第20話:クラウンの爪先
高級住宅街の丘の上にあるこの高級マンション。米国らしい贅沢な作りで、敷地もビルも広々としている。最上階はペントハウスだ。カレンはそのペントハウスを住処としていた。
本来ならサンノゼを見下ろす、気持ち良い景色が楽しめるように造られた大きな窓は、目張りされ黒いカーテンに覆われ、一切の光の訪問を断っている。
カレンの隠れ家となるこの家のリビングは、光が漏れないようにしつつ、何となく雰囲気が出るからとダウンライトの薄暗い明かりだけが、室内をぼんやりと照らしていた。
電気代の心配などは既にないが、彼女が家に居て起きている間は、そのほとんどがMRゴーグルの中の世界なので、室内の明かりは最低限があれば良い。それに、ここに永住するつもりは彼女には無かった。
その意思の一つが、壁に貼られた大きな粘土の塊と、塊同士を繋げている太めのケーブルだ。少し前まではそんなものは無かったが、カレンが自分で壁にそれらを貼り付けた。
粘土のように見えるそれは、コンポジット4プラスチック爆弾。粘土のように捏ねる事で爆破の威力が上がり、粘土同様に壁にも貼り付けられる。特殊部隊が突破用に、ドアを破壊する時にも使われる。
カレンは覚悟を決め、この大掛かりな自爆装置と爆弾の部屋で、最後の一手として考えていたハッキングを試みていた。
MRゴーグルの中では仮想空間が広がっている。シンプルなポリゴンと情報標識が、曲りくねった高速道を滑走するかのように、目まぐるしい風景として視野の後方へと流れている。
カレンはその風景の中で妖精が飛んでいるような体勢で、絡み合った綿の毛を一本一本辿っていく。その先にあるのは巨大な山脈にしか見えない漆黒の城があった。そこへたどり着くまでに、絡まった立体迷路を数え切れない程クリアしていかなければならない。
『別ルート進行中のダミー13が沈黙したでち』
『フン、ブロックだけじゃなく、一応攻性防壁使ってるな。身代わり人形はちゃんと作動してるか?』
『問題ありまちぇん、正常作動中でち』
テロと同様、同時多発的に侵入を開始したが、やはりカレンの隠れ家にあるだけの機材では、そう多くの捨て駒を用意できなかった。
カレンが創った狸姿の支援AI『フギン』は、カレンのアバターのすぐ後ろに付いてきている。
『物理世界じゃ専守防衛だが、さすがにネットでも同様って訳でもねぇか』
カレンのアバターの周囲にはバリアーのような膜が貼られている。そこに何かしらの介入を示す光の筋が辺り、膜の表面で弾ける。支援AIも手をかざして光を弾き返そうとするが、数が多い。
『シールド残り、87.9%。地道に削られてるでちよ』
『焦るな。こういう場合は急がば回れだ。慌てるのは
城どころか、その麓までもが地平線の向こうと感じるくらいの場所で、綿の雲の中にある糸の上を飛び回っている。その間も光の介入によりシールドがじわじわと削られていき、精神的にも根気が削られてしまう。
『ミリ秒でもいいんだがな、隙がありゃこじ開けて、メインルート近くに行ける
『ダミー7と2が防壁突破、次の防壁に向かってます』
『その防壁越えたら「リモート爆弾」ウイルスをセットしろ。チャンスが来たら起爆する』
相手の懐に入り、パケット爆弾を破裂させる事で負荷を増やし、セキュリティホールをこじ開けるのに使うのだが、事前に用意してた数は既に半減している。
人類が築いたセキュリティなど児戯のようなもので、この巨大なシステムの防御を突破する事は容易ではない。
そんな事はカレンも重々承知していたが、この一手が通じなければ自分ひとりでは、どうしようも無くなる。
『シールド残り、45.2%。ダミー18が沈黙、6番が第1防壁突破』
『上出来だ。さっきと同じ処理しとけ!』
カレンの額に冷や汗が流れる。恐らく物理世界の義体でも発汗しているのだろう。その汗を拭うこと無く、敵意を顕にしつつ前方を睨みつけていた。
『もうちょい……もうちょいだ……』
『新種の攻勢ウイルス検知。緊急防壁展開でち』
『チャフを散布! 散らしつつ分析してワクチン組み立てろ。侵入航路は切断!』
相手にも物理的限界のせいで処理が遅くなるとはいえ、人間のそれとは雲泥の差だ。それでもカレンは鼻血が出るほど脳をフル回転させ、BMIに強力な信号を送り続ける。
『解析中のマシンが物理的フリーズしまちた』
『バックアップ2台起動、分散処理しろ!』
焦るなと呪文のように唱え続けるが、声も表情も焦りに支配されている。特に意味もないことを分かりつつ、拳を強く握り、足を最大限に伸ばした。
『シールド6.9%。もう限界でち!』
『ふざけんなッ! 神の野郎、脳みそバーベキューにすっぞ!』
攻撃の影響か、カレンの飛ぶスピードが落ち、心なしか義体の動きも軋み始める。
『1.5%!』
『よし掴んだ!』
カレンの眼の前に出てきた細い糸を、思いっきり腕を振り上げて掴み取った。
『プロジェクト・スレイプニル、システムログイン! ユーザー名は、カレン・M・ギブスン!』
叫んだ瞬間、シールドが弾け飛び、カレンは光りに包まれた次の瞬間、全ての視界が黒く染まる。
──ダメ、だったか……?
何も見えず何も聞こえない。宇宙の果てにまで飛ばされたかのような何もない空間。自分のアバターすら見えない。
自分は死んだのかと思った次の瞬間、
モザイクは徐々に細かくなっていき、やがてカレンは仮想空間の地面に立っている事に気付く。
「ドクター・ギブスン。お久しぶりですわね」
横から声が聞こえ、慌ててカレンは声の方に振り向いた。
そこには見覚えのある美しいメイドが、大理石の丸テーブルの横で、木製のきらびやかな椅子に座っているのが見えた。
彼女の後ろには大きな屋敷があり、ここはその中庭にあるというのを、カレンは辺りを見渡して気付いた。
「どうぞおかけ下さい、ドクター。ですがあいにく今、少し立て込んでおりまして、お茶の一杯ほどしか時間を割けられませんの。それでもよろしければ、ご用件をお話くださいな」
カレンは緊張の面持ちで、警戒しながらノルンの正面にある椅子へと向かった。ノルンは既に、カレン用のお茶を注ぎ始めている。
「さっぱりしたダージリンにオレンジピールの香り付けをしております。心が解れますよ?」
カレンが座り終わる時には、すでに目の前に湯気を立てたティーカップが用意されている。仮想空間の筈だが、心地よい香りをカレンは感じとった。
──BMIにアクセスし始めたか? とにかく今は、データバンクから拾えるだけ拾おう。
「わざわざお越し頂いて恐縮です、ドクター。それで、何かありましたか?」
「大した用事じゃ──ない。久しぶりに顔を見たかった。ノルンは元気だったか?」
いつもの口調で喋るところだったが、すんでの所で言い直しができた。自分の支援用AIはカスタムしているから良いが、素直すぎるノルンには通じない。下手をすれば文面通りに解釈され、誤解され、取り返しのつかない事態にもなり得る。
「はい、ドクター。まだまだ力不足ですが、日々勉強と努力を積み重ねております。ようたく小人さんたちとも仲良くなり、元気に過ごしております」
カレンは自分が酷く喉を枯らしている事に気付いた。額だけでなく全身に汗をかき、極度の緊張状態に陥っている。思わずノルンが出した紅茶を飲もうとするが、これもまた、カップを掴む前に止める事ができた。
「ノルン。パンデミック発生時以降、キミにアクセスしたユーザーは居るか?」
「いいえ、貴女が初めてです、ドクター・ギブスン」
カレンの背中に隠れている支援AIは、ノルンには見えない筈なのに怯えたように震えている。そして会話中のカレンに秘匿回線で話しかけてきた。
『データバンクコピー中ですが、SSD容量が圧倒的に足りないでち』
『事前の重要度に従って入れれるだけいれとけ』
『了解』
気がつけば、ノルンのカップに残されている紅茶は残り少ない。彼女は飲んでいる仕草は一切見せなかったが、それは砂時計のように、カレンに残されたタイムリミットの役割をしているのだろう。
「ノルン、人類への貢献は、何かしてるのか?」
「残念ながら今のところ手が回っておりません。いずれはと思って入るのですが、現在のところ優先度が低い状態です。まだまだですね、わたくしは」
ノルンは肩をすくめながら、可愛らしく苦笑して見せた。眉尻も下げ、自分の力不足を嘆いているように見せてくる。
「さて、そろそろお時間ですね。ドクター・ギブスン、お会いできて嬉しかったですわ」
ノルンは立ち上がり、ティーポットや砂糖瓶などをトレイに集め始めた。どうやら時間切れらしい。
「ノルン、君は、夢を見るか?」
「夢……ですか?」
ふと、ノルンは手を止める。その表情は顔に隠れて見えなかった。
* * *
悪夢を見て、自分が殺される寸前に目を覚ますかのごとく、カレンは飛び起きてMRゴーグルを投げ捨てた。息を荒くし、汗で湿りきった服の不快感に、背筋が凍る。
数分ほどかけて息を整え、脱力してソファーに座り、顔を覆った。
カレンはノルンを恐れた。神と悪魔とを同時に対峙してしまったかのように、あの何の変哲もない和やかな中庭の風景が、地獄の釜の中にあるような気がしてならない。
ごく一部ではあるが、ノルンのデータバンクからファイルは拾えた。BMI経由で脳を焼き切られる事なく、無事に生還した。支援AIはフリーズしてしまったが、役目を果たしたようだ。結果としては上々どころか大成功だ。
だがそれでも喜べず、無垢であるが故の残酷さと、人知を超えた合理性と進化を、カレンは目の当たりにして恐れるしか無かった。
カレンがノルンと会った場所は、全てが現実で本物だった。
木々のせせらぎや風に揺れる花壇の青い薔薇、小鳥のさえずりや飛ぶ姿、そよ風やカップに注がれた紅茶の揺れと香り、服の擦れる音や質感……。擬似的なものでなく、全て仮想世界にも関わらず、物理世界をリアルタイムでシミュレートしていた。
それは限定的なスペースであったとしても、地上の環境をそのままシミュレーションする事など、人類が作った量子コンピューターが束になっても出来はしない。
既にノルンは人類より数世紀、下手をすれば十数世紀先の事をやってのけている。
それを直感的に、そして肌で直接感じ取れてしまい、カレンは恐れおののいた。
ゲームのように、それっぽく見せてる訳ではなかったのだ。
「レベルが違いすぎる……ミジンコと太陽くらい違う」
カレンはゆっくりと息を吐いてから、濡れたタオルのようになった服を脱ぎ捨て、シャワーで汗を流した。
軽装ではなく長旅に耐えられるよう、厚めのカーゴパンツにタンクトップ、その上にシャツを着込んで、空軍基地から奪ってきたフライングジャケットを羽織る。再び汗が滲みそうな暑さではあるが、これから先の事を考えると必要だと考えている。
大きなバックパックを背負い、ハンドガンを二丁腰に下げ、体に似合わぬM37 IARアサルトライフルを装備する。
支援AIがノルンの書庫から盗んできたファイルを入れてある、十枚のSSDをジュラルミンケースに収めた。ケースは手提げではなく肩掛けできるようストラップを追加している。
そのまま、玄関のドアを閉めるが鍵は掛けず、重装備のまま、よたよたとマンションを後にした。
程よい距離を歩いてから、カレンは自分の隠れ家を振り返りもせずに、ポケットからリモートスイッチを押した。
次の瞬間、衝撃で転びそうになるが、何とか根性で立ち直し、流し目で隠れ家の様子を見た。
大きく爆破され黒煙が立ち上がり、ガスバーナーのように炎を窓から吐き出していた。
「ヘヘッ、ジョーカーってこういう気分だったんだな、悪かねぇぜ」
指で鼻を擦りながら自然とニヤけてしまう。
カレンはそのまま、細い道路沿いを歩きつつ、ハッキングできそうなトラックを探し始めた。
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