第3話 仏壇の前でビールと語らう
藤助にとって、一日の締めくくりは仏壇の前でのひとときだ。妻が亡くなってから、この時間は彼にとって特別なものとなった。静かに手を合わせ、そしていつものように、ビールの缶を開ける。それが藤助のルーティンであり、心の安らぎでもある。
今夜も、藤助は湯上がりの心地よさとカラオケの余韻を感じながら、仏壇の前に座っていた。ふと、缶ビールを手に取り、静かに仏壇に語りかける。
「今日も、無事に一日終わったよ」
仏壇には、亡き妻の写真が静かに微笑んでいる。彼女は優しい目で藤助を見つめ、言葉はないが、その表情から藤助は何かを感じ取る。
「カラオケ、やっぱり良いもんだな。今日は『贈る言葉』を歌ったよ。昭和の名曲だ。お前もよく聞いてたよな」
ビールを一口飲むと、冷たさが喉を通り、心地よい感覚が体を包み込む。藤助は何気なく、仏壇に目を向けたまま、ぽつりぽつりと話し続けた。昔、妻と一緒にカラオケに行った思い出や、二人で銭湯に通った日のこと。特別なことではない、ただの日常だったが、今となってはそれが彼の宝物だ。
「俺も変わらずやってるよ。ちんくんも相変わらずだしな。今日は、ネットスーパーで頼んだものがちゃんと届いたし、問題なしだ」
ちんくんは、部屋の片隅で黙々と充電をしている。彼はAIロボットとして、毎日の生活をサポートしてくれる存在だが、仏壇の前でのこの時間だけは、藤助と妻だけの静かな世界だ。
藤助は、ふと後ろを振り返ると、娘のいちかが自分の部屋で静かに勉強しているのが見えた。彼女はオンラインスクールで勉強を進めており、学校には通わず自宅で受講している。物静かであまり感情を表に出さないいちかだが、彼女なりにしっかりと成長していることを、藤助は陰ながら感じ取っていた。
「いちかも、ちゃんとやってる。俺も、父親として見守るしかないんだよな」
ビールをもう一口飲み、藤助は仏壇の前でしばらく静かに座り続けた。何も言わなくても、亡き妻との会話が続いているような気がする。藤助は、妻がいなくなっても、こうして心の中で語りかけることで、彼女との繋がりを保っているのだ。
ふと、ちんくんが藤助の背後で動き出した。「藤助さん、明日のスケジュールはカラオケではなく、図書館でのお仕事です。お忘れなく」
藤助はその言葉に少し微笑んだ。「わかってるよ、ちんくん。明日は仕事だな」
ちんくんの無機質な声が、藤助の日常に少しの安心感を与えてくれる。ちんくんは、ただのロボットだが、その存在が藤助の生活に欠かせない一部になっていた。
「じゃあ、今日はここまでにしようか」
藤助はビールの缶を仏壇の前に置き、手を合わせて立ち上がった。もう少し話したい気持ちはあったが、また明日もこうして妻に語りかけられると思うと、それで十分だった。
その夜も、藤助は静かに布団に入り、ゆっくりと目を閉じた。何も特別なことはない一日だったが、藤助にとってはそれが大切な日々だった。普通の日常が続くこと、それが藤助の心の平穏を保つ唯一の方法だったのかもしれない。
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