第22話:蝶の羽搏き



 埼玉県和光市。理化学研究所は、市の一角を埋め尽くすほどに大きな敷地にある。分野ごとに別れた研究楝が連なり、大きな大学のキャンパスのようだ。近くには自衛隊の朝霞駐屯地もあり、和光市の特色ある場所となっている。

 ミサキの研究室は、敷地の正門から入って一番奥の方にある、脳神経科学研究・西研究楝にある。


 正門のゲートは壊されていて、手動で開ける事ができた。車を徐行させながら、ミサキの案内で奥へと進む。本楝は少し荒らされた形跡があったが、他の建物の様子は、奥に行くほど手つかずのまま、自然の侵食だけが進んでいた。

 西研究楝も蔦が伸びていたが、窓や玄関口が壊された形跡はなく、駐車場に止まっている数台の車も無事なままだ。シンジ達の車列は律儀に駐車場に停めてから、装備をチェックして、車から降りる。


「私の研究室は西研究楝にあるけど、隣の中央楝にもオフィスがあるの。こっちにある建物には食堂もあるわ」

「まだ昼過ぎだし、明るい状態のうちに見回るか?」

「まず、西楝の状態を見てから決めましょ」


 車を下りた後、バックパックを背負いつつ、ミサキとシンジは軽く打ち合わせを済ませた。続いてシンジはフォーメーションの指示を出し、リョウジ・ミサキ・カズヤ・シンジの順で直列に並び、玄関口から西研究楝に入った。


 玄関口の自動ドアは動いており、ロビーを照らす室内灯もともったままだ。電力が来ているのは分かったが、何故かセキュリティゲートは沈黙している。


「今なら他の研究が盗み放題ね。もっとも、食料に繋がるような研究は無いでしょうけどね」

「ノーベル賞出してくれる団体も、もう無いっスからね」


 ミサキの軽口に乗ったのはカズヤだ。


「エレベーターでもいいけど、階段で行きましょ。研究室は三階よ。右手の階段の方が近いわ」


 リョウジは案内に従い、右にある階段を登り始める。階段の壁はひび割れなどはなかったが、所々すすけており、蜘蛛の巣も張っている。階段床には埃が溜まっており、足跡などは見かけない。一度閉鎖したか何かの後で、ここを訪れた人は居ないようだった。

 そのまま壁伝いに一列縦隊で警戒しながら移動したが、何事もなくミサキの研究室に辿り着く。

 研究室といっても大きめの事務机と本棚、接客用の小さなテーブルと椅子が四脚、隅には休憩用のソファーがある小さめの部屋だ。

 ミサキは自分の机が、中国に出向する前のまま残っている事に、大きな安堵の溜息を漏らした。


「ハァー、やっと戻ってこれたわ!」

「おめでとう、ミサキ」


 ミサキは小銃を持ったまま大きく腕を挙げて喜んだが、返事をしてくれたシンジの顔を見て、少しバツの悪い顔をしてしまう。彼らが帰る場所を失っていたことを思い出した。


「その……ごめんなさい」

「何故謝る? それよりここで何するつもりだ?」


 そう聞いてきたシンジの顔は何も変わっていない。カズヤは分からないがリョウジも特に気にした風ではなかった。ミサキも気持ちを切り替え、これからの事を考える。


「取り敢えず、『ノルン』の事も気になるけど、パンドラウイルスについて調べたいわね。専門外だけどできる限り」

「そうか。時間は……まぁ掛かるよな?」

「そうね。少なくとも今日中では無理ね。ここのサーバーが動いてるかどうかもまだ見てないし」


 ミサキの言葉を受けてシンジは少し考える。自分達も、これからの事を練る時間も必要だ。


「なら、そうだな……ひとまずリョウジと俺で他の部屋や周囲を見てくる。カズヤはここで警戒しててくれ」

「了解」


 返事をしたのはカズヤだ。リョウジは言葉にはせずシンジに向けて頷いた後、そのまま部屋を出ていく。シンジもそれに続いた。



  *  *  *



 建物内の入れそうな場所を一通り見て回った後、シンジとリョウジは屋上に出た。いくつかのドアはセキュリティが生きており入れなかったが、ひとまずそこは無視している。リョウジは貯水槽に登り、双眼鏡で池袋方面を観察し始める。シンジの指示で、東京の黒工場の外壁とここが、どれくらい距離があるのかを知りたいためだ。


「壁は板橋区までは来てないですね。ちょうど池袋の外側にあるようです。約9.5キロってとこですかね。あ、サンシャインは見えます。壊されずに壁の中にあるっぽいです」

「外壁が拡張してる様子は?」

「どうでしょう……少なくとも壁の周囲を取り壊してる様子は、ここからでは見えないです」

 

 板橋区には高い建物は少なく、どちらかというと戸建ての多い住宅地のエリアが多くを占めている。高層マンションもあるにはあるが、元より少ない。中野区側は黒ビルの拡張していたが、埼玉方面には拡張していないところを見ると、『ノルン』にとって、魅力が無い土地なのかもしれない。

 少なくとも、近々にこの辺りが工場化する事はなさそうだという事は分かった。


「リョウジ、降りてきていいぞ」

「あー、せっかくなんで地図に情報加えときます」


 リョウジは器用にタブレットと双眼鏡を持ち替えつつ、何やら操作している。シンジは貯水槽に背を預けるように、その場に座った。

 

「ひとまず、ここに滞在する事として……」


 和光市はベッドタウンという事もあり住宅は選びたい放題だが、人口が多い場所なので荒らされたり焼失したりしている所も多い。場合によっては餓死して腐乱した亡骸なきがらがあったりもするだろう。流石にそういう場所を選ぶ訳にもいかない。

 この研究楝で寝泊まりしても良いのだが、長い期間をリノリウム床の上で寝るのも躊躇とまどわれる。この場所にはまだ着いたばかりで、周囲に生き残りが居るかどうかも確認できてない。

 最初の数日程は応接室などのソファーがある場所で寝泊まりしつつ、周囲を探索しながら、確保できるエリアを徐々に広げていくのが無難だろう──という所で、シンジの考えは止まった。その後の事についてはミサキ次第となり、自分達はどうするのかを考えられないでいた。


「まぁ、なるようにしかならんか」


 特に思いつくような大きな目的も無い。焦って長期目標を立てなければならない理由もまだ薄い。少なくとも数日から一週間程は悩む期間になるだろう、とシンジは考えた。


「シンジさん、周辺のプロット終わりましたよ。近い内に高い場所からもう一度見回りたいですね」

「そうか、分かった」


 リョウジが貯水槽から降りてきたので、シンジ達は周辺探索を続けるべく、屋上口へと歩いていった。



  *  *  *



 幸い、理研のLAN内部ネットワークは生きていた。サーバーも稼働している。外部接続となるインターネットは相変わらず断続的でしか見れないが、ミサキは自分のファイルにアクセスできた事を喜んだ。デスクトップPCに積もった埃を手で払いつつ、ケーブルを繋げてノートPCともリンクさせる。


「さて、私の権限で他の人の研究をどこまで見れるかしら……」


 ミサキは無自覚に独りごとを言ってしまう。元来、彼女は黙々とPC端末を睨むスタイルだったが、カズヤが居るせいか、それとも単に寂しさを紛らわす為かはわからないが、ぼそぼそと呟いてしまっている。


 カズヤはそれを気に留める訳でもなく、彼は彼で、自分のノートPCとタブレットを使って研究室をスケッチしていた。カズヤは本物の研究室に入ったのは初めてであり、ずっと立哨するよりは気晴らしになるだろうと、スケッチし始めていた。

 彼は存外、背景画のパースには拘るほうで、ワイドレンズのような歪ませた構図を好んでいる。だが、最初はしっかりとした正規のパースをスケッチしてから、別のファイルで歪ませる方針だった。彼の唯一といっていい程の、こだわり部分だ。


「うぅ、ネット迷子になる……」


 そんなカズヤの一面を知らぬまま、ミサキは膨大なデータベースで迷子になっていた。長い歴史をもつ国内最大級の研究機関だけあって、目当ての研究ドキュメントに辿り着くにも時間が掛かる。無論、検索も可能にはなっているが、参考文献や論文が綿密に絡み合い混雑しているので、検索がヒットしても膨大な量のリストが出てくるだけだ。研究に時間が掛かる一面でもあった。


「う、一つ上の階層が間違ってたか……。こっちじゃなくてぇ……」


 独り言は案外、自分で気付かぬままだと延々と続いてしまう。聞いているカズヤも、「あ!」や「お!」のような短い声には、少しだけ彼女に目線を送るが、その他の言葉には無反応のまま自分の作業を黙々としている。


「確かこの辺りに──」


 あった筈だと、ミサキは数年前に見つけていた、パンドラウイルスの解析結果の文章を探していた。しかし該当のファイルは見当たらず、手当たり次第に、同じフォルダにある他のドキュメントをいくつか開き、情報が更新されている新しめのファイルを見つける事ができた。


「これかぁ……。確かに、以前見たのとは違ってるわね」


 通常、遺伝情報は3つで1セット(コドン)となってその情報に基づいたアミノ酸が作られる。アミノ酸をさらに複雑に組み合わせる事で、タンパク質が作られるのだが、パンドラウイルスの遺伝情報は異常であった。

 本来は連続しているはずのコドンが飛び飛びになっていたり、意味のないアミノ酸配列を挟んでいたりと、壊れた遺伝情報になっているように見える。しかし実際にシミュレーションで組み上げてみると、何故か未発見の特殊なタンパク質が出来上がっている。これまでの遺伝子工学をひっくり返すような事が行われていた。


 ここまでは数年前に見たのと似たような内容ではあったので、ミサキは驚きはしなかった。しかし前には記載が無かったこの未知のタンパク質には、働きとして特色がある事が記されている。

 本来、ウイルスは自己増殖を行うための遺伝情報のみを持ち、細胞などを宿主にして、自分と同じコピーを大量生産させるものだ。パンドラにもその機能があったが、それとは別に、神経系には特別な作用がなされるようなタンパク質になっている。


『恐らくだが、この未知のタンパク質は細胞内活動を活発化させつつ、神経細胞においては分泌液の誤認識(ドーパミンをセロトニンへ等)を行っている可能性がある』


 つまりは、神経細胞を騙し、細胞自体を肥え太らせた上でウイルスを量産し、情報伝達物質を人為的に操作する事で、免疫誘発を妨ぐように指示を出している事になる。


「何よこれ……まるで知性があるウイルスって事?」


 知性というよりは、プログラミングされたマイクロマシンとも言える、とミサキは考えた。ウイルスは基本、宿主となる細胞を選り好みしている。これはウイルスの表面にあるセンサーが、目的の細胞とマッチするように造られているからだ。そういう意味では、自然界のウイルスもマイクロマシンと言えなくもない。

 だがパンドラウイルスはそれ以上の機能を持ち、神経を騙す可能性が示唆されている。生体に対するハッキング行為だ。


「……人が設計したとは思えないわね。やっぱり『ノルン』が……?」


 量子コンピューティング実用化の恩恵は、遺伝子工学にも多大な影響を及ぼした。タンパク質の構造予測や、構造からの機能推測など、デジタルコンピューターでは数十年以上かかる計算を実用レベルまで短縮できた。そのお陰で医療薬から実効性のあるサプリまで進化し、疾患率や死亡率を世界レベルで下げる事ができた。


 それでもまだ、特に倫理的・宗教的な問題との兼ね合いで、ウイルスや人工遺伝子による薬品や食物などは、なかなか発展しないままだった。

 もしパンドラウイルスが人の手によって造られたのなら、国際問題になるのは確実であり、下手をすれば核兵器以上の脅威とみなされるだろう。

 ただでさえパンドラウイルスの発祥地が米国西海岸であると特定されているのに、そんな発表をしたら米国が孤立化する。軍部が秘密裏に研究開発したとしても、いくら何でもそこまで危険なギャンブルをする筈もない。


「宗教観はともかく、倫理の概念を『ノルン』が持ってなかったとしたら……」


 ロボット三原則はSF作品での話だが、汎用人工知能に関しては、その開発段階からセンシティブな会話や、致命的な価値観の誤りなどを補正または無視するようにリミッターが掛けられている。『ノルン』にしても人の手で造られたものならば、当然そういった処理は施されている筈だ。しかも彼女にはロボットという手足があり、物理世界に干渉できるAIだ。その危険性は、ミサキ自身も感じており、再三に渡って訴えてきたにも関わらず……。


「──実際、起こってしまった事を嘆いても、か……。これはお手上げね」

「ん? ミサキちん、お手上げ?」


 それまで黙っていたカズヤが、不意にミサキへ言葉を掛けてきた。


「ゲームってちゃんとクリアできるようになってるんだゼ?」

「なら、さっさと攻略方法教えなさいよッ!」


 カズヤの言に、思わずミサキは机を強く叩いて叫んでしまった。



  *  *  *



 夜のミーティングでは、ここ一週間の過ごし方を主題とした話し合いが行われた。

 結果としては、周辺探索を続けつつ、長期滞在に備えて居住空間の確保や物資量の見積もり、敵対的な残党などへの警戒と、これまでとそう多くは変わらない内容だった。

 もっとも、これより先に移動するとしても何処か明確な目標地点も無く、ミサキの研究にどれくらいの月日が掛かるのか分からない以上、ここから移動する理由は無い。黒工場地区が拡大しており、埼玉県境まで来てるのであれば話は別だったが、少なくとも今の所はまだ外壁より大きな距離があった。


 また、それにあわせて、基本的な行動チーム分けが変更された。リョウジがミサキと一緒に行動しつつ、インターネット復旧と理研LANの保守などに取り組み、周辺探索はシンジとカズヤで行うこととした。


 ミサキとしては有り難い申し出であり、無論快諾した。自前のハッキングツールがあるとはいえ、気分的に多用したくは無いし、保守となるとエンジニアでない自分には荷が重すぎるからだ。専門家のリョウジが手伝ってくれるのであれば、助かる場面も多いだろう。


 ミーティングと休憩を終えた後、シンジとカズヤは巡回ついでに、野盗や侵入者を引き寄せないよう、点けっぱなしになっていた室内灯などを消して周った。

 リョウジはミサキと同じ部屋で、応接用の簡素なテーブルの上に自前のノートPCを載せ、室内のワイヤレスLANを使って理研のサーバーに入り込んでいる。ゲストとミサキの予備アカウントの2つを使って、可能な範囲で理研LANの様子を伺っている。


 そのお陰もあり、ミサキは自分の資料漁りに専念できた。できればプリントアウトしてペーパーメディアで一覧にしたかったが、今ではコピー用のトナーやコピー紙は貴重品でもあるので、無駄遣いは出来ない。自分の机にあるデスクトップとノートPCの2台で何とか賄うようにした。


「ミサキさん、僕の方では余ってそうな領域に簡単なキャッシュ一時保存サーバーを用意しときますね。時間掛かるでしょうが、一度呼び出せばメールくらいなら読み込めるかもしれません」

「ありがとう、助かるわ。もっとも、メール出してくれる相手が居たらだけどね……」


 パンデミック後の社会崩壊が始まってから、インターネットも徐々に使えなくなっている。ここ数年の間でメールを出す人は居たかも知れないが、今となって返信したところで、受け取る事すらできなくなっている可能性は十分にある。


「駄目モトでもやる、それが科学者よ──」


 ミサキは自分に言い聞かせつつ顎に指をあて、疲れを知らない右腕でマウスを動かし続ける。少し体に熱っぽさを感じていたが、食後の体温上昇だと思い、特に気にせず作業に没頭した。




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