私の初恋-4

 入院から5日後の手術の日までは試練の時だった。ハーレン先生の言うとおり、私はチャーリング・クロス病院に集まる若手医師や医学生を相手に行う術式の授業の素材となったからだ。


 これでも私は17歳の乙女である。病衣姿で右の素足を大勢の男の人の目にさらし、触られ、揉まれ、いろいろなことを言われるのはかなり屈辱的だった。


「よくこれで今まで歩いていたものだ」


「慢性的に炎症起こしているね。変形している」


「まるで魔女の家の前に植わっている木みたいに曲がってるな」


「まわりくどいな。魔女の杖でいいじゃないか」


 などと私の右足を見て医学生たちが話をしているのに私はその場から逃げ出すことはできないし、もちろん耳に入れないこともできない。悔しくて悲しかった。


 そんなときルーカス先生は人垣の後ろの方で大きな咳払いをして、医学生たちの注意を引きつけ、言った。


「君たち。そこにいるのは年若い乙女だ。患者の気持ちを考慮しないで最善の医療を施せるはずがない。一から出直せ」


 私に対する口調とはまるで違う、とても厳しい口調で彼は言い放ってくれる。それがとても痛快で、今までの辛い気持ちはどこへやら。私の魂はふわりと身体から5センチほども離れてしまう。一方の医学生たちはルーカス先生に注意され、しょげて黙るのだった。


 ルーカス先生は美形ではないが、笑顔が素敵だし、清潔感溢れているし、背は高いし、とても格好いい。私が夢中になるのも当たり前だ、と自分に言い聞かせていることに気付き、初めて私はすっかりルーカス先生のファンになっていることを自覚した。


 そう。ファンだ。なんと言っても10歳以上歳が離れているのだから。私は子どもでルーカス先生は大人。相手にして貰えるはずがない。そうすぐに思うようになった。でも、手術が無事成功してリハビリの時期になったら、ナショナル・ギャラリーでデートだ。そう考えるだけでまた私の魂は身体から5センチほど離れるのだった。


 医学生たちの見世物になる以外の時間、私は血液検査をされたり、様々な角度からレントゲン写真を撮られたりと、様々な検査を受けた。その検査結果を参考に、ハーレン先生とルーカス先生は手術の計画を立てているようだった。


 そしてルーカス先生は回診と称して、21時の消灯時間の15分前に私の個室に来て、話をしてくれた。だから私はかなり安心できたし、この時間だけはルーカス先生を独り占めできるのでとても楽しみにしていた。だが、看護師さんからは男の先生がまだ年端もいかない女の子と個室で2人きりになるのを良く思っていないようだった。もちろん私はそんな看護師さんたちのやっかみなど完全無視した。


 消灯まで15分間しかないので大した話はできないが、それでも少しは、ルーカス先生のことを知ることができた。ルーカス先生も私と同じ、貴族階級だけど、あまり裕福ではない家柄だということ。特に婚約者などはいないということ(これは重要な情報だ)。学生時代はアメリカにも留学していたこと、などだ。


「アメリカですかー!」


「アメリカは賑やかだよ。いろいろな人種がいて活気があって、料理もいろんな料理があって、ちょっと英語の発音が違う」


「そりゃ移民して何百年も経てば言葉も変わりますよね」


「そうだね。何千キロも離れているしね。船の旅もそれは楽しかったよ」


「いいなあ」


「足が無事、まっすぐになって、どこにでも歩いて行けるようになったら、アメリカでもエジプトでも日本でも行けるさ」


「お金があれば、ですよね」


「それはそうだけど。たとえだよ、たとえ」


 ルーカス先生は苦笑した。


「でも、ヨーロッパ大陸くらいなら行けると思いますよ」


「そうだね。勉強にもなるしね。やっぱりフランス?」


 私は首を横に振った。


「せっかくルーカス先生とお知り合いになったんですから、オランダに行ってみたいです」


 そう私が言うとルーカス先生は微笑んだ。


「もし私がオランダに戻っていたら是非、案内するよ。案内したいところがいっぱいあるんだ」


「是非。約束ですよ」


「ああ。約束だ。楽しみだな」


「私に『楽しみにしていてくれ』じゃなくて、先生が楽しみなんですか?」


「うん、悪い?」


 ルーカス先生は少し拗ねたような顔で私を見る。


 私は言葉では答えられず、ただ小さく首を横に振った。ルーカス先生ほど格好いい大人の男の人が、私なんかを案内するのを楽しみにしてくれるなんて、嬉しいを通り越して恥ずかしいではないか。


「うーん。もしかして僕が、田舎から1人でロンドンに来て心細い女の子を慰めようと義務感から言っていると思ってる?」


「ちょっとだけそう思います」


「心外だな。100パーセント、僕がそうしたいだけさ」


 そしてまた笑った。私も釣られて笑った。


 もうすぐ消灯です、と院内放送が入り、ルーカス先生は私にお休みを言った。


「いい夢をね。明後日には手術だ。成功するよう祈ってくれ」


「ハーレン先生でも失敗することがあるんですか?」


 冗談交じりにそう聞くと、ルーカス先生の顔色が変わった。どうやら深刻なことでも起きたように思われた。


「……実は僕が初めて執刀医になるんだ。ハーレン先生は助手についてくれる。だから君は安心していいんだよ」


「なんだ。そんなことですか」


 私は心の底から笑みが浮かぶのが分かった。


「そんなことって――大変なことじゃないか」


「そんなことないですよ。だってよく知っている――たった3日、4日でよく知ったもないかもしれませんけど、知っているルーカス先生がメスを握ってくださるのなら、こんなに心強いことはありませんよ」


 もともと治るなんて思っていなかった右足だ。手術をしてもらえて、治る可能性が見いだせただけでも幸運が重なって起きたことなのに、本当に治るかもしれないなんて、奇跡みたいなものだ。そして執刀医がルーカス先生なら、なぜだか本当に奇跡が起きる気がするのだ。


「君、ねえ……僕みたいな若造が……」


「でも、ハーレン先生だって、成功すると考えていらっしゃるからルーカス先生に手術をして貰いたいわけで――」


 そこまで言ったところで、一斉に病棟の電灯が消え、非常灯だけが床の低い部分と廊下を照らすようになった。


「残念。時間切れだ。看護師さんたちに怪しまれちゃう」


「もうとっくに怪しまれてますよ」


 私は小さく手を振って、ルーカス先生にお休みなさいを言った。


 ルーカス先生は何度も頷きながら、私の個室を後にした。


 本当におかしい。


 どうしてあんなに自信がなさげなんだろう。ハーレン先生の一番弟子なんだから、もっと自信を持って私の右足に奇跡を起こしてくれればいいだけなのに。


 不安がないと言ったら嘘になる。少し、希望を持ってしまったから。最善はハーレン先生の執刀なのだろう。しかし私にとっての最善はルーカス先生かもしれない。ルーカス先生が魔法のメスで奇跡を起こせなかったら、それはそれで諦めがつくだろうから。


 私は少しの不安は抱いたけれど、それよりもルーカス先生がオランダを案内してくださるという約束の方がぐぐーんと心の中で膨らんでいって、もうそのことしか考えられなくなっていた。


 早く治って、歩けるようになって、ルーカス先生とオランダ旅行をして――もしかしてご実家に招かれちゃったりして、なんて夢想しながら、しっかり眠りに就いたのだった。

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