ハードルの向こう側

月音うみ

『ハードルの向こう側』

「跳べる、跳べるっ、うちは跳べる」


ハードルは私にとって唯一の存在証明だった。

ハードルを跳んでいる時、物語の主人公になった気がしていた。

北垣中学校の陸上、80mハードルの選手=私と人から名前を上げられるまでの選手だった。


あの時私には好きな人がいた、その人は野球部の1人だった。

一緒のグラウンドにいられることが、気持ちを伝えられない私にとっては幸せだった。

彼の名前は田沼ひろき、野球部でセカンドをしている。

うちの中学は強制的に丸刈りにしないといけない式たりがあった。

丸刈りを嫌がる野球部員に対しては申し訳ないが、丸刈りフェチな私にとってはありがたかった。

ひろきくんと私は幼馴染で、昔一緒によくゲーム機を持ち寄って遊んでいた。

お習字教室の石油ストーブの前でフルーツの飴玉を舐めながら先生を待ったのも覚えている……。

小学生に上がるとひろきくんは野球クラブに入った。

ひろきくんがクラブを始めてからと言うものの、なかなか遊ぶことができなくなって、あんまり喋らなくなってしまった。

当時の私は運動音痴だった。

それでもクラブに入ることを考えたこともあった。

しかし、上の学年の男の子達が怖くて辞めた。

あっ、ひろきくんのところにボールが飛んだ! すごい。キャッチしてる。

ひろきくんが野球をしているところを見るのが私は好きだ。

野球をしているひろきくんの表情は生き生きとしてる。

あの日、隣でゲームを夢中になって覗きこむキラキラしている目が大好きだった。



「はねる〜! おーい! 羽瑠ってば」

「ごめんごめん」

「何見てんの? って。ははーん。さてはひろきくん見てたね」

同じ陸上の短距離プレイヤーの日向がニヤニヤとしながら近づいてきた。

「何言ってんの、見てないって」

「隠さなくてもいいじゃない」

「いいから、練習するよ」

「どう? 次の大会跳べそう?」

「ん〜、どうだろうね」

「またそうやって、誤魔化すんだから」

「大丈夫だから」


日向には最近頭を悩ませていることがあった。

ひろきくんのことではない。

羽瑠はハードルを跳べなくなっていた。いわゆるスランプに陥っていたのだ。

原因は単純で、以前跳んでいた80mハードルから100mハードルへと種目が変更になったからだった。

「羽瑠、明日から100mハードルに変更だ。学年が上がったからな。練習しとけよ」

顧問の先生からそう言われ、100mハードルの練習を始めた。

80mハードルは高さ0.7mに対し、100mハードルは0.84mである。

たった0.14mの差でしかないと思えるが、ハードラーにとってその大きさは大きかった。

身長が156センチの羽瑠にとっては、なおさら大きかった。

走る距離も80mから100mになり、跳ぶハードルの台数も9台から10台に増える。

そして、一番大きな原因は初めて出場した大会の100mハードルの試合で羽瑠はゴールまで走れなかったことだった。

距離が変わったことによって、勢いと体力がもたなかったのだ。

羽瑠は8台目で勢いを無くし、止まれもせずにそのままハードルを手で持ってしまった。

結果として、羽瑠はゴールまで走ることができなかった。

何より、自分の存在意義だとすら思っていたハードル種目でのこの失態は、羽瑠にとって耐えられる物ではなかった。

後ろを走っていた隣のレーンの選手がスピードは遅いものの、しっかりとしたリズムでハードルを飛び越えていく。

「なんで私は跳べないの……?」

 ほんの一瞬だったが、跳べる側の姿を見せつけられた気がした。

退場している時に、羽瑠は応援してくれていた同じ部活仲間がいる方に顔を上げることができなかった。

「恥ずかしい……。みんな期待してくれていたのに」


羽瑠はそれ以来、ハードルを目の前にするとあの大会のトラウマを思い出すようになっていた。走り出すことは出来ても、ハードルを跳ぶ直前ギリギリまで来ると小刻みに歩幅が縮まり、走ってきた勢いを殺してしまう変な癖がついてしまっていた。

また勢いのまま跳べなかったら手でハードルを持ってしまうかもしれない……という恐怖心からの行動だった。

もちろんそんな状態ではハードルは跳べず、もう一度と走ってもその繰り返しになる。

そんなことを羽瑠は誰にも言えていなかった。


 ▼


「次の大会までには跳べるようにならないと。ハードルの出場枠、他の人に取られるかもしれない」

羽瑠は夕方遅くまで、一人残って練習していた。

目の前に白地に黒の目のようなハードルの模様が走るほど近づいてくる。

「あと2歩! 1っ歩!」

タタタ……

羽瑠は跳べず、ハードルを手で持ってしまった。

「どうして……、どうして跳べないの」

顔下に向けると熱いものが目から滴り落ちた。

    コロコロコロ

ハードルの横に野球のボールが転がってきて目に入る。

あっ、ボールだ……。

「すみませーん、ボールこっちに投げてくださーい!」

「はーい!」

目を擦って、顔を上げた時だった。

目の前でグローブを構えていたのは、ひろきくんだった。

精一杯の力でボールを投げた。

ひろきくんはボールを受け取ると、そのままこっちに向かって走ってきた。

「羽瑠、何してんの? 練習?」

「そう。投げ返したのに何で走ってきたの?」

「だって、羽瑠泣きそうな顔してた」

ひろきくんは昔からそうだった。

羽瑠の顔色一つ見ただけで、言い当ててくる事が多かった。

「……きいてくれる?」

「いいよ」

ひろきくんはグラウンドの側のコンクリートの階段にグローブをポスっと置き座った。

羽瑠はスランプに陥っていることをこの時初めて人に話した。

「……そっか。ちょっと見せて」

「えっ……、いいけど」

言葉ではそう返事したが、本心はすごく嫌だった。

ひろきくんにこんなカッコ悪い姿見せたくないよ……。

心の中の羽瑠はそう叫んでいた。

「いくよ〜!」

「おう!」

羽瑠は走った。

体を徐々に起こし顔を上げると、ハードルが目の前にあった。

行けそう? ……やっぱ無理! 怖い!

羽瑠はまたハードルを持ってしまった。

「わかったよ」

そう言い、砂利音を立てながらひろきくんが近づいてくる。

「何で私、跳べないのかな?」

「見てた感じ、羽瑠。ハードル跳ぶの楽しんでないだろ」

「えっ。なんで」

「顔が泣きそうだった。前練習してた時、もっとイキイキしてた。動きも軽かったし」

「私、どうしたらいいの?」

私はひろきくんの切れ長の目をじっと見つめた。

「一回、80mハードルの間隔の長さに変えていいか?」

「うん、でも今更80mハードルの練習だなんて」

「いいから、飛んでみろ」

「わかった……」


「いくよー!」

羽瑠は助走をつける。

1台目が目の前に迫ってくる。

羽瑠は跳べた。

久しぶりにハードルを跳んだ時のフワッと浮く感覚が蘇ってくる。

「跳べたじゃん」

「でもこれ、80mハードルだから意味ない」

「わかってねーなぁ、羽瑠」

「ここから徐々に、ハードルの間隔を広げていくんだよ。跳べたら広げる、の繰り返しだよ」

「それで跳べるのかな」

羽瑠はそれから1時間、ひろきくんに見守られながらハードルの練習に打ち込んだ。


 ▼


「今日はありがとう! おかげで久しぶりに跳べたよ。あの方法、どうして思いついたの?」

「ああ、あれ実は野球で速い球を打つ時の応用なんだ。バッティングセンターで練習する時、 いきなり速度を上げた球を打ち返すのは難しい。だから球の速さに目を慣れさせるために徐々に球速を上げるんだ。それだと打てなかった球も打ち返すことができる」

「そうだったんだ」

「だからハードルもきっと同じだと思ってね、羽瑠なら跳べるよ」

ひろきくんはニシシッと悪戯げな笑みを向けた。

「ひろきくん。来週の土曜日、大会があるんだけどよかったら見にきてくれる?」

「わかった。見にいく」

夕陽が二人を茜色に染めていた。



   大会当日

心臓が波打つ。

目の前には10台の大会用の重く、青いハードル。

練習のために3台くらいを羽瑠は跳んだ。

体が重い。

あれだけ練習したのに、私まだ怖いんだ……。

跳べないかもしれない。ゴールできないかもしれない。

一度嫌な想像をしてしまうと、スパイクにこびりついて固まった砂の塊のように離れない。

棄権という2文字が頭をよぎる。

ひろきくんにも見てもらったのに、棄権を考えるだなんて私ってこんなに臆病者だったっけ……どうせまた飛べ……

そう考えた時だった。

「羽瑠! いいから前見ろ!」

ひろきくんの声が聞こえた。

目の前に補助員と書かれた名札を首からぶら下げたひろきくんが立っていた。

「よう、下ばっか見んなよな。羽瑠なら跳べる。俺が保証してやる」

ニシシッと太陽が微笑んだ気がした。

   オンユアマーク、セット。

 深呼吸をして屈んで地面を見る。

「ひろきくん、ありがとう。私、自分を信じてみる。見てて」

   パン

羽瑠は走り始めた。

目の前にハードルが迫ってくる。

跳ぶ! 私なら跳べる!

1、2、3、4……5!

羽瑠は思いっきり、左足を踏み切った。

フワリ。

頭ひとつ分体が浮き上がる。

並んだハードルがドミノ倒しのように並んで見える。

あっ。この景色いつぶりだろう……。好きだった風景だった。

前見て走れか。私、ずっとハードルを見ているようで、見ていなかったんだ……

羽瑠は100mハードルに種目替えした時から、ハードルが並ぶレーンの先ではなく。次に飛び越えるハードル自体を見てしまっていた事に気づいた。

ひろきくんには、いつまで経っても敵わないな……

1、2、3、4、5! 

1、2、3、4、5!

呪文のように唱えながら跳ぶ。

跳べる! 跳べる! 私なら! 跳・べ・る!!

気づいた時には、一番でゴールしていた。

「楽しかった〜!!」

羽瑠は夏の青すぎる空に向かって吐くようにつぶやいた。


「お疲れっ!」

補助員の帽子をグワッと深くひろきくんが被せてきた。

「もう、前見えないよ!」

「見えてるだろ! 羽瑠ならさ!」

「そうだね。あっ、今度バッティングセンター連れて行ってよ」

「しっかたないな〜! 俺の打法に惚れるなよ」

「そっちこそ」



(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ハードルの向こう側 月音うみ @tukineumi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ