ある魔女の受難

橘月鈴呉

ある魔女の受難

 この世界には、世界を成り立たせる為に必要な役目を受け持つ人間が、二人存在する。


 一人は聖女様だ。今代はこれまでの方々と違って男の方なので、聖者様と呼ばれている。……いや、いた。


 この世界は聖女様の祈りによって支えられている。聖女様がこの世界の安寧を祈り、祝福を与えることで、日の光の、風の、雨の、山の、森の、海の、ありとあらゆる恵みが、我々人間にもたらされるのだ。

 ……ここまでは、この世界に生きている人間なら誰でも知っていること。


 でも、その為に聖女様に何が課されているのか、そしてこの世を支えるもう一つの役目を担う人の存在を知っている人は少ない。そして図らずも私は、この世界の真実を知る数少ない存在、世界を支えるもう一つの役目を受け持つ『魔女』に選ばれてしまった。





 床の拭き掃除を終わらせて、雑巾をバケツに放り込むと、立ち上がり腰をぐいーっと伸ばした。


 結構な期間人が不在だった為に埃っぽかった家は、なんとか人が住める環境が整った。


 このまま椅子に座って一休みしたかったが、そのまま立ち上がれない未来しか見えないし、雑巾がけしたままの手を清めたかったので、「よしっ」と気合を入れると、雑巾を放り込んだバケツを持って井戸へ行き、雑巾を洗って片付ける。


 一息吐くのにお茶を淹れようと、台所に向かう。ミルクパンを手に取って、水瓶を開けようとして手を止める。水瓶のとなりへ目を向けると、床に置かれた盥の上に魔法石が固定されている。

 その魔法石の下にミルクパンを持っていき、魔法石にそっと魔力を流す。チョロチョロと、カップ一杯分にもならない水が魔法石から出て来る。もう少しと、また魔力を流してみる。すると今度は大量の水が勢いよく出てきてミルクパンから溢れ、地面の盥に当たって跳ね返った。まだまだ魔力を流すことに慣れていないため、練習が必要である。


 大体にして、まず自分の体の中に魔力が流れているということ自体に、まだ慣れない。


 魔力は、魔石や一部の植物の中にあるものだ。魔力が無くなった魔石を聖堂に持って行って、聖女様の祈りによって満たしてもらうことはあったらしいけど(聖者様の長い不在で、今は聖堂で魔力を満たすことが出来ないのだけど)、魔石などを買わずに、自分の体の中の魔力で魔道具を動かすというのは、ひどく不思議な気分になる。


 竈の上に、水の入ったミルクパンを置く。火を入れる所にも魔法石があり、そこに魔力を流していく。水と違って火はやり過ぎると本当に危ないから、とても慎重に。


 とりあえず火が着いた。といっても、まだどうしようもない火力なので、もう少しだけ流す。少し火が強くなった。まだお湯を沸かすには弱い気がするけど、これ以上は失敗が恐いので、これでいくことにする。


 火にかけたミルクパンに茶葉を二匙入れる。火力が弱いから、お茶が煮出されるまで時間がかかるだろう。私は漸く、疲れた体を椅子に落ち着けた。


「はああぁぁ……っ」

 体の中に滞る疲労感を吐き出す様に、大きくため息を吐く。


 人心地つくと、机の上に置いたままだった本に手を伸ばす。手書きで、装丁も筆者が行ったことが分かる手作りの本は、同じ様にこの家に残されていた手作りと分かる本のなかでも比較的新しい、おそらく先代の魔女が残した物だろう。その証拠の様に、本の末尾には私への謝罪が書かれている。






『次の魔女へ―




 私は弟子を取れなかったから、次に魔女となるあなたは覚悟も知識も持てないままに魔女に選ばれてしまったことでしょう。


 本当に、あなたには苦労をかけることになってしまって、ごめんなさい。


 私も、本来しなくても良い苦労を、次代に強いる様なことはしたくなかったのだけど、私が次代になり得ると思う子と出会うより先に、聖者が世界を祝福出来なくなってしまい……』




 鍋からお茶が吹きこぼれる音が聞こえ、私は本から意識を竈に移す。


 竈に近付いて手を翳すと、魔法石に残っていた魔力を吸い取る。魔法石からまだ火が出ている為に直接触れなくて難しいけれど、代わりに魔力を込める時と違って加減が要らないので、どちらが大変かは悩ましいところだ。


 棚からポットを取り出すと、茶漉しを片手にミルクパンからお茶をポットへ移す。そのポットからカップにお茶を注いで、椅子に座ると漸く一息だ。


 カップのお茶を一口飲むと、ため息が漏れる。


 突然魔女に選ばれて、まだ二週間程しか経っていない。これまでの生活と変わり過ぎて、疲労感が半端ない。いや、これまでの生活なんて、もう具体的には全然覚えていないのだけど。


 魔女は人の中から選ばれるけれども、魔女になればヒトの枠から外れることになる。それは、これまで人間として営んできた生活全てからだ。


 私の体感としては、ある日行かなくてはと思い立ち、迷うことなくこの歴代の魔女が住んできた家に着いた、まるで住み慣れた我が家へ意識せず帰り着く様に。そしてこの家に着いた頃には、私はどこから来たのか覚えていなかった。


 多くの魔女は、先代の魔女に師事して修行していく間にそれまでの縁が解れていくのだけど、私の様に先代が次代を選ぶ前にその役目を終えてしまい、世界自体に選ばれた魔女はもっと性急に人間社会との繋がりを断たれていく、何も残らない。特に、残された人々は魔女に選ばれた者のことを、忘れたことすらも気付かないのだ。


 立ち上がって伸びをする。背中からパキパキと音が聞こえた。


 さて、と思いを巡らせる。


 完璧というには足りなくても、家の中はもうすっかり廃屋ではなく、人の住む家の様相を取り戻している。細かい片付けは、住んでいく中でやっていけば良いだろう。


 となれば、世界から魔女としての仕事を押し付けられる前に、少しでも多くの知識と、体に宿る魔力の使い方を覚えなくてはいけない。本来なら先代魔女の元で成長していく修行時代が、私には無いのだから。


「ま、でも明日からで良いかな」


 今日はもう、ごはんを食べて寝てしまおう。


 夕食の支度に動き出す。

 必要はなくなっても、ごはんを食べないのは、やはり落ち着かないのだ。






 時々体を動かす代わりに魔力を使う練習をしながら、ひたすらに歴代魔女たちが残した本を読む。


 魔法や薬の研究や、魔女としてどんな仕事をこなしたか、そういった魔女として次代の糧になりそうなことが色々書いてあり、その中には魔法石の作り方もあった。


 元々魔法石は、布などの自分で作るには大変な物を手に入れる為に魔女が取引したことで、人々の中に広がっていったらしい。何人もの魔女がそうやって魔法石を人の世に流し、いつしか人々の中からも、魔法石を作れる人が出て来た。理論さえ理解出来れば、魔石の魔力を使って魔法石を作ることが出来るのだとか。


 そんな魔法石作りは魔法の練習にもなるし、作っておけば自分で使うなり、人に売るなり、使い道が多いのでやろうと思う。


「うわ、本当にあった」


 歴代魔女が、魔法石を作る石を拾っていた滝に来た。聖女様の祈りが途絶えた影響で崖の壁面から吹き出す水は弱く、それを受け止める抉れた地面も、滝つぼと呼ぶには細やかだったが、その分透明な美しい石がたくさん沈んでいるのが良く見えた。魔法石に加工出来る石は、世間的には少ない鉱山を掘り、原石を磨いて作る。そんな石が水流に磨かれ、滝に押し出され、滝つぼに無数に沈んでいる。……正直、感動とかじゃなくて引いた。


 これも魔女への優遇措置なんだろうか、魔法石の有り難みは無くなる。一応庶民も手を出せるとはいえ、贅沢品の範疇なのだけど。


 水に手を入れ、持ってきた籠に持って帰る分の石を入れていく。手を濡らす水は、思っているより生ぬるい。


これもおそらくは、聖女様の不在の影響だろう。聖女様が神力を使って世界を祝福しなくては、世界は恵みを受け取れずに、地は痩せ、植物は萎れ、水は枯れていく。だからこそ、世界を祝福する聖女様が必要なのだ。


(もうひと月か)


 石を拾って籠に入れながら思う。


 先代の魔女が役目を終えたのは、先代の聖者様がその神力が尽きたのと同時だったはずだ。先代魔女が役目を終えてすぐに私が魔女に選ばれてからひと月ということは、聖女様の不在期間もひと月。世界が魔力を与えれば良い魔女は、すぐに次代を覚醒させることが出来るが、体に眠る神力を開花させなければいけない聖女様は、そうもいかないらしい。


 歴代魔女の残した本を見るに、大体聖女様の代替わりには一ヶ月くらい必要なようだ。そう考えると、そろそろ次代の聖女様が覚醒するのではないだろうか。


 丁度手に持っていた石をコロコロさせながら、聖女様のことを考える。


 歴代の聖女様たちがどこの出身かなんて、聞いたことがない。


 自信で体験したことを鑑みれば、おそらく聖女様も人の枠から外れた時に、故郷とか家族とか友達とか、そういう個人的な記憶を自分の名前以外忘れてしまうのだろう。そして、親しかった人々も、聖女様と親しかったことを忘れるのだ。


「理不尽だよなぁ……」


 自分のこととしては悲しいとかの感情も、その元になる記憶が無い為に湧かず、なんとなく流していたが、改めて他人にその出来事が降りかかると思うと、理不尽さを覚えてしまう。


(まあ、必要なことなんだろうけどね)


 手のひらで転がしていた石を籠に入れ、そろそろ良いかと立ち上がる。


 聖女様に、愛着の元になる個人的な記憶が残っていると、祝福の祈りに偏りが出てしまう。理屈では分かるのだけども、心ではそうもいかないのだ。





 ランプの魔法石を今日作った物に付け替えると、一度家を出てランプを付ける為に魔力を注ぐ、失敗すると火事の心配もあるので慎重に。付いた炎は想定よりも小さくて、魔法石の作成か注いだ魔力量に足りない部分があったのだろう。両方ともの可能性も大分ある。


 ため息を吐くとランプを持って立ち上がり、家の中へ戻る。


 もっと練習しなくてはいけない。


 チロチロと、小さく不安定な光を放つランプを机に置き、一冊の本を手に取る。先代の書いた、末尾に私への謝罪文のある本だ。


 次代の聖女様へと思いを馳せたからだろうか、もう一度読みたくなったのだ。


 本来は聖女様と違い、弟子を取って後継者を育てて役目を引き渡す魔女が、弟子を取らずに役目を終えるという非常事態が起こった理由が書かれている。




『聖者が祝福出来なくなるだけで、世界にとっては充分に問題だ。だって、祝福出来ないということは、世界は恵みを受け取れず、どんどんと枯れていってしまうのだから。でも、問題はそれだけじゃなかった。


 聖者が、世界を呪い始めてしまったのだから。


 恨みや憎しみといった強い気持ちではなくても、聖者が世界に対して、少しでも良くない感情を持ってしまうと、それは呪いとなって世界を弱らせる。


 だから、そういったものの源となりえる個人的な記憶は、本来聖女として選ばれた時に消えてしまう。しかし、今代の聖者には消えていなかった記憶があった。


 それが原因で聖者は世界を祝福出来なくなり、そして彼の中に生まれた小さな暗い感情が世界を呪った』




 文字列から顔を上げると、大きくため息を一つ。


 聖女様に選ばれると個人的な思い出が消えてしまうことに対して、いかに複雑な気持ちを持っていたとしても、こんな実例を見せられてしまううと否とは言えなくなってしまう。それも必要なことなのだと、言われている様だ。


 世界を呪う聖者様など、百害あって一利なし。とはいえ、神力が枯れるまでは聖者様のままだ。命惜しさに後進に役目を譲らずに歪んでしまった魔女から、役目を取り上げるのとは、わけが違うらしい。


(本当に、魔女は随分と都合が良い存在の様で……)


 思い至った待遇の違いに、不貞腐れた気持ちになったのも、仕方のないことだろう。


 ともかくにも、世界を呪う様になってしまった聖者様をそのままにするわけにはいかず、神力が枯れるその時まで、世界に影響を与えられない裏側に封じることになったらしい。世界も祝福を得られなくはないるが、呪われるよりはマシである。先代の魔女は裏側への不帰の供となり、聖者様の神力が枯れるとともに役目を全うした。


(そして、私が次代の魔女に選ばれたわけだけど……)


 世界は聖者様に呪われることで衰え、さらに長く祝福を得られずに緩やかに枯れている。


 この魔女の森はまだ影響は薄いが、その外では生きとし生けるものが困窮していることを、具体的な記憶はなくとも知っている。


 今や、普く全てが次代聖女様の目覚めを求めている。


 それにしても、こんな事態に陥ってることがすでに、この世界の歪さを表している様に感じた。






 朝、目を開ける。それだけで、ああ目覚めたのかと分かった。私がではない、新しい聖女様がだ。


 私が生まれた時には、既に聖者様は世界の裏側に行っており、実は私自身聖女様のいる状態を知らない。

 聖女様のいる世界とは、こんなにも鮮やかなのか。


 目覚めたばかりで、まだ祝福してはいないだろうに、こんなにも世界中が喜んでいることが分かる。


「……行こうかな」


 聖女様のお迎えも何もかも聖堂の人間が行い、魔女のやることなど何一つないのだけど、この先会う機会もほぼ無いだろうとしても、同じ時代に世界に選ばれ、世界を支える役目を負わされてしまった『同士』として、一目見ておきたいと思った。


 知りたいと思えば、聖女様の場所も何となく分かる。世界の小間使いである魔女は、その役割から世界の知の一部の閲覧が許されている。


 そうと決まれば、身支度を始める。


 対面する予定はなくとも、久しぶりに(というか、魔女になってから初めて)他人と鉢合わせるかもしれない所に行くのだから、人に見られてもおかしくはない程度の格好をしなくては。


 ふと思い立ち、昨日自作した魔法石の代わりにランプから外した魔法石も持っていくことにする。せっかく人里まで出るのだから、これを売って買い物しよう。布と糸、それと気が向いて残金が許せばお菓子でも買って来ようかなどと考える。


 身支度を整えると、家の近くにある洞窟に向かう。


 魔女は世界中どこで役目を担うことになるか分からない。そして問題が発生してから、歩いて行くなんて悠長な真似が許されないことだってあるのだ。だから魔女だけが使える、空間を超えられる道が存在する。その入口がここだ。


 洞窟に入ろうとして、はたと気付く。灯りを何も持って来ていない。ランプを取りに帰ろうと翻しかけた足を止め、再び洞窟と向き合う。


 これも練習かと、まだちゃんと意味を理解しているわけじゃない魔術式を思い浮かべる、多分合っているはず……、ちょっと自信はない。それを脳裏に浮かべつつ、指先へと魔力を集める。すると指先が光り出した、良い感じだ。


 後はこの光を空中に浮かせる様に、「ふんっ」と気合を入れる。


 反応が無い。


 もう一度、光が指から浮かぶ様に気合を入れる。


「ふんっ!」


 駄目だ。

 何度か挑戦するけれど、結果は変わらない。


 まぁ指先が光っていても、明るいことには変わりないから別にこのままでいっか。


 新しい聖女様がいる近くへ出たいと念じながら歩く。人の手が加わっていなくても、魔女が通る為にあるからだろうか、歩き難さはない。しばらく歩くと、正面に光が見えてくる。近付くと、暗闇に慣れた目が痛くなるが、慣れるまでの辛抱だ。


 目をしぱしぱと瞬かせて目を慣らすと、聖女様がいる街の方へと目を向ける。そちらの方は、なんだか特別明るく見えた。


「あの街か」


 出口になった洞窟は高台にあったので、見晴らしが良い。ついでにと辺りを見回わすと、まだ遠くの方に行列が見える。おそらく聖女様を迎えに来た人たちだ。街に着くまではまだしばらくかかりそうである、これならおそらく私の方が先に街に着く。


 街へと歩き出した。





 人里に出るのも、他の人を見るのもひと月ぶりで、何とも言い難い感慨が浮かぶ。


 もう以前に暮らしていた町もそこの人たちについての記憶も残ってはいないけれど、その経験は残っているから、街で浮かばないくらいの振る舞いは出来る。丁度良いことにこの街はそんなに小さくないから、見慣れない人がいても気にしない。というか、街全体が何となく浮足立っていて、正直それどころではなさそうだ。


 私や世界程ハッキリ解かっていなくても、どうやら昨日までと何かが違うことは解かるらしい。


 聖女様は自活する魔女と違って、世話をしてくれる人のいる聖堂に入る。だから私の様に自分で出ていくのではなく、迎えが来るまではいつも通り過ごしているはずだ。迎えが来てしまえば、野次馬も来て顔を見るどころではなくなるだろうから、もう早々に行ってしまおう。


 進む私の足に迷いは無い。聖女様を選んだ世界と繋がっているのだから、当たり前の様に知っているのだ。


 足の赴くままに進むと、一軒の花屋に着く。花屋の店頭では私と同じくらいの年回りの少女が、鼻歌を歌いながら花に水をあげている。何となくだが少女の周りが煌めいて、少女から水をもらっている花が喜んでいる様に見える。


 彼女だ、間違いない。


 元々なのか、煌めいているのと同様に聖女様になったからなのかは分からないけど、とても美人さんだ。


 そんな風に見惚れていると、向こうもこちらに気付いた様だ。


「あら、こんにちは、いらっしゃいませ」


 声をかけられて、驚きで思わず目が泳ぐ。


「あ、え~と」


 泳いだ先にあった花を見て、思わず言葉が転がり出る。


「ここのお花は、随分元気ですね」


 長く祝福されていないこの世界の植物は、元気がないのが当たり前なのだが、ここのお花は生き生きとしている。まあ、その理由が目の前の少女にあることも、もちろん私は分かっているのだけど。


 少女は、ここの花に負けないくらい生き生きとした笑顔になる。


「そうなの。うちのお花はなんだかとっても元気なの。

 だけど、そうね。今日はいつもに比べても、とても生き生きしてるわ」


 花に愛し気な目を向けながら、彼女は「おひとついかが?」と問う。


 せっかくだから頂こうかと思ったが、そこではたと気が付いた。そうだ、今私お金を持っていないのだった。


「あの、是非にと言いたいところだけど、その前に魔法石を売りたいの。この街に魔法石を扱っているお店はある?」


 この街の規模なら、無いことなないだろう。


「魔法石を扱っているお店はね、……あれ? どこだったかしら?」


 知っているはずなのに思い出せないことに、戸惑った様に彼女が答える。ああそうか、もう聖女へと変貌し、この街のことも忘れ始めているのだ。


「ごめんなさい、度忘れしてしまったみたい」


「大丈夫、気にしないで」


 なるべく彼女の気持ちを軽くする様に、努めて明るく返す。


 ふと、遠くの方からざわめきが聞こえてくる。


 この花屋が面している、街の大通りのずっと先、街外れの方から聞こえるざわめきが、段々と近付いて来る。


「おむかえ……」


 そうボソりと呟いた彼女は、手に持っていた如雨露を置くと、ふらりと通りへと出てくる。私は入れ替わる様に、花々の影に立つ。


 聖女様を迎えに来た聖堂の人々の一団。それを導く様に一羽の鳥が飛ぶ。一見白く見えるが、光の当たり方によって七色に色を変える、不思議な羽色の鳥。


 あれはこの世界の意思の化身だ。


 彼女を聖女様と定め、私を魔女にと選んだモノ、それが繋がってない者にも分かる様に形取った存在。


 私はその鳥を無感情にジッと見つめる。いや、正確ではない。ほんの一つまみ、苦いものが混じってしまう。しかしそんな感情の機微など、鳥には届かない。


 雲間から差し込んだ光が彼女を照らし出す。彼女の肩に鳥が止まると、一声鳴いた。その声が合図だった様に、聖堂の一団がザッと跪く。先頭の人が、周りの人に伝える様に言う。


「新たに目醒めし聖女よ、永く祝福を得られなかったこの世界を、貴女の祝福で満たしてください」


「それが私のお役目ですから」


 その応えに、周りが沸き立つ。


 その声に誘われたのか、花屋の奥から一人の女性が出て来た。彼女の母親だった人だろうか?


 女性は、聖堂の人々と共に去ろうとする聖女様を見て、「聖女様が……」と呟く。その目は安堵と喜びに満たされ、淋しさなど一欠片も無かった。


 聖堂の一団が去ると、人々の熱狂も波の様に引いていく。最早人々の記憶から、聖女様となった少女がここで暮らしていたことも消えていったのだろう。


 私は花屋の女性に声をかける。


「この店のお花は、随分元気ですね」


「そうでしょう。このお花たちは……」


 笑顔でそこまで言った女性は、ふと考え込む。


「あら? 私以外の誰かが、お世話を頑張っていた気がするのだけど……」


 女性の目線が、置かれた如雨露に向く。


「きっと気のせいね。ごめんなさい、変なことを言って」


「いえ」


 それ以上言えず、話を変える。


「ところで、魔法石を売りたいのですが、扱っているお店はありますか?」


「ああそれなら、この道をしばらく行くとあるわ」


「有り難うございます」


 そう言うと、踵を返す。


 魔法石を換金したら、あそこのお花を買って魔女の森で育てよう。歩きながらそう決めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ある魔女の受難 橘月鈴呉 @tachibanaduki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る