消えたタテハ

 クスノキの大樹は天に向かって無数に枝分かれていて、梢が緑にけぶっていた。


 重なり合った枝の間の青空を黒い鳥の影が不意に横切ったとき、心が空にあった僕は我に返って、あらためて大樹の幹に目をやった。

 ゴツゴツとした樹皮の色と形状が老木の経てきた長い歳月を表しているかのようだった。


 「あそこに大きな穴がある」

 僕がそう思うと同時にタテハが言った。


 その樹洞じゅどうは、地を這う何本もの太い根が編み込まれてできた建物の入口のようでもあり、大きく開いた巨人の口のようでもあった。


 子どもなら軽々と入り込めそうな大きさだな…と思っていると、早速タテハが子どものように樹洞へと走り寄った。


 「嵐がきたらここに避難すればいいわ」


 こんな晴れた夏の日に突然嵐などくるわけないだろうと思いながら、僕も樹洞へと近づいた。

 そこには大人でも入れそうな暗闇の空間があった。


 「何かの棲みかじゃないの、大蛇とかだったらどうする?」

 タテハが無謀に入り込まないように脅かしたつもりだったが、

 「大きな蛇がいたとしたら、この木の守り神かもしれないわ」とさして驚くこともない。

 この様子なら、僕の方が慌てて逃げだすことになりそうだ。


 「これだけ大きな木なら、道に迷ったときの目印になりそうだな」


 僕たちは、目ぼしい木に黄色いテープの切れ端を貼りながらここまでやって来た。

 たとえテープを見失っても、タテハのときのように静さんが占いで見つけてくれるだろう…どこか容易な考えがあった。つまりは、僕もタテハと同じようなピクニック気分だったのだ。


 「そんなところばかり覗き込んでいないで、鳥居を見つけに行こう」僕は樹洞に気を取られているタテハを促した。


 「ここかもしれない」振り返ってタテハが言う。


 「ここ?どこに鳥居が在るの?」すぐには合点がいかず、辺りを見回してからタテハに問うた。


 「この中」

 頭の中が疑問符で満たされて黙っていると、


 「この中に入った記憶がある」とタテハが言う。


 なんと勇敢で無茶な子どもだったのだろう…まずはそんな妙な感慨を覚え、「ウソだろ?」と思わず口にした。


 「入ってみる?」タテハはさらにウソのような提案をする。


 気づけば、今にも洞に入っていきそうなタテハの腕を引っ張っていた。

 力加減する余裕もなかったので、次の瞬間、クスノキの根元に二人で尻もちをつく形で転倒した。


 僕の膝に乗っていたタテハはすぐさま立ち上がり、

 「さすが、ナイト…と言いたいところだけど」と言いながら、女王様のように僕に手を差し伸べた。


 こうなると、タテハの願いを受け入れて、一度中に入ってみるしかなかった。何かあればすぐに飛び出せばいい…そう考えた僕は確かにタテハが言う通り単純な男なのだった。


 持参した小さなペンライトで辺りを照らしてみると、思いのほか広い空洞だった。下草や落ち葉で足元は柔らかく、変な具合に心地よかった。

 こんな真っ暗な洞の中に何か存在するとしたら、多分邪悪なものに違いない。毒蛇、毒虫、それとも悪霊?…しかしそれくらいしか想像力が乏しい僕には思い浮かばなかった。


 振り返れば、いつでも逃げ出せる夏の明るい日射しがあった。

 その光景に安心して向き直り、もう一度闇奥を照らした。


 そして奇異に気づいた。


 すぐ前にいたはずのタテハの姿がなかった。


https://kakuyomu.jp/users/rubylince/news/16818093089651535396

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