第二章 古い小説

 私の読んだ小説の大半はもう古い小説になっているが、小説は古くなっても特に困ることはない。

 ただ、読者は減るだろう。

 著名な作家の作品でも、古くても読まれるものはあるが、読まれなくなるものも少なからずあるはずである。

 それでもまだ、書店で文庫などで売られていればいいが、それも無くなる厳しい。


 ネットに情報はあるが、ネットの情報は大半が広告であるから、金にならない情報は積極的には目に触れない。

 結局のところ、そこで古い小説を発掘する第一歩は、閉ざされることになる。

 古い小説にも面白いものはあるのだが、その面白さが理解できるかできないかは読む人の知識や感覚にもよる。

 そういう意味では万人向きではないが、いくつか私の心に刻まれた古い小説を上げていこうと思う。


 まず、1890年代に書かれた作品の広津柳浪の「今戸心中」、泉鏡花の「湯島詣」である。

 いずれも心中ものだが、読後の印象はだいぶ違い「今戸」は悲惨、「湯島」は悲劇である。

 しかし、いずれも現代では再現不可能な世界を描いている。

 個人的にこれらの小説にはある種の野蛮さを感じるが、それと同時に鋭利な刃で深く刻まれた精緻な文様を見るようでもある。

 読後に趣というような言葉では済まない鋭利な痛みを残す作品で、いずれも忘れることができない。


 これより約十年後に書かれた岡本綺堂の「番町皿屋敷」も印象に残る作品だった。

 怪談で有名だった話を、旗本とそれに使える侍女の悲恋の物語として描く作品で戯曲もある。戯曲の方がすっきりとした終わり方だが、小説版も読む者の心に無情の楔を打ち込む作品である。

 初めて読んだ時には話の展開の見事さに、これはいったいどういうことだ、と眩暈がするほどだった。

 クライマックスのシーンがありありと目に浮かんで焼き付き、思い出せば脳裏に鮮やかによみがえる、そんな感じである。

 一言で表すと悲惨な熱情に満ちた物語を描いた小説である。


 ちょうど百年前に書かれた近松秋江の「黒髪」などもそうした忘れえぬ作品だが、これは読み進めると読んでいる方が、ただただ恥ずかしくなっていくという作品である。

 体験したものでないとわからない喪失感の苦痛と、無駄なあがきの惨めさをひたすらに描く。

 しかも最後に作品の大半を費やして苦しんだことの原因が原因ですらなかったかもしれないという事実を知る不条理さ。

 何も得られず、何もわからないという最後には言葉を失うしかない。

 ちなみに青空文庫では「黒髪」「狂乱」「霜凍る宵」の三つに分かれているが、私の読んだものはこれを合わせた「黒髪」だった。


 思いつくままに古い小説を上げてみたが、いずれも百年以上前の作品であることを考えると意外な気がする。

 そんな昔の小説なのかという感じである。

 特に最後の「黒髪」にその感じは強い。

 それはおそらく「黒髪」の作品における視点が自分である所にあるのかもしれない。自分が体験して自分が思ったことを書くという形式がわかりやすく、現代との時間的な距離を感じさせないのかもしれない。

 

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