戦争が始まった-2

 病院の玄関を入ってすぐの医事課で紹介状を見せると、3階の整形外科のナースステーションに行くよう指示された。疲れていたが、エレベーターは車椅子の患者でいっぱいで、私は階段で3階まで上った。車椅子の患者の多くは若い男性で、戦傷者だと私にはすぐに見当がついた。


 3階のナースステーションに行って少し待つと、まだ30代と思しき赤毛の看護師長さんが来て、私を奥の事務室兼更衣スペースに招いた。その看護師長さんに私はなんとなく見覚えがあったので、5年前にここに入院していたことを話すと、彼女はすぐに思い出してくれた。


「ああ、リンゼン先生に熱をあげていたあの子があなたなのね! 覚えてる! 覚えてる! すごい噂になってた! 懐かしい!」


「はは。お恥ずかしい限りです」


「リハビリでしっかり歩けるようになったんだ。良かったわ。しかも看護師を志すなんて、やっぱりあのときのことがあったからかしら?」


 私は大きく頷いた。


「私のように医学の力で救われる人はきっとまだまだ大勢いるはずです。微力であっても私はそういう人たちの力になりたいと思って、恩返しのつもりで看護師になりました」


「えらい!」


 看護師長さんから過分なお褒めの言葉をいただき、私は恐縮した。


「そんなことないですよ……少しは夢も見てましたし」


「そう? ということは看護師になったらリンゼン先生と一緒に働けるかもって?」


 図星過ぎて、私は真っ赤になって俯くことしかできなかった。


「うーん。でも、そんなあなたには今のこの病院で働くのは酷かもね……」


 看護師長さんの表情が暗く曇った。


「いえ。そんなことは! 一生懸命働きます。働かせてください!」


 必死に食らいつくように私が訴えかけたものだから、看護師長さんは少し驚いたように、そして少し言いにくそうだったが、口を開いた。


「そういうことじゃないんだけどね……でも、すぐに分かることだから……あなた、お名前をなんていったかしら……」


「アリシア・ストーナーです!」


「そうそう。アリシアね。アリシアと呼んでいいかしら。私はモーガン。モーガン師長って呼んでね」


「はい。アリシアとお呼びください。モーガン師長」


「よろしい。さっそくだけど今日から働ける?」


「はい。白衣は持ってきています」


「いいね。悪いけど、さっそく私の指示で動いてくれるかな。他のスタッフには新人が来るって通達してあるから、『新人です』で通じるはず」


 私はまた大きく頷いた。


 すぐに白衣に着替え、私はモーガン師長の指示で、包帯交換の仕事に駆り出された。先輩看護師と2人1組で8人部屋を回る。入院患者のほとんどが戦傷者で、応急処置をしたはいいが、高度な医療が必要な患者が回されてきているのだと聞いた。戦場での骨折の処置が不十分で、再接合が必要になったり、切断した手脚の処理が荒すぎて再手術が必要になったりするパターンが多いようだった。そんな、普通はそうない手術ばかりしているように見受けられた。ここもまた第2の戦場だと言えるだろう。一刻も早く患者を治すことで、ナチスドイツに抵抗する力が回復する。大切な任務だ。


 包帯を交換するだけでも、疲れ切った戦傷者のみなさんには幾度となく感謝され、私は処置を終えて廊下に出る度に涙した。先輩看護師は泣いている暇はないんだよ。泣かないことが、お国のためになるんだよ、と私の背中を優しく叩いてくれた。


 そうだ。少しでもこの病院の力になることが、英国のためになる。がんばろう。


 決意して涙を拭き、前を向くと、回診の先生が廊下を歩いてきた。


 その姿を目の当たりにした次の瞬間、私の心臓が激しく高鳴った。


 全然違う痩せこけたシルエット、全然違う険しい雰囲気。なのに、カツカツと靴音を立てて歩いてきた回診の先生を、私は彼だと直感したのだ。


 私は自分の目を疑った。だが、何度見ても前から歩いてきたのはルーカス先生に間違いなかった。彼の目の下には大きく深い隈があり、瞳にはかつての輝きはない。左の頬から首元まで伸びた、接合に失敗した醜い傷がある。清潔感があった茶色の髪はボウボウに伸びている。それでも私の恩人で初恋のルーカス先生だった。


 そして刹那の間の後、私と彼の目が合った。


 ルーカス先生は私がびっこのアリシアだと分からなかったのか、目線は自然に外れ、無視するように私の前を通って8人部屋に入っていった。


「おお、怖い」


 ルーカス先生の姿が消えると先輩看護師は安堵の息を漏らした。


「る……ルーカス、せん、せい?」


 私はあまりの変わりようを信じられなくて、8人部屋の中をのぞき込んで確認することすら恐ろしく感じた。彼の表情の中に、かつてのあの笑顔を浮かべるような余裕は微塵も感じられなかったからだった。


「あら。よく知ってるのね。ファーストネームはそう――ルーカスといったかしら。ルーカス・リンゼン先生。先生はダンケルクから撤退する陸軍の負傷者を治療するために海峡を渡ってきたって聞いてるわ」


 先輩看護師は一難去ったという顔をしている。


「……やっぱり、ルーカス先生なんだ」


 あまりの変わり様に私は息をのんだ。激務故にピリピリしているというのとは訳が違う。まとっている雰囲気がまるで違っていた。この5年間に何があったのか。その時の私は想像することすらできなかった。


「さて、また怒鳴られる前に次の部屋に行きましょうか」


「……怒鳴る?」


 ルーカス先生が怒鳴るなんてシーン、私には想像ができない。


「腕はいいんだろうけどね、とにかく気難しいのよ。近寄らないに越したことはないわ。あなたも気を付けてね」


 どうやら看護師の間では恐れられているようだ。私は頷いた。不用意にルーカス先生に近づいていたら、どうなっていたかわからない。慎重に近づく必要がありそうだ。


 私は思ってもみない再会に――それもこんなに早い再会に胸を躍らせる余裕もなく、また、彼の身を心配することになろうとも思わず、不安に胸を騒がせたのだった。

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