【中編】クロユリの花束を君に

雨宮 徹

悪夢、再び

 警視庁捜査一課の一室。冴島さえじま涼太りょうたはブラックコーヒーを片手に捜査資料に目を通していた。別にコーヒーが好きなわけではない。ブラックなんて苦すぎて、彼の舌には合わないに違いない。そんな冴島が飲んでいる理由は一つ。かっこよく見えるからだ。ただ、捜査一課の同僚たちは、そんなことも知らず、事件の捜査に勤しんでいる。



鍵山かぎやま、例のヤマ、どうなっている? 容疑者を絞り込めたか?」



飯田いいだ警部! 二人にまで絞り込みできています。逮捕も時間の問題かと」



 鍵山は手元の書類の束を渡す。それは一ミリのズレもなく、彼の几帳面さを示していた。



「鍵山の奴、また手柄をあげそうだぞ! おい、冴島はどうなんだ?」冴島の先輩である佐々木が肩を叩く。



「いや、どうって言われても、今追っているヤマがないですからね」ブラックコーヒーを飲んで、かっこうをつけておきながら、実際のところ冴島は暇だ。



「そうだったな。『冴えない』から冴島だったな。冴えないやつに事件を任せるほど、警部も馬鹿じゃないからな」



 冴島には分かっている。捜査一課に立ちこめる重い空気を吹き飛ばすべく、佐々木が冗談で言っていることを。



「ちょっと、その言い方はないんじゃないんですか? それ、パワハラですよ」と山城やましろあおいが諌める。彼女は冴島の後輩だ。つまり、後輩が先輩をかばっているわけだ。普通は逆だろうが、これが捜査一課の日常だ。



 そんなやりとりをしていると、デスクの電話が鳴る。



「はい、こちら警視庁捜査一課。はい……かしこまりました」



 山城は電話を置くと、飯田警部に「都内のマンションで変死体が見つかったそうです」と報告する。飯田警部は考えることなく、「冴島くん、手空いてるだろ? 行ってくれんかね。山城、お前は冴島が独断専行しないようにピッタリくっついていろ」と指示をする。



「ちょっと待ってください。警部、私は冴島先輩のお守りではないですよ! 勘弁してくださいよ……」山城が大きくため息をつくと、ロングヘアが揺れる。



「そんな嫌な顔しないでくれよ。俺だって一人の方が好きなんだ。山城の教育は鍵山に任せればいいでしょう? あいつの方が有能ですから」



 冴島はジョークのつもりで言ったのだろうが、佐々木は「そうだ、そうだ」とばかりに首を縦に振っている。山城がジロっとにらむと、佐々木はおとなしくなる。そう、捜査一課の影の支配者は山城であり、警部の飯田はお飾りだ。



「ゴホン、ともかく冴島、山城の両名は現場に急行するように!」





 冴島は助手席に座り、窓の外をぼんやりと眺めていた。しかし、隣の山城の不機嫌な顔が気になって仕方がなかった。



「まったく、冴島さん。どうしていつも独断専行なんですか。私を巻き込まれるのは本当に勘弁して欲しいですよ!」



 案の定だ。山城はいつも真面目で、ルールを守ることを最優先にしている。冴島はその律儀さが少しばかり苦手だった。彼女が何を言おうと、冴島は自分のやり方を変えるつもりはない。



「やっちゃん、それが俺のやり方だ。気にするな」軽く返して、再び窓の外に視線を戻す。



「その呼び方、やめてくださいって何度言えばわかるんですか!」山城の声がわずかに震えている。彼女の苛立ちが伝わってくるが、冴島は気にしない。今は現場に向かうことに集中すべきだ。



 だが、不意に山城の口調が変わった。「でも……実は思うんですけど、冴えないから冴島じゃなくて、『冴えすぎる』から冴島なんじゃないですか?」



 冴島は驚いて彼女の顔を見た。いつもは冷静で、あまり冗談を言わない山城が、そんな言葉を口にするとは思ってもみなかった。彼女が冴島をどう見ているのか、ほんの一瞬だけ、興味が湧いた。



「独断専行は許せませんが、あなたの勘や執念、捜査への情熱は本物ですからね。だからこそ、先輩、もっとチームプレーを大事にしてほしいんですよ」



 その言葉に冴島は黙り込んだ。自分のやり方を変えようとは思わないが、山城がこんな風に自分を評価しているとは予想外だった。彼女なりに冴島のことを気にかけているのだろうか。



「苦手だからって、努力しない理由にはなりませんよ」山城の声は真剣だ。



 冴島は小さく笑いながら、「お前は真面目だな、やっちゃん。でも、チームプレーは俺に向いてないさ」とだけ答えた。





 冴島たちがやってきたのは都内の高級マンションの一室だった。二十階建ての巨大な建物は、昼間でも威圧感を放っている。エレベーターで五階に向かう途中、冴島は無意識に背筋を伸ばした。何か嫌な予感が頭の片隅をちらつく。それを振り払うように、階が到着する音とともに静かにドアが開いた。



 現場はすでにバリケードテープで封鎖され、警官たちが行き交っている。冴島はテープをくぐり、無造作に警察手帳を見せて現場に足を踏み入れた。



「うわ、派手にやってくれたな……」



 リビングに入ると、目に飛び込んできたのは凄惨な光景だった。床に、壁に、そして天井にまで、真っ赤な血が散らばっていた。撲殺なのは明らかだった。



「先輩、ボケっとしていないでください。捜査ですよ、捜査」



 冴島は我に帰ると、仏に手を合わせ、「失礼します」と断ってから衣服を探る。見つかったのは、財布にスマホ。そして、名刺ケースだった。遺体のそばには、金属製のバットが落ちていた。これが凶器とみて間違いないだろう。



「さて、財布の中の免許証はどこかな。あった。今回の被害者は……相澤あいざわたかし。えーと、三十九才。職業が分かるのは、名刺だな。どれどれ……弁護士! こりゃまた、珍しい職業だな。過去の裁判で恨まれていたのかもしれない」



「死因は殴打による失血死、っと。先輩の言う通り、恨みが原因ですかね。普通こんなにド派手に殴りませんから」



 山城は被害者の頭部を指す。



「なるほど、数回殴られてるな。恨みの線が濃厚になってきたぞ。だが、そう決めてかかると先入観で真相を見失うからな。あくまでも可能性の一つだ」



 冴島は教育係として山城に言うが、彼女は別のものに興味を抱いているようだ。



「先輩、これ事件に関係ありますかね? それとも、被害者の趣味ですかね?」



「どれどれ」



 冴島が「よっこいせ」と立ち上がり、山城のもとに向かう。



「ほら、これですよ、これ」



 山城が見つけたのは、タロットカードだった。次の瞬間、冴島は興奮して床に落ちた、それを見つめる。



「おい、山城。三年前の事件を知っているか?」



「いや、三年前は大学生でしたから、詳しくはないですね」



「じゃあ、教えてやる。三年前に連続殺人事件が起きたのは知っているな? 未解決に終わった事件を」



「もちろんです。それくらいの知識はありますよ」



 山城の声は「馬鹿にしないでください」とばかりに、少し怒りが混じっていた。



「その事件現場には、必ず置いてあったんだよ。が」



「つまり、その犯人と同一人物かもしれない……と?」



「こいつが漏れたら面倒だな。当時、マスコミはタロットカードが落ちていたことを報じている。つまり、この状況を奴らが知れば、騒ぎ立てるだろうさ。『悪夢再び』ってな」



 冴島の脳裏には、三年前の事件が頭をよぎっていた。冷徹な悪魔が行った犯行の数々が。もし、同じ犯人ならば、この後も事件が起きるのは間違いない。自然と拳を握っていた。



「先輩、怖い顔してどうしたんですか?」



 山城は冴島の顔を覗き込む。



「そうだな、もう一つ教えてやろう。三年前の事件で亡くなった被害者にいたんだよ。俺の親父がな」



 二人の間にはどんよりと、そしてなんとも言えない重たい空気が漂っていた。

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