦に縛り付けられていたように思う。けれど、今は違う。今の蔦子は、自分の意思を持って、誇りを持って、胸を張って、幸せに生きている。過去のことは簡単に水に流すことのできない苦しいものだ。では、苦しい過去を思い出さずにすむような生き方をすれば良い。幸せになれば良いのだ。苦しい過去があるからこそ、人は強くなれる。優しくなれる。人より何倍も幸せになれる。蔦子は、やっとそう思えるようになったのだ。

(私は、今、本当に幸せよ)

今の蔦子は、自分のことを知るためにいろいろなことに挑戦している。例えば、喫茶店で働いてみたり、だ。そんな充実な日々を送っている蔦子だが、ひとつだけ想うことがある。もう会うことはないだろう、自分を前向きに生きさせてくれた、優しく誇り高い貴方へ。

「蔦子ちゃ〜んっ!接客を手伝ってくださぁ〜い」

「はいっ!今行きます!」

「ありがとぉ〜」

「大丈夫ですっ。お客様、お待たせ致しました。ようこそいらっしゃいませ」

「その声は、、、。蔦子さん?」

「ち、千歳さん!?」

「やはり、蔦子さんですね。お久しぶりです。お元気そうですね」

「お久しぶりですっ。はい、元気ですし、幸せにやっています。千歳さんは?」

「そうですか、それは良かった。俺も元気にやっていますよ」

にこっと微笑んだ千歳からは、あのときと変わらず優しい椿の香りがした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る