雨中の追憶
「おい、
土砂降りの雨のため、飯田の声が聞き取りにくい。冴島は雨でへばりついた髪をかき上げると、飯田の方へ向かう。飯田はさびれた倉庫の前にいた。
「ここだ、奴が逃げ込んだのは!」
その倉庫は数年前に廃墟となっていて、不良のたまり場になっている。もし、ナイフを持ったあいつが逃げ込んだのであれば、不良たちが鉢合わせして刺されかねない。たとえ不良であっても、市民には変わりない。彼らを守るのも警察官になった冴島の仕事だ。
「いいか、俺はこっちから回り込む。涼太は反対側を行け。挟み込むぞ! 無理はするなよ。命あっての物種だ」
飯田の言葉には冷静さと経験がにじみ出ていた。冴島はごくりと唾を飲み込み、力強くうなずく冴島はごくっと、つばを飲み込むとうなずく。冴島にとっては、凶器を持った犯人と対峙するのは初めてだ。飯田の合図を受けて、古びた通路を走り出す。父親に認められるためにも、手柄を挙げたい、それが冴島の思いだった。
古びた倉庫の通路は暗く、湿気を帯びて滑りやすくなっている。冴島は慎重に足を運びつつ、あたりを見回す。だが、犯人の姿はまだ見えない。
「くそ、全然見つからないぞ……。どこ行ったんだよ」冴島はひとりごちる。
膝に手をついて俯くと、目の前に血が点々と滴っているのが目に入った。間違いない。強盗犯のナイフに着いた血だ。冴島は元気を取り戻すと、獲物を追う猟犬のように駆け出す。
倉庫の奥へ進むと、とうとう強盗犯の姿が見えてきた。男は乱暴に走り回り、辺りを伺っている。今がチャンスだ。この一瞬を逃せば、犯人はまた逃げ出すだろう。
「おい、お前! 止まれ!」
そう言っても止まらないのは分かっているが、思わず叫ぶ。
男は止まりはしなかったが、怪しげに光るナイフを片手に冴島に襲いかかる。冴島は身を翻してかわすと、強盗犯めがけて体当たりをする。ナイフが男の手を離れ、カランカランという音を立てる。
冴島は男を確保すべく、駆け寄るが、男から蹴りをくらい思わずよろめく。その隙に、強盗犯はナイフを取り戻すと、うつ伏せに倒れた冴島にめがけて振り下ろす。近くに落ちていた鉄パイプで攻撃を止めるも、依然として冴島がピンチなのには変わりない。
ギリギリのせめぎ合いの最中だった。ふいに男の体が揺らぐと、ナイフを落として倒れる。冴島が息を切らして見上げると、その背後には手刀をくらわせた飯田の姿があった。飯田はナイフを蹴って犯人から遠ざけると、「涼太、無理はするなと言っただろ」と叱る。
「まあ、無事に強盗犯を逮捕できたんだ、結果オーライではあるけどな」
冴島は息を整えながら飯田の手を取り、ゆっくりと立ち上がった。
「もう少しチームプレーを意識しろ。そうすれば、親父さんのようなデカになれる」
「はい!」
「さて、こいつを連行して、ケースクローズドだな」
冴島は強盗犯を連行する時、不思議な高揚感に包まれていた。これで父親に認められるはずだからだ。そんな時だった。飯田の携帯電話が鳴ったのは。
「飯田だ。鍵山、どうした? こっちは強盗犯の連行中なんだが。うん、うん……何!? 分かった、すぐに行く!」
「どうかされましたか?」
一瞬の静寂。飯田は少しためらうと、こう言った。「
冴島の心臓は飛び跳ね、呼吸が荒くなる。父親が死んで動揺しないはずがない。
「事故死……ですか?」
冴島は飯田に問いかけつつも、返事が分かっていた。
「いや、殺人だ。アルカナ事件の犯人の仕業だ」
冴島が握るハンドルがミシっと音を立てる。奴だ。あの悪魔が今度は冴島の父親を手にかけたのだ。
「現場は都内の山奥だ。急いでそっちに向かうぞ!」
現場に着くと、鍵山と佐々木が出迎えた。先ほどの電話によれば、二人が第一発見者のはずだ。
「親父は、親父はどこに!」
「ここだ。俺たちが着いた時には、遅かった」佐々木が申し訳なさそうに言う。
冴島が父親に駆け寄ると、首にはロープが巻きつけられていた。絞殺なのは明らかだった。しかし、単なる絞殺ではなかった。絞殺なら吉川線が残るはずだ。それがないということは、抵抗しなかった、あるいは抵抗するのは時間がなかったことになる。犯人の手際の良さを感じた。
「そして、現場にはこれが置いてあった」鍵山が差し出したのは「吊るされた男」のカードだった。
「アルカナ事件の犯人の仕業に間違いないな」飯田がポツリと言う。
冴島の父親である一は仕事の時間外でも単独で事件を追っていた。もし、二人一組で行動していれば、悲劇は防げたかもしれない。
この事件の一年後、飯田は警部に昇進した。そして、冴島の第二の父親になった。冴島一と飯田警部は同期で仲が良かったから、当たり前かもしれない。そして、冴島の時計は止まったままだった。再び、殺人魔が動き出すまでは。
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