小説類考
一ノ瀬 薫
第1章 序に代えて~小説を読むことについて
少年時代には時間は有り余るほどあるが、遊ぶ金がないので、物語や小説でも読むしかなかった。
だから、特に努めて読書に励んだというわけではない。
思春期に入ったころには、家に親が若いころに買ったと思しき日本文学全集があったので、それを拾い読みしていた。
作家の前知識など当時は調べる方法はなかったので、全集に入っているくらいだから、それなりに評価はされているのだろう、というくらいのものである。
同時代の評判の小説を読むようになるのは、自分で稼ぐようになってからだから、だいぶ後のことである。
なので、面白いかかどうかもわからずに読んでいた。
小説というのは、話(ストーリー)があるのでいくらでも読める。
今の人はどうかわからないが、面白さが前提で読むということはなかった、どちらかといえば好奇心で、何が書かれているのだろうという気持ちが主だった。
作品のヒントといえば、タイトルくらいである(笑)。
好奇心から入っているので、とりあえず最後まで読む。でないと、全貌が明らかにならないからだ。
そんな感じで最後まで読んでよかったと思った作品はある。
田山花袋の「田舎教師」はそんな作品だった。
しかし、最後まで読んでも何もいい思いをしない小説もある。
正宗白鳥の作品にはそういう感じの作品が結構ある。ある意味特殊で、作品の評価は高いが読まれないという不思議な作家である。
ネガティブの極みのような内容だが、評価が高いのは読んで頷ける。しかし誰かに読めとは言わないだろう。
それでも気になった人は「青空文庫」にあるので「入り江のほとり」や「仮面」などを読んでみるといいかもしれない。
以前、大江健三郎がノーベル賞をとった時に、ある出版社の企画で大江作品を読んだことのない人向けに作品を紹介する本を出すことになり、座談会とライターをやったことがある。
メインの編集が友人で、若い人たちに好きな作品をやってもらい、我々はそれにこぼれた作品と作品に関わるコラムを担当しようということで、それまで読んでいなかった大江作品を読んだが、それはいい経験だった。
ほかにも堅めの商業誌に指定された本を読んであれこれ書く仕事をしたが、これも事前情報は無く、読んで書くというものなので、書く段階でいくつかの切り口を考える頭ができた。一つでは没になることもあるので、作品については複数の頭で読む行為が必要だった。
いずれの本も読者がわからない以上、そういった読み方は必要で、例えるなら作品をある種の生き物として見て観察し、洞察する感じである。
今は小説でも漫画でも映画でも事前の情報を得ることが可能であるし、面白さを予測するには便利だが、そうした情報が得られない時代のものを読むのもいいし、意図的に目隠しをして読むのも読書の方法としてはありだと思う。
小説は、最も読んだのは中学高校の多感な好奇心旺盛は時で、おそらく今でも実家にあるが、先に書いた全集以外には、古本屋に出かけては安いものを適当に選んで読んでいた。
作品の年代は戦前から戦後の1970年代頃までが多かったと思う(安かったのでその辺になる)が多分数にすると千前後の作品は読んだと思うが、その大半は今では読む人も少ない作品の方が多くなってしまった気がする。
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