第九章 怪しい小説
これはどうしたものかと思う小説がある。
著名な作家なのになぜか冷遇されている作品であるとか、もともと奇妙な小説を書いているが、コンセプトがほかの作品とは違っているとか、優れた作品なのになぜか埋もれて忘れ去られているとか。
そうした小説は個人的には好きだが、勧める場合は人を選ぶ。
ある種の小説は変態じみているし、ある種の小説はタブーに触れている。が、それらはある意味、人の暗部を解放する。
最近は特に自分に甘く人に厳しいモラリストもどきが多い。
これからとり上げる小説が、そういう連中に見つからないことを祈るしかない。
江戸川乱歩は道徳など考えて書いたことがないというようなことを言っている。そうしたものを顧みなければ小説が書けないとしたら、小説の面白さの大半は失われるだろう。
乱歩がその小説において実験に似た行為を行っている小説に「芋虫」がある。当時発禁になった小説である。
怪奇小説のアンソロジーでよく選ばれる作品だが、怪奇であることだけではなく、つぶさに読むと心理小説であり、読者を巻き込んで人間の心理を実験している小説である。
途中、作者である乱歩の介入があり、メタ化するところがある。
主人公の婦人が残酷な行為に至るのを読み手が放置せざるを得ない巧みな仕掛けによって、読後、読者に良心の呵責を起こさせる。
曰く、なぜ、読むのをやめなかったのだ、ということである。
なぜか大江健三郎の傑作なのに今はあまり語られることもない小説が「遅れてきた青年」である。
さすがに戦後なので禁書にはならなかったが、主人公の邪さは筋金入りで気持ち良いほどだが、小説の終りがパッとしないのは、大江がよく批判される逃げ腰のせいである。
「芽むしり仔撃ち」が当時の大江の表とすれば、これは裏の作品で両方でワンセットと個人的には思っているので、一読をお勧めする。気うつな時には一服の清涼剤になる。
綺麗ごとなどくそくらえという作品である。
先日、発掘したまさに奇妙な小説がある。読んだのはおそらく二十代の頃だったが当時も読む人はそう多くはなかっただろう。
森内俊雄の「翔ぶ影」である。1972年の作品である。
これは説明に苦しむ作品だが、ある女との関係とその結果としての逃亡が物語の筋でそれはそれで面白いのだが、それはあくまで額縁であり、メインの絵は主人公の男の心象である。
主人公の男と破滅的なその精神と現実を舞台に暗い幻想を見せる小説である。
派手なシーンは何もないにも関わらず、この小説が光るのは専ら作者が構築した主人公のカリスマ性によるものだろう。終盤の主人公のありようはカミュの異邦人の最後にも似た感情を呼び起こす。
ほかにも色々とあるのだが、キリがなくなるので思いつくままのここで終わりにする。
第一、小説は皆、どこかおかしい人が書いていると思った方がいい。もしもまともなら、こんなアモラルな行為は誰もやらないだろう。
悪く言えば筆先三寸で人の懐を探り、よく言えば現実という野蛮な世界からの逃亡を手助けしているのが、いい小説家なのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます