第9話 戦火の中で
戦火の中で-1
1940年9月
英国の9月は変わりやすい天候だが概ね晴れる。つまりドイツ軍機が攻撃するのに適した季節だ。
8月の下旬まではロンドン近辺の各飛行場や航空基地への爆撃が続いたが、何故か27日のみ、ロンドンに爆撃があった。しかもセントポール大寺院のすぐ裏手だ。英国民の衝撃は大きく、
負傷者は増える一方であり、中軽傷者は処置を終えると、地方へ転床させるようになっていた。医療が足りていないだけでなく、負傷者は爆撃時に待避壕に避難するのが難しいためである。また、チャーリング・クロス病院そのものの疎開も話題に上がるようになっていた。
「これからどうなっちゃうのかなー」
ナースステーションで同僚たちが書類整理しながら疎開を話題に挙げる。
「あたし、向こうに移るかって打診があったわ」
向こうというのは疎開先の候補にあがっているロンドンの北40キロほどのところにあるハートフォードシャー州のカントリーハウスのことだ。
「田舎いやだなー」
確かにロンドンの生活に慣れてしまうと田舎暮らしに戻ることは想像できない。
「ほらほら、手がお留守だぞ。働け少女諸君」
モーガン師長が巡回から戻ってきて、同僚たちは何もなかったかのように仕事に戻る。私も傾けていた耳を通常運転に戻す。
「ああ、アリシア、リンゼン先生のところに郵便物を持って行ってくれる?」
「はい」
モーガン師長から郵便物を2通受け取る。1通は陸軍から。もう1通は亡命オランダ政府からだ。ふむ。どうやらまた状況が変わるらしい。ここ半月ほどはこのチャーリング・クロス病院で落ち着いていたのに。それはそうか。もしかしたら疎開先に行けという話かもしれない。
色々考えながら私はルーカス先生の詰め所に向かう。ルーカス先生はご不在で、書類を重ねておく決裁箱の中に郵便物を置いておく。通常はこれで読んでくれる。
ルーカス先生はいつ戻ってくるのかと思いながらちょっと詰め所の中を眺める。椅子の背もたれにスーツのジャケットが掛かっている。ふと私は執務机を回り込み、ジャケットを手にして、匂いを嗅いでみる。きっとルーカス先生の匂いがするはずだと思ったからだ。
案の定、そっと嗅いでみると汗の臭いが少ししたが、ルーカス先生の匂いがした。それは私にとってはとても心地の良い香りだ。嗅いでいると安心する。
私は目を閉じてしまう。
すると扉が急に開いて、私はびっくりしてジャケットから顔を離してこわごわと扉の方を見た。そこには呆れた顔のルーカス先生が立っていた。
「君は何をしているんだい」
「せ、先生、お帰りですか」
私は何もなかったかのように装ってジャケットの皺を伸ばしつつ、椅子の背もたれにかけた。
「お手紙を持ってきました。軍からですよ」
「そうか……」
誤魔化せたとは思えない。ルーカス先生は見なかったことにしてくれたようだ。執務机まで来ると立ったまま手紙の封を切った。
「また新しい命令だ。フリーに使える遊撃部隊だと思われているようだな。疎開した都合でロンドン市内の医師が整形外科医が足りなくなって、市内の病院に残さざるを得ない重症患者を看て回ることになった」
ルーカス先生はうんざりしたような顔をした。軍に振り回されっぱなしだから仕方がない。
「状況が流動的だから場当たり的にでも対処しないとならないんでしょうね」
「この命令はたぶん、君には適用されなくて、僕の依頼でついてきてもらうことになると思うんだけど……」
「私はルーカス先生付と自覚していますから、先生が私を拒まない限りはついていきますよ」
わたしも呆れた顔をして見せた。どうしてこんなことを今更聞くのだろう。
「ロンドンにいるなら、どこでも同じか」
あきらめ顔のルーカス先生に私は聞いた。
「どういうことですか?」
「スペインで爆撃を受けて文字通り灰塵と化した街を見たことがある。バスク地方のゲルニカといったかな。爆撃から何ヶ月も経った後だったけど、悲惨としか言いようがなかったんだ。建物の壁だけ残って、瓦礫の山が道路端にあって、ひたすら焦げ臭かった。君と一緒に砲撃に遭ったドーバーの区画に行ったけれど、あんなものではないよ。ドイツは今度はロンドンでゲルニカをやるんだろう」
ルーカス先生の言葉には怒気が混じっている。言葉だけではゲルニカの悲惨さはよくわからなかったが、英国でも新聞報道されていたので私の記憶にも残っていた。
「ドイツが力を見せつけ、抵抗の意志を殺ぐために、ロンドンを灰にするということですか?」
ルーカス先生は頷いた。
「だけど僕らは僕らのできることをするしかない。それが僕らの戦いだ」
「ええ。わかっているつもりですよ」
私も頷いた。
一方の亡命オランダ政府からの手紙には、オランダのルーカス先生の邸宅のことが書かれていた。現在ドイツ軍将校の宿泊施設として使われているということだった。要するに英国軍の爆撃対象になるということらしい。
「僕は何もかも失ってしまうのかもしれない」
私はそう悲しむルーカス先生に寄り添い、ぎゅっと彼の手を握りしめた。
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