悪いことばかりじゃない-3
ドーバーの港を見下ろせる岬に建造されたドーバー城はとにかく大きい。サッカー場35面相当といわれることがあるが、もうそれは比較対象に相応しくないと思う。テニスコートならまだしもサッカー場だなんて。
英国人として1度は行きたい歴史的建造物ドーバー城にこうやってくることになるなんて、悪いことばかりじゃないなと不謹慎にも思ってしまう私である。
急な丘を車は上り、城郭の中まで入っていく。城郭は角張ったデザインで優雅さには欠ける。それはそうで、王侯貴族の城ではなくここは軍事拠点の砦なのだから実用的であるべきなのだ。
更に言えば、ドーバー城の上空に無数の阻塞気球が浮いていることも有事であることを実感させる。阻塞気球は
城の前に到着すると海軍病院の職員が迎えに来ていた。ここから城に入り、下りのエレベーターに乗って、ようやく地下トンネル内の海軍病院に到着する。
海軍のお医者様とルーカス先生の打ち合わせが始まり、私は近くにいた従兵になにか食べながら打ち合わせできる軽食を持ってきて欲しいと頼んだ。すぐにサンドイッチが届けられ、ルーカス先生と私はもぐもぐしながらカルテを眺める。
早急に処置が必要だと思われる患者は既にリストアップされており、順位付けをしたあとは早速、術式の検討に入り、2時間も経たないうちにルーカス先生と私は再び手術室に入った。常に緊急治療室並の医療が求められるのが戦時というものらしい。
続けて2人手術し、4時間後に手術室を出る。そしてルーカス先生の噂を聞きつけ、皮膚科のお医者様が相談に来た。ルーカス先生が
「僕は火傷も処置できる。当然いっぱい看たよ」
そう言うルーカス先生の顔はいつもより険しい。まだ戦場ではないと昨日は言っていたが、もうそこにいる顔に戻りつつあるのかもしれない。
火傷の処置は明日になり、私たちは地上に出る。地上は夕闇に包まれる時間になっていて、もうすぐ西の海に太陽が沈みそうになっている瞬間だった。
「先生、お願いがあるんですが……」
「なんだ?」
ルーカス先生は疲れた顔をしていたが、私を見下ろすと少し柔和になった。
「有名なローマ時代の灯台を一目みたいんです」
「ああ……」
ルーカス先生は小さく嘆息した。
「それくらい、いいかな?」
ルーカス先生は、送りの車を運転する昨日と同じ兵隊さんに聞き、彼はそれくらいならと案内までしてくれた。
砦から200メートルほど薄暗い中を歩き、まだ少し明るい空を背景に、教会と塔が見えてくる。レンガ造りの教会は中世のものだが、その隣の塔は表面が摩耗しており、一目で教会とは時代が異なって大きく遡ることがわかる。なにか見ていてジーンと伝わってくる。これで背景の夕闇の中に無数の阻塞気球が飛んでいなかったら、もっと感慨深いものになっただろう。それでも私は感嘆せずにはいられない。
「これがローマ時代の灯台かあ」
「2世紀に建てられたということです」
若い兵隊さんがそう教えてくれる。
1800年も前に建てられたのに今もこうしてドーバーを眺めているなんて、気が遠くなる。ルーカス先生が私の顔をのぞき込んだ。
「見られて良かった?」
「はい! 完全に暗くなる前で良かったです」
しかしすぐに暗くなってしまったので、兵隊さんは照らせる範囲をとても狭くしたライトを手にして足下だけ照らしてくれ、私たちは車に戻った。
もちろんこれで仕事が終わりになるはずもなく、民間病院でも手術を1件こなして、今日は午後8時にはマクレガーさんの家で夕食をいただくことができた。
「今日はドーバー城でローマ時代の灯台を見てきたんですよ!」
私はそう、夕食の席で得意げにマクレガー一家に話をした。
マクレガーさんの家族はご夫婦に長男のショーンくんと長女のエリスちゃんの4人家族だ。あと、ゴールデンレトリバーのマックスくん。その夕食の席にルーカス先生と私が加わっている。
今日のメニューは、ローストポークに芋のチップスをオーブンで温めたもの(山盛り)、茹でた野菜の付け合せというものだ。炭水化物は芋というわけだ。ソースは市販の瓶詰めのもの。ごく普通の夕食だ。ルーカス先生と私はワンプレートにそれらを盛ってフォークとナイフでいただく。
「すげえや。ドーバー城に入ったんだ!?」
ショーンくんが感嘆してくれた。嬉しい。マクレガーさんがツッコミを入れる。
「お前が小さい頃はまだ入れたから一応、見てるんだけどな」
「お城いきたーい」
エリスちゃんはまだ小学生になったばかりなので、ドーバー城には入ったことがないようだ。ドーバーを象徴する建物でありながら、軍の重要拠点になっているので、民間人が出入りすることはそうそうないのだ。
「戦争が終わったらきっと見に行けるようになるよ」
私がそう応えるとルーカス先生は淡々と言った。
「話では防空壕になるらしいので市民も避難することになると思います」
「そういうことではないですよ、先生」
私は呆れてしまう。
「だが、現実だ。大型の列車砲ならここはヨーロッパ大陸から直接砲撃ができる距離にある」
私はテーブルの下でルーカス先生の足を踏み、ルーカス先生は口に入れたばかりの芋をそのショックで飲み込んでしまった。
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