お前はまだ半人前だな

「さあ、一般人はどいて、どいて」



 冴島たちが現場に着いたとき、そこはすでに大勢のやじ馬で溢れかえっていた。アパートの前には無数の人々が集まり、誰もが事件の詳細を知りたくて仕方がない様子だ。その視線には好奇心が宿っているが、彼らの心に「自分が被害者になる可能性があったかもしれない」という恐怖は微塵もないらしい。



 山城と一緒に現場に乗り込むと、刺殺されたと思われる遺体が向かい入れた。遺体周辺の血の色が色鮮やかなことから、死後時間が経っていないことが分かる。遺体の周囲には荒々しく引き抜かれたタンスの引き出しが散乱しており、室内は物色された形跡が明らかだった。



「これは物取りによる犯行でしょうか」と山城が第一印象を述べるが、冴島は賛成しかねていた。先入観は時に判断を誤らせる。冴島は遺体の周辺を観察すると財布の中身がないことを確認した。強盗が抜き去ったのか、それとも強盗の仕業に見せかけるためなのか。



「さて、身元確認といこうか。幸いにも免許証は抜き取られていないからな。被害者は……安城あんじょうさとし、四十一才。情報が少なすぎるな。山城、聞き込みに行くぞ。ひとまず、第一発見者からだな」



 二人はアパートの外に出ると、やじ馬をかき分けながら、第一発見者である大家に向かって歩み寄った。



「あなたが第一発見者の桜木さくらぎさんですね。そして、このアパートの大家でもある」



 初老の男性である桜木は、無言で首を縦に振る。その顔には不安が漂っていた。



「それで、なぜ安城さんの部屋に行かれたのですか?」冴島が問いかけると、桜木は少し困ったような表情を見せた後、静かに口を開いた。



「ああ、刑事さんは私を疑っているのですね。簡単ですよ。滞納した家賃の回収ですよ」



「それで、発見された時にはあの状態だったと?」



「そうです。部屋が散らかっていましてね、私も危うく物を踏んで怪我をするところでしたよ」



 現場には凶器と思われる刃物がなかった。つまり、桜木が遺体を発見した時には、すでになかったのだ。



 冴島は頷きながら、アパートの外観を一瞥する。老朽化が進んだ建物で、工事の音が微かに聞こえてきた。



「ところで、このアパート、階段を工事中なんですね。上がった時に、職人さんとすれ違いましたから」



「はい、ここも老朽化が進んでいますからね。補修が必要なんです」



「貴重なお話、ありがとうございました」



 冴島は次に向かうべき場所を見定め、山城に告げた。「山城、次は現場の隣の部屋に聞き込みだ」





「え、安城さんが殺された!?」



「ええ、その通りです。我々は安城さんの情報が欲しくて、あなたをお訪ねした次第です。青柳あおやなぎさん」



 被害者の住まいの左隣に住んでいるのが、目の前にいる青柳だ。彼は寝起きらしく、ジャージ姿で髪はボサボサしている。ぱっと見は四十代後半ぐらいだろうか。冴島は「申し訳ないことをしました」と断ってから、話を続ける。



「安城さんですが、人に恨まれるような方でしたか? 例えば、誰かとトラブルがあった、とか」



 青柳はしばらく考え込むと「心当たりがあります」と言った。



「僕です。安城さんとは、トラブルというか、喧嘩というか……。まあ、意見の相違ってやつですかね。安城さんはきれい好きで有名で。なんというか潔癖症に近かったですね」



「なるほど」



 冴島が青柳の部屋をチラッと見ると、あたりにはカップラーメンやビールの缶が散乱していた。おそらく、これが原因で言い合いになったに違いない。しかし、それは隠しておいてもよかったはずだ。いつかバレると考えたのか、それとも単に正直に話したのか。冴島にはまだ判断ができないでいた。



「トラブルといえば……。安城さんの部屋の右隣に住んでいるあかねさんも喧嘩になったことがあります。具体的には彼女に聞いてください」





 安城の部屋の右隣には「酒井さかい」というネームプレートがかかっていた。



「山城、相手は女性だ。お前が聞き込みをした方がスムーズにいくと思う。頼んだぞ」



 山城はうなずくと、インターフォンを押す。かなり時間をおいてから「はーい、今行きまーす」と間延びした声が応じた。



 彼女が扉を開けると、チェーンロックがかかっていた。どうやら酒井は警戒心を示しているようだ。「どちら様でしょうか?」



「警視庁の山城と言います」山城は警察手帳を見せ、穏やかな声で名乗った。だが、酒井はまだ警戒を解いていないようだった。



「警察? 私に何の用ですか? 悪いことをした覚えはないですけど……」



 山城が酒井の気を引いている間に、冴島は酒井を観察する。年齢は三十代、おそらく専業主婦だろう。昼間にエプロンをしていること、指輪が光り輝いていることから、新婚かもしれない。



「実は、お隣の安城さんが亡くなりまして」



「そうですか……。安城さんが殺されたんですか」



「ええ、そうです。それで、先に青柳さんにお話を伺ったのですが、殺された安城さんとあなたの間でトラブルがあったと」



 次の瞬間、酒井は目を大きく開くと、青柳をののしる。



「まあ、自分もトラブルを起こしておきながら、なんてことを!」



「差し支えなければ、具体的にどんなことか、お教えいただけませんか」山城の口調は柔らかかったが、有無を言わせぬ感じだった。



「そうね、後々問題になるのは嫌ですからね。簡単に言うと子供のことを侮辱したんです。『お前の子供は出来損ないだ』って」



「なるほど、そういうことですか」山城はメモをすると一礼する。



「また、あとでお話を伺うかもしれません。ご協力、ありがとうございました」



 酒井との話を終えると、冴島は山城を引き寄せ、静かに語りかけた。



「おい、山城。お前は気づいたか?」



 山城は首をかしげる。「何にですか?」



 冴島はため息をつく。「お前はまだ半人前だな」

 


「半人前? もしかして、聞き込みの仕方がまずかったですか?」



「違う違う。酒井はこう言った。『』と。お前が殺人だと言う前だ」



「あ……」



 教育係の冴島は思った。「これは先が思いやられるな」と。

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