第2話 物足りない

 僕は今日も一人で旧校舎に向けて歩く。


 今日は周りのクラスをちょこっと覗いてみたり、昨日の女の子のことを探してみたけれど、僕のクラス13組の周りの12組と14組には彼女の姿は見当たらなかった。


 まあ、同じ学年だけで350人以上いるのだからそうすぐに見つかるわけがないかと、内心自分を納得させつつ、少し寂しさも感じていた。


 ……昨日の彼女の声。


 僕のピアノとひとつになって最高の音を作り出したあの声は、本当に素晴らしいものだった。


 もう一度あの音が作り出す、あの時間を味わいたい。


 僕の心中にはその思いが広がっていた。


 別に期待しているわけではないが、なんとなく、今日も音楽室の扉は閉めなかった。


「さて、今日は……」


 おもむろに思いついた曲を弾いていく。


 指の調子は悪くない。


 音も満足のいくものだ。


 だが、昨日の音と比べてしまうと物足りない。

 感情がいつもより音の世界へ入り込めている気がしなかった。

 やはり彼女と奏でた音がすごかったのだろう。

 ……僕は昨日のあの1曲だけで彼女と創り出す僕たちの世界の音に取り込まれてしまったみたいだ。


「……これは、困ったな」


 言葉と共に鍵盤を叩く指が止まる。

 旧校舎の音楽室は一気に静寂に包まれた。


 静寂の中に新しいリズムを刻む音が聞こえ出す。

 足音が聞こえ、ふと、扉の方を見やる。


 その足音は止まることなく、ついに音楽室の前にやってきた。


 期待を込めて顔をあげるとそこには、教頭先生の姿があった。


「おや、旧校舎の音楽室に人が居るとは……」


 今日も彼女が来てくれたのではないかと内心すごく期待していた僕はすっかり気落ちしてしまった。


「……このピアノ気に入ってて」


 軽く会釈をしながら言った。


「そうでしたか。それは申し訳ないお知らせをしなくてはなりません」


「え?」


 嫌な予感が一瞬で全身を駆け巡る。


「旧校舎に残されたこのピアノなどの備品の引き取り先が決まりまして……」


「……そう、ですか」


 まあ、少し考えればわかったことかもしれない。

 突然始まった新校舎の建築、建てられてすぐの校舎移動。


 そんな急展開では、使わなくなったものなどの処理などがスムーズに終えられていなくても仕方がないだろう。


「明日には清掃業者が入り、別の学校へ贈られることになっています」


「……わかりました。教頭先生はこちらには何か用があっていらっしゃったんですか?」


「いえ、特には。私はこの旧校舎で長い時間を過ごしましたので、空っぽになってしまう前に1度見ておこうと思っただけですよ」


 そう言う教頭先生の顔は穏やかだ。


「ぜひ、1曲聞かせて貰えませんか?先ほどまで弾いていたのでしょう?このピアノの最後の思い出ということで、どうでしょうか?」


 少し迷ったが、あの話を聞かされて嫌とは言えない。


「大した腕ではないですが……曲のご要望などは?」


「お任せします。最後に生徒の弾く曲が聞けると言うだけで、私としては嬉しいですから」


「……わかりました」


 教頭先生の話を聞いてから弾く曲は決まっていた。


 僕はいつしかの記憶を手繰り寄せながら校歌を弾いた。


 僕が弾き始めると教頭先生は少し驚いたような顔をしたあと歌詞を口ずさんでいた。

 上手い下手では言い表せないような想いの籠った声だった。


 昨日の音とはまた違った音だと思った。

 自分だけでは作り出すことの出来ない音、昨日から舌を巻く思いだ。


 

 

「ありがとうございます。大変良い思い出になりました」


 弾き終わると教頭先生はそう言って頭を下げた。


「いえいえ、僕もこのピアノにはすごくお世話になったので、長い付き合いの教頭先生といい思い出を作らせてあげられて良かったです」


「そうですか。余計なお世話かもしれませんが、ぜひどこかでピアノを続けてください。あなたの演奏はとても良いものだと素人目からも感じました」


 こんな素人に毛が生えた程度の僕のピアノをそこまで褒めてくれるなんて感激だった。それに教師、それも教頭に褒められるのは嬉しい。


「はい。ピアノは好きなのでどこかで続けられたらと思います」


 僕が答えると教頭先生は満足そうに頷いた。


「それでは、私はまだ他の教室も見て回りたいので失礼しますね」


「はい」


 軽く会釈をして去っていく教頭先生に頭を下げ、少ししてから僕も音楽室を出た。


 さて、褒められて喜んだり、音に物足りなさを感じている場合ではなくなってしまった。


 新校舎の音楽室は吹奏楽部が使っているだろうし、そもそもあまり目立ちたくは無い。


 どこか都合のいい場所はないだろうかと考えながら最後に、感謝などいろいろな気持ちを込めて鍵盤をなでるようにグリッサンドして学校を後にした。

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