第8話
「うぇ~い。今日はどしたんだい貧乳ーーー」
「ふんッ!」
軽口を叩く男の腹にヒルデの腰の入った拳が突き刺ささる。
つぶれた蛙のような声を上げて男は地面に突っ伏した。
「げふぅ!ーーーやるじゃない」
青ざめた笑顔でサムズアップする男に、ヒルデは八重歯を剥き出しにした凶悪な笑みを浮かべた。
「次に同じ台詞を吐いたら引きちぎるから」
「な・・・なにを?」
ヒルデの視線は顔からすーと下の方に向かい、丁度の股間の辺りでぴたりと止まる。サーと男と十太の顔が青ざめる。
話は少しさかのぼる。
吐き気を我慢しながら魔石を飲み続けた十太はマルキオと一緒に《笑う母熊亭》に帰り着いた。
時刻はすでに夕刻。夕暮れの光が街を真っ赤に染め上げた頃だった。
扉を開けるとカウンターでジンジャーと話していたのはヒルデだった。
「やあレディ」
マルキオはひざまずくとヒルデの手を取る。
流れるようにその手の甲にキスをしようとしたが、ふん!と勢いよくその手を引っこ抜かれる。
「相変わらずね。キザ男」
「君も相変わらず笑顔がチャーミングだね」
うげぇと舌を出すとヒルデはカウンターにもたれ掛かり十太の方を見た。
「どう?少しは落ち着けーーーてはなさそうね」
『おかげさまでこき使われてるぜェ』
「あんたも相変わらずね。このクソ鉄板」
にらみ合う1人と1台をよそに、へこたれた様子もなく立ち上がったマルキオはカウンターにもたれ掛かる。
「いきなり無理言って悪かったわね、マオ」
「君と僕の仲だ。気にしなくていいさ。でも所用があるから僕はこれで失礼するよ」
「な~にが所用よ。どうせ娼館でしょ」
否定も肯定もせずに爽やかな笑顔を浮かべててマルキオは立ち去った。
「そうだ!ちょうど良いからトータちゃんを教会に連れてってやんなさいな。ヒルデ」
「えぇ・・・」
じつに嫌そうな顔を浮かべたヒルデだったが、少し考えてからしぶしぶ了承した。
そして話は戻る。
「・・・げほっ。だけど真面目な話、嬢ちゃんが俺に用なんて珍しいじゃない?」
男はタバコをくわえると先端に水晶の取り付けられた器具を近づける。
ジリリと焼ける音と共に先端に光が灯る。大きく紫煙を吐き出すと神父はその淀んだ瞳を十太とヒルデに向けた。
「で?レベルでも上げにきた?」
珍しいじゃんと男はへらへらと笑った。
レベルとはゲームチックな単語が出てきたものだと十太は喜び半分、困惑半分のうなり声をあげた。
ここに来るまでにヒルデ曰く、ここは貧民街の教会らしい。
見た目は木で乱雑に組まれただけのほったて小屋だろうと、説教台にたくさんの空の酒瓶が無造作に置いてあろうと。
現地住民が教会というのなら教会なのだろう。
「私じゃないわよ。こっちのフジワラトータの
「ふじわらとうた?聞き慣れない名前だねぇ」
「さあ?ジンジャーは共和国の東の出じゃないかって言ってたけど」
「ふーん。まあジンジャーは経験豊富だし彼が言うならそうなんじゃね?」
怠そうに男は十太の顔を見てそう呟いた。
「こいつヘンテコスキルを介してしか言葉が通じないんだけど、そんなスキルってあるもんなの?」
『個性的って言ってくれよ。非行少女』
「うっさいわよ。ガラクタ」
「・・・な~るほど。喋る鉄板ねぇ」
ぷっと消えかけのタバコを吹き捨て、踏みつけて火を消すとぐいと顔を近づけてくる。タバコ臭い息が鼻についた。
「まあ野郎の事情なんてこれっぽっちも興味ないからさ。ちゃっちゃとやっちまおうぜ。・・・えーとフジハラトタ君だったっけ?」
「フジワラトータだよ。生臭クソ神父」
ヒヒと神父と呼ばれた男は笑う。全く応えた様子もない。
どんだけ男に興味ないんだよとヒルデは呆れたが十太はどうしても気になる事があった。
こそこそとスマホに話しかける。
『ーーーあん?そんな事いちいち気にする事か?』
「なんて言ってるの?」
『こいつ。いちいちフルネームで呼ばれるのが気になるんだとよ』
十太が気になる事。それはそれはさっきからフルネームで自分の名前が呼ばれている事だ。
毎回毎回フルネームで呼ばれるというのはどうもむず痒いものがある。
「・・・姓って、あんた貴族なの?」
ヒルデの視線に冷たいものが混じるの。
どうしてそうなると十太が首を傾げると神父はその困惑をくみ取り口を挟んだ。
「そうだねぇ。・・・フジワラトータ君の故郷ではもしかしたら姓名は一般的かもしれない。でもトネリコ王国で姓を持てるのは貴族が王族だけなんだよ。だから君が貴族でないなら名だけ名乗る方が無難だろうね」
そう言って神父は無造作に床に転がる酒瓶を拾う。わずかに残る酒を舐めるようにあおった。
「ふーん。共和国って平民でも姓名がある地域があるんだ」
ヒルデの瞳に差し込んだ暗く冷たい色がフッと消える。
間違った知識を植え付けたかもと思った十太だったが、スマホをかいしてだとどうしても細かな言葉のニュアンスまで伝えるのが難しい。
この反抗的なスマホの事だ。
なにか変な伝えかたをして誤解をさらにまねく可能性の方が高い。言葉がきちんと伝えられないもどかしさには一向に慣れない。
いつ日本に帰れるかも分からない状況だ。落ち着いたらスマホに頼んで本格的にこちらの言語を学んでいく必要があるのかもしれない。
「なら改めて宜しくね。トータ」
いつまで宜しくするかはわからないけどねとヒルデが笑う。
現代日本育ちとして友達や家族以外で名前呼びというのはどにもむず痒かったが決して嫌な気分ではなかった。
「青春だねぇ」
「だ、誰がよ!」
「怖い怖い。・・・おーし少年、じゃあこいつに手を当てな」
水晶球を挟んで十太と神父は相対していた。
サッカーボール程度の大きさのそれの表面は見る角度によって七色に色彩を変える。素人でもそれが普通の水晶ではない事は一目瞭然だった。
『こいつはなんだとよ』
「
十太は首を横にふる。
「・・・そんな事あり得るの?」
思わずヒルデが口を挟んでくる。
この世界で神託球は知らぬ者などいないポピュラーな道具であったが、そんな事を異世界から来た十太が知るよしもない。
「・・・まあド田舎に住んでいたらそんな事もあるかもなぁ」
「そ、そうなの?」
神父がそう言うとヒルデは半信半疑といった様子で珍妙な生物を見るような目を十太に向けた。
「神託球つーのは齢15を越えた人間に神の御加護・・・スキルがあるかどうかを調べるありがた~い道具だな」
神父は酒瓶に残る液体を飲みきると十太と同じように神託球に触れる。
「|始まりに大樹あり。三つの根、三つの幹、三つの枝葉。人に英知を授け影の下で安寧を与える《origo magnum triaradix triatruncus triaramusfoliium homo gloria》」
日常会話で利用する言葉とはまた違った言葉が教会の中にろうろうと響く。
まるで歌っているようだと十太は思った。神父の言葉に呼応するように神託球の内側に光の文字が浮かんでいく。
ザザッ!
水晶球の文字に一瞬ノイズが走る。そこには複雑な紋章が浮かんでいた。
「なに、この紋章。見た事ないんだけど」
「ーーーー」
「ど、どうしたのよ。珍しく真面目な顔しちゃって」
「・・・いや。この神託球もずいぶん年期が入ってるからな」
こいつが壊れたら食い扶持なくなっちまうぜとからからと神父は笑った。
「昇華は無事に終わったんだし別にいいじゃん・・・たぶん」
「たぶんて。適当すぎでしょ」
それに返事を返す事なく神父は手の平をヒルデに向けた。
「・・・なによ、この手」
「そりゃお布施だよ。お・ふ・せ♪」
ただ働きなんてごめんだねと神父は空いた手の親指と人差し指をくっつけて輪を描く。
「なんであたしが払うのよ」
「酷いのねぇ。故郷を着の身着のままで追われた少年にお金を払わせるなんて。ヨヨヨ」
「ちっ」
少し考えてからヒルデは懐から布袋を取り出すと中から銀貨数枚を神父に手渡す。
うひょー!と叫ぶと神父は「十倍に増やしてやるぜ!」と銀貨を握りしめて教会から走って出て行ってしまった。
『あれ。大丈夫かァ?』
「どうでも良いわよ。どうせ
心底どうでも良いといった感じでヒルデは十太の方を向きなおる。
『おい、非行少女。このハナたれ小僧が金を返したいってよ』
十太にはあの銀貨にどれくらいの価値があるのか分からない。
分からなかったが、たとえ大した金額ではなかったとしてもここまで助けて貰っているのにさらに金まで工面させたのが心苦しかった。
「返すって・・・。あんたすかんぴんでしょ」
ぐうの音も出ないとはこの事である。
なにも言えずだが黙って好意ばかりを受け取るのも心苦しい。だらだらと汗をかいてどう答えを返そうかと悩んでいるとヒルデは「なら貸し一つね」と八重歯を剥き出しにしたあの凶悪な笑みを浮かべた。
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