時を転じて、陰陽師は恋をする
舞々
序章 全てのはじまり
「はぁはぁはぁ……助けて、助けて!」
夏休みに父の実家である田舎に遊びに来ていた
数えきれないくらい転び、体中が傷だらけで、呼吸もままならない。喉からは血の匂いがして、足もフラフラしている。それでも智晴は走り続けた。
「来るな! 来るなぁ!」
走りながら後ろを振り返ると、真っ赤な目をした化け物がいた。四つん這いで走っている姿は獣の如くだが、象なんかよりも遥かに大きい。まるで山のようだ。荒い呼吸を繰り返しながら追いかけてくるそれは、どんなにどんなに走っても振り切ることなんてできない。
「
「俺は武尊なんかじゃないって言ってるだろ!?」
獣が走ると道端の草がザワザワと揺れ、田んぼの苗もザーッと一斉に倒れていく。
古びて崩れかけている石段を駆け上がると、目の前には古井戸。その奥にはまるで絵本に出てくるような日本家屋が建っていた。
「はぁはぁはぁ……ようやく着いた……」
その屋敷を見た瞬間、智晴の目にぶわっと涙が溢れていく。零れ落ちる涙を拭うこともせず、大声を張り上げた。
「
「おのれ! 武尊、待て!」
獣が智晴に向かい長い爪を伸ばした瞬間……。
「あらあら、智君。おかえりなさい」
呑気な声とともに屋敷から出てきた初老の女に、智晴は必死の形相で飛びつく。
律と呼んだこの女性にも、その化け物は見えているだろうに……何を呑気に「おかえり」などと言っているのだろうか。
「ここまでだ、喰ってやるーーーー!!!」
「わぁぁぁぁ!! 嫌だ!! 助けて律さん!!」
獣が智晴目掛け、鋭い牙を突き立てようとした瞬間。律はそっと智晴を自分の後ろに隠し、フッと息を吐いた。
「おやおや、お前さんは猫又かい?」
「どけ!! ババァ!」
牙を剥いて向かってくる獣のあまりにも恐ろしい姿を見て、智晴は律にぎゅっとしがみ付き目を閉じた。
――喰われる……!!
死を感じたその時……激しい足音が、ふっと目の前から消えた。恐る恐る目を開けると、そこには穏やかな笑みを浮かべた律が立っていた。
「この子はね、私の大事な孫なのよ。だから食べてもらっちゃ困るわ。ほら、いい子ね」
そう言いながら、律はそっと獣の頭を撫でている。
「ここは、あなた達妖怪が住む所じゃないの。だからお帰り」
「ふにゃあ……」
「ふふっ、いい子ね」
律の前にはあの恐ろしい妖怪はおらず、年をとった猫が腹を見せ寝転がっていた。
「まぁ、なんて可愛い猫又なのかしら」
智晴は、相変わらず落ち着いている律をそっと見上げた。
「もう大丈夫よ、智君。妖怪はもういないわ」
「……え、妖…怪…? あれはどこにいったの? どういうこと?」
「あるべき所に帰った。それだけよ」
智晴は、喉をゴロゴロ鳴らし甘えた素振りを見せる猫と、そんな猫のお腹を嬉しそうに撫でる律の姿を呆然と見つめていた。
◇◆◇◆
あれから、数年がたったある夏休み。
「ほら、いい子だね。こんな所で人を怖がらせても仕方ないだろう? 家にお帰り」
智晴は、目の前にいる毛むくじゃらの頭をそっと撫でた。それは明らかにこの世の者とは思えない風貌をしている。
真っ黒の目は窪んでいて、ギラギラと光る歯の生えた口は耳元まで裂けている。その鋭く尖った爪で攻撃されれば、人間など一撃でやられてしまいそうだ。
「もうすぐお前を祓うために祈祷師がやってくる。それまでにここから去るんだ。わかるだろう?」
恐ろしい化け物の頭を撫でながら優しく話しかける。
「お前のお家はあっちだよ」
「グルルルルル……」
切り裂かれた口からは涎が垂れ、今にも襲い掛かってきそうだ。でも、智晴はそんな事は気にしていない。
「ほら、いい子だから」
言い聞かせるようにそっと顔を覗き込むと、シューッと炭酸が抜けていくような音と共に毛むくじゃらの体がみるみる縮んでいく。その光景を、智晴は穏やかな目で見つめた。
「ふふっ。これあげるから、もう悪いことしたら駄目だよ」
「ケタケタ」
まるで毛糸玉のようになった毛むくじゃらに、鞄から取り出したビー玉を渡してやる。
「綺麗だろう? 悪い心がまた自分の中で騒ぎだしたら、このビー玉を眺めるんだよ」
「ケタケタケタ」
「よし、お行き」
森のほうを指させば、毛むくじゃらは一目散に走り出す。
「もう人里に下りてくるんじゃないぞ!」
その後ろ姿を、見えなくなるまで見送った。
「ただいま、律さん」
「あらあらお帰り、智君。幼稚園は楽しかった?」
「律さん、俺はもう高校三年生だよ」
「あぁ、そうだったわね。それより智君、私の眼鏡知らない? どっかに行っちゃって見つからないのよ」
「眼鏡なら、律さんのおでこにあるよ」
「まぁ、本当だわ! 見つかって良かった」
年齢にしては幼さが濃く残る顔立ちが目立つ程度の、運動神経も勉強も、色恋沙汰についても、平々凡々な青年だ。
しかし智晴は、幼い頃からこの世に存在するはずのない妖怪が見えた。仲良くなれた者から、滅多にあることではなかったが自分を殺そうとするような者まで……色々な妖怪に出会ってきた。
見えない者が見えてしまうことは智晴にとっては不幸そのもので、常に怯えながらの生活を強いられていた。両親や弟が妖怪を見ることはなかったが、祖母の律だけは智晴と同じような能力を持っていた。
律と過ごすことで、これから妖怪とうまく付き合っていく方法がわかるのではないか……。そう思い、中学を卒業すると同時に智晴は父親の生まれ故郷に身を寄せることになった。高校を卒業するまで、という期間限定ではあるものの、律の傍で暮らすことを許されたのだ。
「今日も暑かったなぁ。ん?」
縁側に座り込み大きく伸びをすれば、遠くから雷の鳴る音がする。夕立がくるかもしれない……。トントンと背中を叩かれたのを感じ、智晴はそっと視線を移した。
「どうした? 座敷童。雷が怖いのか?」
座敷童と呼ばれた少女がコクンと頷く。
「大丈夫だよ、俺の傍にいな?」
微笑みながらそっと頭を撫でてやれば、嬉しそうに目を細める。そんな座敷童に、アイスを半分に折って手渡した。
「智晴、智晴……」
「どうした?」
声がするほうを見ると、二匹の幼い河童が立っていた。怯えているのか顔が強張っている。
「なんだよ、お前達も雷が怖いのか?」
「うん。怖くて仕方ない」
「ふふっ。いいよ、こっちにおいで。みんなで夕立が過ぎるまでここにいよう。みんなでいれば怖くないよ」
「うん!」
嬉しそうに駆け寄ってくる河童達の頭を撫でてやる。だが河童の頭には皿があるせいで、妙な撫で心地だ。
智晴は優しい律と穏やかな性格の妖怪たちに囲まれながら、のんびりとした生活を送っていた。こんなに安心して毎日過ごせるなんて……。
「ずっとここにいたいな……」
智晴の祖母である律は、妖怪の頭を撫でることでその怒りを鎮め手懐けることができる……という不思議な能力を持っていた。
牙を剥きだし襲い掛かる妖怪も、律には歯が立たないのだ。目を閉じ古くから伝わる
今はすっかり年をとり若干ボケてきてしまっているが、智晴はそんな律を尊敬している。そして、いつからか智晴にもその能力が開花したのだった。結果として、小さな妖怪なら自分でも対応できるようになった。襲われるほどの凶暴な妖怪に出会うことがなくなったのは、律のおかげなのか、そんな妖怪がいなくなっただけなのか……。
「みんないい子だね」
「うん。智晴、大好き」
「ありがとう」
こんな田舎での生活が智晴は大好きだった。律が用意してくれた冷やしキュウリにかじりつきながら、少しずつ近付いてくる雷鳴に耳を澄ました。
「ん?」
突然茂みから聞こえた物音に視線を移す。今、その茂みに何かいたような……。
「動物……いや、妖怪か?」
ジッと目を凝らしてみるものの、そこには何もいない。
「智晴、どうしたの?」
不安そうに自分を見つめる座敷童に気付き、そっと頭を撫でてやる。
「ううん、何でもないよ」
その時、智晴は気付かなかった。茂みの陰からジッと自分を見つめる者の存在に……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます