第5話
アリスターはセシリアの連れの男を見てその目を細める。
「流れ者には、お前のような娘を騙すのは簡単だろう」
「この方はわたくしを助けて下さったのよ。悪く言わないで」
セシリアがはっきり言い返すのと、アリスターが護衛をセシリアに差し向けるのとが一緒だった。
「お前は夢に憧れているだけだ。何も考えないで私の側にいればいい」
「でも」
侍女のネリーが護衛たちに保護されるのを見た。セシリアはかぶりを振って異国の男の後ろに行く。
「お前は焼きもちを焼いて意趣返しがしたいだけだろう。そんな事で人生を棒に振ってどうするのだ」
護衛と兵士たちがセシリアと男を取り囲む。
「そんな異国の徒と私と比ぶべくもない。今ならまだ不問にしてやる」
男と対峙して指さし、傲岸に言い放った。
「国が変われば言葉も習慣も変わるのが道理。我が国では美しい娘を見れば口説くもの。相手がいれば奪う。そして結婚すれば一生一筋だ」
男はセシリアの手を取って歌うように話す。
「お嬢さん、人生なんてどう転ぶか分からないのさ」
男がセシリアの耳元で囁く。唆すように。
「どういう事?」
「安全で確かなものは何処にも無いんだ」
彼の手が離れる。どうして──。
不意に、冷たい水の中に放り込まれたような気持になった。
アリスターとセシリアを囲む衛兵たちの冷たい視線が突き刺さる。
風が吹いてセシリアの裂かれたドレスを揺らす。ほつれた髪が頬を掠める。貴族令嬢としてあるまじき姿だ。何を想像されてもおかしくない。
「あいつを捕まえろ!」とアリスターが命じたが男はもうその場に居ない。
衛兵がセシリアを捕獲するように取り囲み、馬車に押し込まれて王都のモーリエ伯爵家の屋敷に送り届けられた。
「まあ、セシリア。どうしたの、その恰好は──」
母親は娘の尋常でない姿にヒステリーを起こした。
さらにアリスターが「ご夫人、娘の教育は失敗したようだな」と余計な言葉で煽って収拾がつかなくなる。
「まあ、この娘は、まあーー!」
「抜け出さないよう、よく見張っておく事だ」
「も、も、申し訳ございません」
アリスターはチラリと酷い恰好のままのセシリアを見たが、そのまま背を向けて屋敷を出て行く。
娘の婚約者の冷たい背中を見て母親は呟いた。
「もうおしまいだわ……」
「はい、お母様」
「この子は」
娘の言葉で母親は激高し持っていた扇でセシリアを打った。もう娘の価値は地に堕ちたのだ。鬼のような形相で打ち据えた。セシリアは黙って打たれるままだ。
しまいには息も切れて扇を投げ捨てると「部屋に閉じ込めておきなさい」と命令し自分の部屋に戻った。
セシリアはそのまま部屋に押し込められた。打ち据えられた傷も避けたドレスもそのままである。ゆっくりと窓に向かう。窓の外は黄昏れて、夕日が鮮やかに青い空を染め上げていく。
ドアをノックして侍女のネリーが入って来た。
「お嬢様、お食事と怪我のお薬をお持ちしました」
「ありがとう、あなたに迷惑をかけたわね」
「そんな、迷惑など──」
ネリーは食事をテーブルに置くと、セシリアの背中に打ち据えられてできた傷に薬を塗り始める。
「こんなに」薬を塗るネリーの声が震える。
「仕方がないわ、お母様の期待を裏切ったのですもの」
「そんな、お嬢様は頑張っておいででした。それにあの方は──」
「いいのよ、もう」
ネリーはセシリア付きの侍女でいつも傍らに大人しく控えている。だからアリスターとの会話も友人達との会話も耳にしている。それでもずっと何も口にしなかった。大人しく側に控えているだけだ。言い募るのは珍しいことであった。
「食事をするわ」
ドレスを着替えて座ろうとすると、ネリーが運んで来た食事をトレーごと引っ繰り返した。ガシャーンと派手な音がする。ドアの外の護衛がチラリと部屋を覗き見るがすぐに外に戻った。
「も、申し訳ございません」
ネリーは慌てて引っ繰り返したトレーを片付けている。セシリアは呆然とそれを見た。
(わざと引っ繰り返したわ。まさか食事に……?)
ネリーは大人しいがよく気の付く侍女だ。今日も街の不穏な気配に、早くから注意してくれていた。なのに、セシリアはあの異国の男に目を奪われて……。ぼんやりと窓の外に目を向けた。空が赤い。
セシリアは窓辺に行って窓を開いた。空が燃えている。
「お嬢さん」
「あ」
セシリアの部屋は三階にある。窓の下は庭園になっていて、そこに灰色の馬が置物のように降り立っている。
男は灰色の馬に乗っていて「おいで」と手を差し伸べた。
馬がいるのに誰も不審に思わないのか、屋敷から誰も出てくる様子がない。
「待って」セシリアは部屋に取って返し「ネリー、私は行くわ。貴女も逃げなさい。すぐに」そう言って金貨の入った袋をネリーに押し付けると、自分は窓辺に身を乗り出した。
「お嬢様!」
ネリーの悲鳴のような呼び声に、ドアの外の護衛が入って来るが間に合わない。
「行くわよ。受け止めて」
セシリアは男に向かって叫ぶと、身軽に窓枠に乗り上がり、鳥のようにその身を翻して、男の胸に飛び込んだ。
「お転婆なお嬢さんだな」
受け止めた男が呆れた顔をする。そして笑った。
「出航時間が迫っている。急ごう」
馬は空を翔けるように走り出す。屋敷を囲う石塀を飛び越え、王都に躍り出た。
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