第十二章 人物の小説

 友人や恩師、家族、自分、あるいは歴史上の人物などが描かれて独特の魅力を放つ小説は、創作という観点では、ある一線を越えているような気がして興味をそそる。

 私が個人的にそれを感じた小説について書いてみたい。


 青山光二という作家は任侠物をで有名な作家だが、自らの恩師を描いた小説が「われらが風狂の師」である。

 これを読んだ時の衝撃は、今でも脳裏に刻まれている。

 哲学者土岐数馬(モデルは土井虎賀寿)を描いた小説だが、当時の三高の教授陣も描かれており、そのエピソードも驚異的だった。

 英語教師に学生がある小説にある端役の登場人物のセリフの箇所を尋ねると即座に出版社別にページ数を淀みなく告げたという。土井もギリシャ語の外国人教師にもう教えることはないと言われた話も出てくる。

 華厳経のドイツ語訳という大事業を成し遂げながら、双極性障害に悩まされ、この病に翻弄される。

 著者はこの人物の偉業はもちろんだが、恩師に対する尊敬と愛と驚きを一様でない情熱で描いている。広く言うのであれば、この土井の世代の教師の姿を何としても残したいという意思を感じた。


 父親と自分の世界をこれでもかと耽美的に描いた小説といえば、森茉莉の「甘い蜜の部屋」である。三島由紀夫をして脱帽させた作品である。

 森茉莉は鴎外の娘であるから、この小説のモデルは鴎外と茉莉だが、小説自体が茉莉の壮大な妄想と言って良い。

 私がこの小説を上げた理由は、文章でしか描けない、あるいは言葉でしかイメージできない世界を描いている所である。

 三島由紀夫の小説は映像化可能だが(できないものもある)、この小説は無理である。目に見える現実世界を超越しているからである。映像ではこの精神は描けないし、描いたとしても挫折感しか得られないだろう。


 歴史ものは色々な作家が描いているが、戦国物で忘れられないのが坂口安吾の「二流の人」である。

 黒田如水を描いた作品だが、良い意味で見てきたように嘘を言うような文章に笑ってしまい、どうなっていくのかわかっているのに楽しい。如水を手に入れて安吾がそれを自由に動かしているようですらある。

 いい講談を聴かされて、つい興奮してしまったような読後感がある。


 兄弟を描いた作品で印象的だったのは、幸田文の小説「おとうと」である。

 幸田文は以前、ブログで書いたことがあるが、小説として出来は良くてもその視点は鼻持ちならないプライドが見えるところが多々ある。特に庶民に対する底意地の悪さは筋金入り。

 しかし、この「おとうと」と父の露伴を書いたものだけはそういう根性の悪さがないので、逆に泣かされる。そういう狡い小説である。

 個人的には、幸田文は、まずこの「おとうと」を最初に読んでほしい気がする。


 ある特定の人物を書くというのは、作者にかなりの覚悟が無くては難しい。架空の人物を描くのと違って、家族や知人の場合、そこにはかかわりがあるので、純粋な創作の人物ようにごまかしがきかない。

 また、作者の精神もそこに描かれてしまうもろ刃の剣でもある。

 その危険を冒してもなお、書かないではいられないために自然と他の作品とは違う気配を感じさせるのかもしれない。

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