第26話 オアシス

 アルウィン、オトゥリアそしてゼトロスが第40層に入ったのは、紅い陽が砂丘の向こうへ沈もうとしている時間帯であった。

 空は赤紫に染まり、まるでミヤビ国産の紫陽花あじさい染めのような色。夜の帳はもう間もなくという所だった。


 バチャバチャと、水路を駆けるゼトロスの姿。


 ここから後の時間帯は、冷たい風が吹き荒れる夜の時間となる。サソリたちが顔を出し、砂洞で眠っていた飛竜たちが顔を出す頃だ。


 ゼトロスによって跳ねる水が、心做しか冷たくなるのが感じられる。

 オトゥリアの右手前方に見えるのは、夕闇の時間でも煌々と輝いているオアシスだった。


「この先1マイルくらい先のオアシスって……あれかな」


 彼女が指差すものは、砂丘を2つ超えた先だった。

 けれどもその景色は角度的な問題でアルウィンには見えていなかった。


「あー、角度悪いのかな。オレには見えてないや」


 アルウィンがそう言うと、「任せろ!」と下から声が響く。

 途端。

 身体が急に引っ張られる感覚が彼を襲った。

 ゼトロスが跳躍したのだ。


「えっ!?」


 高所恐怖症を持つアルウィンは、急に飛び上がったゼトロスの不意打ちに対応出来ていなかった。

 彼の脳裏にあったのは、高所から飛び降りた時の恐怖の記憶。

 オルブルに付けられた、トラウマ訓練の記憶である。


 ───ま……ずい……!!


 彼は鳥肌を浮かべて、咄嗟に。

 振り向いた途端にオトゥリアへみっちりと身体を密着させて抱きついていたのだった。


「へうっ……??」


 抱きつかれたオトゥリアは、あまりの不意打ちに悶絶し心拍数が一気に上がっていた。

 押し出される血流はさながら滝のよう。早鐘を打つ彼女の心臓と、耳まで染めあがった夕日と同じ色の頬。


「…………くううっ!」


 意識しているのか、無意識によるものなのかは判らない。

 がそのまま。

 頬を真っ赤に染めた彼女は身体を捻ると───アルウィンの頬を叩いていたのだった。


 ベチンと渾身の一撃が炸裂した音が周囲に木霊する。


「あべぶっ!!」


 そして、それに続くアルウィンのだらしなく汚い声。

 彼は強烈な痛みで涙目になりながらも、姿勢を元に戻してぼやける視界で砂丘の先の光を見ていた。

 ゆっくりと差し込んでくる、朱色の丸いもの。

 光の手前に出来たアカシアやナツメヤシの伸びた影が、より一層、暮色の華やかさを漂わせていた。


「綺麗だ……」


 跳び上がってくれたゼトロスのおかげで20フィートほど上から見れた景色。

 それは、神秘的と形容するだけでは足りないものであった。


 ───間もなく、あの神秘的なオアシスへと辿り着くんだな。今日の目的地である、第40層のキャンプ街に。


 そこは、さながら街であった。

 無論、面積だけならダイザールの街はおろか、ズィーア村にも及ばない。

 けれども、活気のある巨大都市の一区画のような雰囲気があったのだ。


 巨大なオアシスを灌漑でさらに拡張し、区画を整理した土地。掘られた鉱石や金属などが並べられ、武器屋や宝石店なども並ぶような商業都市となった地である。

 騎士団のキャンプ地ではあるものの、冒険者の活動によって商業が発展していった個性的な都市だ。


「綺麗でしょ……?

 いきなり高いところは……やっぱ怖いんだね?」


「それは……」と言い、バツの悪そうな顔ですぐさま目を逸らしたアルウィン。

 オトゥリアは、そんな彼の声に少しだけ頬を緩めていた。


 ───可愛い。 アルウィンはやっぱり可愛いな。


 ただただ、その感情しか湧いてこないのだ。


「綺麗だね、アルウィン」


 彼女は、アルウィンの胸元にそっと腕を回していた。

 彼の肩に顎を乗せて寄りかかると。

 オアシスを背景にまだ火照る顔でそう言ったのだった。


 その顔は、闇色に染まりつつある光に照らされて妖艶さを含んでいたものであった。

 風に揺れる長い髪も、艶めかさを大いに引き立てている。


 けれども。

 アルウィンの頬には一筋の汗が川を作っていた。


 ───綺麗だけど……無理なものは無理なんだよ!


 美しい景色であることは間違いないが、うっかり下を見てしまって目を瞑ってしまったアルウィン。

 彼は話しかけてくれたオトゥリアに振り返ることもなく、上の空だった。


 しかし。

 そんな状況に、いつもは「大丈夫だよ」と言ってくれたオトゥリアだったが───今は、まったく異なる言葉を口から放つのだった。


「目を逸らさないの!ほら!あっち見ようよ!」


 アルウィンの顎を掴み、無理やり視線を前に向けさせたオトゥリア。


「ちょっ……!?」


 彼はオトゥリアの行動に、びっくりして素っ頓狂な声をあげる。

 けれども。

 オトゥリアは真剣だった。


「アルウィン。私と同じ景色を……共有したいの!」


 ───オトゥリア……


 彼の心臓が、どくんと震えた。


 ───オトゥリアは……オレとこの思い出を共有したいと思ってくれているんだ。だったらオレは……変わらなきゃいけない。高所恐怖症を少しは克服出来るように。


 文句を言いたそうなアルウィンだったが。

 彼は恐怖心をぐっと堪えた。


 少しづつ目を開く。


 そして、目の前の光景に強ばった表情を和らげる。


「…………!!」


 目を大きく見開いて、しばらくは息をすることも忘れていた。


「綺麗でしょ……」


「うん」


「この光景を、アルウィンと一緒に観られただけでも私は幸せだよ」


 彼に後ろから抱きついていたオトゥリアの腕が、さらにぎゅっと彼に絡みついていた。


「オレも……幸せだ」


 彼が首だけで振り返ると、満面の笑みを浮かべるオトゥリアがいた。

 その表情に───彼の口角は緩んでいた。




 ゼトロスが宙を駆けていたのは、僅か十数秒ほど。

 しかし、その間にアルウィンが見た光景は、今後一生消えることのないほど強烈に脳裏に刻まれた景色となっていた。


 眼を灼くような鋭い夕陽に照らされたオアシスに囲まれる都市と、それをまさに覆わんとするラピスラズリのような夜闇のベール。

 二色の織り成す、比肩するもののない完璧な調和。

 それが、彼の記憶に強烈な印象を与えたのだ。




 大きな水しぶきをあげることなく、静かに着水したゼトロス。

 そのままゼトロスは前脚を大きく開き、水底を蹴り上げながら美しく輝くオアシスに向けてひた走っている。


 ぱっと飛び散る水滴。

 僅かに上下する、ゼトロスの背中。


 気が付いた頃には、彼らの周りを明るく照らされた木々が包み込んでいた。

 第40層のオアシスに、彼らは遂に到達したのだ。


 夕刻の街の喧騒。

 白仙狼フェンリルに乗る人物に驚く声。

 夕方の砂丘は風が吹き、それが少し涼しかった。


 駐在騎士が幾人か駆けてきた。

 するとオトゥリアはいつの間にか、まるで舞う蝶のような軽々とした動作でゼトロスから降りていた。


 この層で彼女を待っていたのは、四名の男性騎士と一名の女性騎士だった。


「ルチナ……!?」


 オトゥリアはその女性騎士の顔を見た途端、夕闇に負けないくらい顔を輝かせていた。


 少し癖のある赤髪をサイドテールにした、八重歯が特徴的な女性騎士だった。

 身長は、オトゥリアよりも僅かに低い。が、年齢は彼女と近そうである。


「久しぶり!ルチナ!」


「オトゥリア様あああっ!!」


 互いに駆け寄り、そして抱き合う2人。


 しばらく、再会を喜びあった後に。


 オトゥリアが「おっ、しっかり鍛錬してるね」などと言いながらルチナの二の腕を触る。

 するとルチナは満更でもなさそうな顔でオトゥリアを受け入れていた。


 ───どうやら、少なくとも知り合い以上の関係だろう。


 抱き合う二人を、アルウィンとゼトロスは微笑ましそうな表情で見つめていた。


 ───ルチナの駆けた時の癖がオトゥリアのものと似ていたな。剣術の師弟関係なのかな。


 ルチナと呼ばれた女騎士は、まるで甘える犬のような蕩けた表情だった。

 八重歯も相まって、ダックスフントのように見えてしまう。


「ルチナが迷宮部隊に配属されてたのは知ってたけど、ダイザールが管轄だったんだね」


「はい!そうです!!

 オトゥリア様が第一王子のリューゲルフト様からのご命令で迷宮調査をされているとお聞きして、是非力になりたいと思って参りました!

 私の管轄は40層なのですが、下層の情報もオトゥリア様のために集めてあります!」


 早口で、鼻息の荒いルチナ。

 鈍いアルウィンにもゼトロスにも、このルチナという騎士はオトゥリアに対して気があるということは何となく察することが出来る。

 それほど解りやすく犬みたいな女性騎士だ。


「情報を集めてあるの?それはすごく嬉しい!」


 迷宮の情報を集めたと聞き、目を輝かせるオトゥリア。

 蕩けた犬のような表情は、彼女にも伝播しているようであった。

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