第2話
休憩室での言い合いが耳に入ったのか、翌日には先触れが来て侯爵令息アリスターがモーリエ伯爵家にやって来た。応接室に通してお茶を出す。
「プライス嬢が君の所に行ったんだって?」
お茶を一口飲んでアリスターは話し始める。
「はい、大変な騒ぎになりまして申し訳ございません」
この男のせいで、とばっちりを受けたのはセシリアなのだけど、一応謝罪しておく。コレで三回目だ。つまり、セシリアが学園に入学して一年半余りの間に、ドロシー以外にもう二方お付き合いがあったという事である。突撃して来ない方も含めたら何人になるのだろう。
「セシリア、私は君が一番大切だよ」
「そうですか」
「だから気にすることは無いんだ」
「はい」
(どの口が言うのだろう。とっかえひっかえ次々と現れる恋人は何なのか。この方はわたくしの心が木石で出来ているとでも思っているのかしら)
それをセシリアが口に出すことは無いけれど、アリスターは少し気が咎めたのかセシリアに聞いた。
「それで何か言う事は無いのか?」
「ドロシー様がアリスター様を自由にして下さいとおっしゃったので、アリスター様は自由ですと申し上げておきました」
「そりゃあそうだ、君も私も自由だ」
セシリアはその言葉に目を煌めかせる。
「では、わたくしも自由にさせていただいてよろしくて?」
「好きにすればいいが夫になるのはこの私だし、それまでは身を慎んでもらわなければ困る」
(何と身勝手な言い分かしら)
「君は我が侯爵家に入って正妻の座を手に入れる。悪い話ではない。君の子供が我が侯爵家の跡継ぎになる。取引としてこれ以上は無いだろう」
(どうせ我が家はしがない伯爵家で、おまけに私は次女だわ)
「子供を産んだ後は好きにしたらいい」
チラリとアリスターを見ると当然といった顔をしている。
(本当に何で私を婚約者に選んだのだろう。私がそんなものを望むとでも思っているのかしら)
心でそう思っていても、顔には出さないでにこやかに当り障りのない返事をするのが令嬢の務めか。
「そうですわね。わたくしはラッキーで幸せなんですわね」
「分かればいい。では私は帰るよ。まあなるべく気を付けよう」
「ありがとうございます」
彼は立ち上がって部屋を後にする。セシリアは後を追いかけて見送りをした。
アリスターは目上の侯爵家の嫡男で、見目がよくて、頭も良くて次期宰相候補だから何をしても許されると思っているのかもしれない。
婚約の打診は侯爵家からで断れる訳もなくて、手頃な伯爵家の栗色の髪に緑の瞳の大人しい次女であるセシリアを婚約相手に選んだのだと思っている。
* * *
父の書斎には地球儀がある。まだ祖父が生きていた頃はデスクの上に場所を取って飾ってあった。その丸い球のほとんどは青い色で占められている。
「これは海だ。この海を渡り、船でこちらの大陸に行く」
「うみ!?」
小さな頃、セシリアは祖父の膝に乗って、その地球儀の話を聞いた。
「海は広くて大きい。だが恐ろしい。ひとたび嵐が起これば大波が襲い掛かり、船はひとたまりもなく飲み込まれて海の藻屑となる」
「もくず!?」
「だが、無事にこちらの大陸に辿り着けば、巨万の富を持って帰って来る」
祖父がぐるりと地球儀を回して、セシリアの目の前に新たな大陸が現れる。
「うみ、ふね、たいりく」
セシリアは目を丸くして地球儀を見る。小さな手で茶と緑に彩られた大陸を指さして祖父に向かって言う。
「アタクシも行きます」
「ははは、大きくなったらな」
祖父は無邪気なセシリアの頭に手を置いて笑って答える。小さなセシリアの胸に小さな憧れの火を灯して。
祖父が亡くなって地球儀は書棚の上に置かれ、顧みられることもなく忘れ去られた。
* * *
セシリアは決して大人しくなかったし、アリスターと婚約するまでは、いや、今でも活発な少女だった。絵を見るのも花を育てるのも好きだし、凝った刺繍をするのも、芝居を見に行くのも好きだ。
だが、乗馬が好きで剣技も弁えている。異国の話を読み言葉を習い地図を見るのも好きなのだ。一つ所に留まらず何にでも興味を抱くような娘だった。
(わたくしはこのまま朽ち果てて終わるのかしら)
何となく色褪せて見える自分の未来に、足元の砂が崩れて行くような焦燥感と不安感を覚えている。これでいいとは思っていない。だがどうすればいいというのか。すでに道は決まっていて、セシリアひとりの感情など誰も慮りもしない。
***
こういう時は気晴らしに買い物に行こうか。侍女に言いつけて馬車を用意してもらう。アリスターに観劇とか街に誘われたことはなくて、セシリアはもっぱら学友か侍女と出かける。
(こういうのを蔑ろにされていると言うんだろうな)
チラリとドロシーが言った言葉を思い出すが、構いはしない。学校の狭い小さな世界に自分を押し込めることはないのだ。
もっと広い世界に飛んで、羽ばたいていきたい。鳥のように自由に。そうだ、後ろなんか振り返りもせずに、渡り鳥のように真っ直ぐ前を見て飛んで行きたい。
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