異世界召喚された俺のジョブが「爪切り」だった

@takedainusa

第1話 異世界へ

大きく開口した窓がおしゃれな学食の隅っこ、4人がけのテーブルにひとり陣取り、一番安いメニューのタマゴ丼で昼食を済ませた俺は、さっき届いた教室変更のメールを見てため息をつく。


変更先の教室は、旧舘とよばれる西棟にあり、ここ学食のある南棟から東棟と本館をまたいだ向こう側になるうえ、古くてエレベーターがない建物の5階の教室が指定されている。


教務が変更申請を忘れたのか、変更申請が遅れたせいで不人気の教室が割り当てられたのだろう。心の中で悪態を吐きながら、残った水を一息に飲んで立ち上がる。


食券売り場の前にいる女の子3人組がパッと笑顔を浮かべて足早に近づいてくる。長い髪を後ろにまとめ、淡いパステルカラーのカーディガンに紺色のプリーツスカートと、ショートボブを栗色に染めた、ボーダーのロンTにデニムスカート、もう一人はアメリカの野球チームのキャップにオーバーオールを着たボーイッシュスタイル。みんないかにもフレッシュな雰囲気で、きっと1年生なのだろう。


「ここ、空きますか?」

「アッハイ」

ちょっと声が裏返った。素早くバックパックを肩にかけ、ハンカチで軽く机を払って席を譲ると、テーブルを離れる背中に小声の会話が聞こえてくる。


「すぐに席が空いてラッキーだったね。あっ、ねえ、あの人じゃない?黒崎先輩が言ってた…性豪くん?」

「えぇー⁉︎いかにも草食ですって顔して、そんなふうに見えないけど?むしろ性欲薄そうに見えるのに。ムッツリなのかな」

「ちょっと優愛声大きいよ、聞こえちゃうから!」

「大丈夫じゃない?人畜無害そうだし」


違うのだ。誤解なのだ。

両親が共働きで留守がちだった寂しさからか、俺には小さなころから爪を噛む癖があった。たまに泊りがけでお婆ちゃんが面倒を見に来てくれるときは、お風呂上りに爪を切ってもらうのが楽しみだった。


夏休みに田舎へ泊まりにいった時に、いつも噛み跡でギザギザな俺の爪を見かねたお爺ちゃんが爪切りをくれた。なんてことない普通の爪切りだが、パチン、パチンと小気味良い音と共に整っていく指先に俺は夢中になった。いや、爪切りは心の安定剤だったのかもしれない。


暇さえあれば爪を切り、時には深爪をして血が出ることさえあったが、それでも俺は爪切りをやめなかった。小学校の給食当番の時にはいつも先生に褒められたものさ。見本として教室の前に呼び出され、みんなに爪を見せて回ったのは良い思い出だ。


そうして爪切りが日常となっていた俺に、転機が訪れたのは去年のある日。授業前、いつものように教室の隅っこで爪を切っていた俺に、陽キャの黒崎くんが声をかけてきた。いわゆるファーストコンタクトだ。


「なぁ、ちょっと爪切り貸してくんね?さっきジュースの缶開けようとしたら爪割れてよー」


俺はめっちゃ切れ味のいい、自慢の爪切りを最高の笑顔とともに差し出した。

(お前もこの切れ味のトリコになるがよい)


ラメ入りブルーのレジン装飾が美しい爪切りを受け取った黒崎君が突然笑い声をあげる。

「おい、この爪切り!俺の先輩が黒服してる風俗店のVIPポイントでもらえるヤツじゃん!18禁の店なのにもうVIPってどんだけ性豪かよwww」


黒崎君が指さす爪切りには、確かにΓ記号の下に兜が描かれたロゴとともに「角蟹」と書いてあったが、俺はてっきりメーカー名だと思っていたのだ。というかお爺ちゃん、爪切りをくれた還暦のころに風俗店のVIP会員って…お前が性豪だよ。

呆然として返事もできないでいると、クラス中に話題が広まっていく。


終わった…

お父さん、お母さん、俺は大学でも陰キャ確定しました。話題を逆手に性豪キャラを押し出せるようなメンタリティもなく、不名誉なレッテルを打ち消すタイミングもないまま、童貞なのに時々思い出したように「性豪くん」と呼ばれる俺が爆誕しましたよ。


(はあ、爪切りたいわぁ)

俺は心の安寧を求めて、バックパック中にある爪切りに意識をはせる。


よみがえってきた苦い記憶を胸の奥へと押し戻しながら、食器返却口に食器を片づける。おばちゃんに聞こえるか聞こえないかの小さな声で「ごちそうさま」を言い、学食を出る。まだ肌寒い外の空気にジャージのジッパーを上まであげる。西館へ向かうイチョウ並木の緩い坂道を上っていくまばらな人影の中に、見知った白衣がいることに気づき声をかけた。


振り返った白衣の主はレンズの汚れたメガネをクイッとして応える。

「おう海老津えびつやん、今日の課題見してや。ちょっと自信がないところがあんねやわ」

賢そうな風貌に似合わないセリフを返してくるコイツは香椎翔太。


香椎は実験のためだけに大学に来ていると豪語し、一般教養科目をおろそかにした結果、1年必修の第二外国語を落として今、俺と2年生向けの再履修授業の教室へと向かっている。なお、俺こと海老津颯真は、去年の期末にインフルに感染したせいで40度の熱が出て試験を受けられなかったのだ。同じ単位を落とすという結果でも、内容が違うのだ!と声を大にして言いたい。


と、益体もないことを思ううちに5階の階段をのぼり切った。乳酸の溜まった腿をこぶしで軽く叩き、やや上がった息を整えながら指定された教室に向かうと、所在なげにたたずむ人影に気づく。


「古賀君、どうしたの?」

声をかけると、古賀君は振り返り、ほっとした顔で話しはじめる。

「…い、いや、僕ら3人しか受けない授業のはずなのに、教室の中から声がして…」

自信なさげにつぶやく古賀君の視線の先、閉じたドアの向こうから確かに楽し気な話し声、というにはちょっと騒がしいが…聞こえてくる。


意を決して2度軽くノックする。緊張しながらそっとドアを押してみると、蝶番の擦れあう金属音とともに開いたドアの奥に男1人、女2人が向かい合ってだらしなく座っているのが見える。


テーブルにはパーティ開けされたポテチとソーダ、陽キャたちのウェイウェイした宴だ。そのメンバーは、くだんの黒崎君とその女友達である。


「だから絶対ソイツ美依ちゃんのこと狙ってるって。二人で出かけちゃダメだよ。お、なに?この教室これから使うの?わりーわりー。じゃどっか別のとこ行こーぜ」

「あー、性豪くんたちじゃん、勝手に教室使ってごめんねー。あーしら行くわー」

机に散ったポテチの粉を、適当に床に払い落して出ていく彼らを見送り席に着く。


「…パーティ開けって全部食べきらないと湿気るし、ポテチを人とシェアしたことないから、今まで本当にああやって開ける人がいると思わなかった」


古賀君の悲しい独白が聞こえた。彼はまさしく陰の者。あまりの存在感の薄さに教室の後方に座っていることに気づかれない。配られたプリントが彼の元まで回ってこない。そうして提出課題がこなせずに単位を落とした。彼には課題を共有できる知り合いもいなかったのだ!


この再履修の授業には俺たち3人だけ。我らの同期は優秀なようだな。良きかな。そんなわけで毎週たった3人で顔を合わせていれば嫌でも話すようになる。そうして他愛ない会話を繰り返してみれば、二人ともラノベやゲームなど、趣味の合う気のいいヤツらだと分かった。今となっては、この授業が学校の中で一番人と話している時間なのかもしれない。再履修もしてみるもんだわ。


そんなことを思っていると3限の予鈴が鳴り、テキストを出そうとバックパックに手を突っ込んだ。瞬間、窓が目を開けていられないほど真っ白にまぶしく光り、反射で握りしめようとした手に爪切りが転がり込む。

ふと、尻を支えていた椅子が消えて尻もちをついた。

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