悪いことばかりじゃない-2
男の子は母親らしき女性を連れて戻ってきて、男の子の母親が私たちを家に招き、男の子は逸るマックスを従えて朝の散歩に向かった。
玄関を入ってすぐにリビングがあり、大きなテーブルとキッチンカウンターがあった。テーブルの上にはパンの山が置かれている。パンを見て初めて自分がお腹が減っていることに気付いた。隣のルーカス先生を見上げるとやはり私と同じようにお腹を減らした顔をしていた。
ご主人がキッチンカウンターから出てきて、お互い自己紹介した。このお宅はマクレガーさんというらしい。さっそくスープとパンとミルクの朝食をいただくと外が明るくなって、奥さんは窓のカーテンを開けた。灯火管制中なので重い遮光カーテンだ。
「大変でしたね」
マクレガーさんが私たちの前に座ってホストらしく話しかけてきてくれた。
「ここに住まわれている方の方が大変です」
ルーカス先生は口の中の食べ物を飲み込んでから応えた。
「前の戦争のときも大変でしたが――今回も大勢の兵隊さんがフランスから帰ってきてそりゃ大変でしたよ。もちろん協力しましたよ」
マクレガーさんが言っているのはダンケルクの撤退の話だろう。
「ええ……大変でした。私もその中におりました。ここではありませんが、市民のみなさんの温かい支援で、生きた心地がしたものです。今回もそう思っております」
ルーカス先生が戦争の話をすることはない。おそらくそれは昨夜の言葉が象徴するように、私を戦争に関わらせたくない気持ちが彼の中にあるからだろう。
「スープ、とっても美味しいです」
私は話題を変えたくて、会話に割って入った。
「それはよかった。好きなだけ食べてね」
私は大きく頷いた。
「実家に戻ったみたいです。実家も農場なもので。バーミンガムの近くの田舎なんですけど」
「それは遠くから来たね。親御さんはご心配でしょう。こんなかわいい子を戦場に送り出すなんて」
「父も母も国民の義務だって言ってますから」
「素晴らしいご両親だ」
父と母はこんなところだけご立派に貴族なのだ。それは美点だと私も思う。
「本当にかわいらしいお嬢さんだこと」
「こんなかわいい子でも昨日の手術じゃノコギリを使ったんですよ」
ルーカス先生が言うと、マクレガーさんと奥さんもノコギリが意味するところがわかったようで、ぎょっとしたような顔をした。
「それじゃあ1人前の看護師さんだ」
マクレガーさんは私の仕事ぶりに感心してくれた。
食事が終わるとコーヒーを入れてくれ、せめてここにいる間だけでもくつろいで欲しいとマクレガーさんは言ってくれた。常に臨戦態勢ではいられないから、たいへんありがたいお言葉だ。
もう一寝入りしたいところだが、そうも言っていられない。病院には処置を待っている患者がいる。私とルーカス先生は簡単にシャワーを済ませ、着替えて再び病院に戻る。昨日の2人ほどではないが処置を続けないとならない。
充電が済んだ私は背筋を伸ばして、ルーカス先生はヒゲを剃ってしゃんとして病院に戻り、カルテを確認し、木工工場の仮病棟へ行き、今日の診察を開始した。一通り患者に目を通し終わったのはもうお昼近くだったが、今度はドーバー城の海軍病院から呼び出された。ルーカス先生が整形外科のエキスパートだと知り、応援要請が入ったとのことだった。
「忙しいほうがいい」
海軍がよこした車の後席に乗り、ルーカス先生は大きく深呼吸して目を閉じた。私も隣の席に座って、同じように深呼吸して目を閉じる。少しでも眠っていたい。しかしいつ昼ご飯を食べよう。うん。用意がないから仕方ない。寝よう。
車の後席で寝るだけでもずいぶん疲れが取れるもので、ドーバー城に着いた頃には頭がすっきりしていた。
ドーバー城の起源はローマ時代より前に遡るというから気が遠くなる。ローマ軍がイングランドに来てドーバーが主要港になった頃、砦の形ができ、そのときに建造された灯台が今もあるというからびっくりだ。その後、100年戦争の時代に今のドーバー城の原型が作られたが、それももう700年も前のことになる。その後、フランス革命のあとのナポレオン戦争で使われ、今も残る長大なトンネルが掘られた。先の大戦のときにそこが再整備され、今ではそのトンネル内に海軍の司令所と海軍病院があるのだという。
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