神の裁量

長井景維子

一話完結

「今夜、カレーにするね。」

午前中の仕事が終わる頃、妻の真由子から短いLINEが入った。昼休みになり、既読にすると、夫の翔平はランチのメニューは親子丼にしようかと、店を探し始めた。初夏のオフィス街は日差しが眩しくて、100メートルも歩くと、じんわりと額が汗ばんだ。いつもの手打ち蕎麦屋を覗くと、二、三の空席があった。ここに決めて、背広を脱ぐと、椅子の背もたれに背広を掛け、椅子に座った。メニューを見ているうちに、親子丼よりも天ざるが食べたくなった。女将さんが冷たい麦茶を持って現れたところへ「天ざる」と頼み、女将さんが渡してくれた湯気が立つ熱いおしぼりを右手に広げ、左手でメガネを外すと、目の周りから頬、額にかけてを拭いた。


読み回しの今日の朝刊を棚から取ると、今朝家で読みそびれた社会面に目を通す。翔平は新聞を読みながら、明日のことを考えた。明日は会社の人間ドッグで、1日病院だ。朝ごはんを抜いて行くのだった。そのことを真由子に知らせようと、LINEで打った。

「明日、人間ドッグで市民病院。朝ごはん抜くから。病院まで車で送ってくれると助かる。」

メッセージはすぐに既読になった。

「了解!」

弾むようにすぐに返事が来た。


二人は去年の春に結婚して、一年数ヶ月が経った。大学時代のサークル友達が、翔平に彼女がいないのを気遣って紹介してくれたのが、真由子だった。翔平はIT関連の仕事をしていて、出会いに恵まれなかったが、その友達は小学校で教師をしていて、隣のクラスの担任が翔平にお似合いに違いないと言って、ある日、飲み会をセットしてくれた。そこで初めて会った時のお互いの印象は芳しいものではなかった。翔平はいきなり真由子の隣に座って、ビールを真由子のスカートにこぼしてしまった。真由子は一張羅のスカートを汚されて、もろに顔に出して怒っていたし、翔平は平謝りに謝って、新しいスカートを買う羽目になった。


飲み会もそこそこに切り上げて、二人はデパートの婦人服売り場へゆくと、真由子は、紺のプリーツスカートを一枚選び、翔平はクレジットカードで支払った。支払いをしているときに、店員が真由子に「奥様。」と一言言った。真由子も三十路を過ぎて、そう呼ばれても不思議はなかった。

「着て帰ります。」

と真由子はプリーツスカートを試着室で着ると、翔平は、黙って汚れたスカートを包んでもらって受け取り、真由子に包みを渡しながらもう一度謝ると、真由子はもう機嫌を直していて、

「なんか、笑っちゃいますね。私、酔ったみたい。楽しいわ。」

と、弾けるように笑い出した。

「お礼に私も何かプレゼントします。紳士服売り場に行きましょう。」

「え?」

「いいじゃないですか。私たち、縁があるのかも。」

と言いながら、楽しそうに笑った。


紳士服売り場で、真由子は翔平に靴下を二足プレゼントした。二人はその後、お茶をして、連絡先を交換した。お酒抜きで、真面目に誠実に話す機会が持てたことで、真由子に対する翔平の印象はぐっと良くなった。二人はこの後、何度もデートを繰り返し、半年経った四月に結婚した。


天ざるが運ばれて来た。新聞の読みがらをまとめて棚に戻すと、翔平は空腹を満たすために、蕎麦をつゆに浸して啜り始めた。天ぷらを食べながら、蕎麦を啜る。それを繰り返し、ざるの蕎麦を全て平らげ、天ぷらも食べ終わると、女将さんが置いて行った蕎麦湯を蕎麦猪口に注ぎ、程よい濃さに薄めて飲み干した。蕎麦湯の中で薬味のワサビと刻んだネギが程よく熱せられて、風味よく口の中に広がっているうちに、爪楊枝を使った。

「お勘定。」

「はーい。」

千二百円を払うと、暖簾を上げ、すっかり登りきった太陽に目を細めた。


家に帰ると、真由子はキッチンからニコニコして出迎えた。上着を脱いでカバンとともに渡すと、それを受け取って、なおもニコニコしている。カレーのいい香りが立ち込めている。

「なんかご機嫌だね。」

「今日、婦人科行ってきた。」

「え?まさか。」

「そのまさかよ。8週目に入ったところだって。」


「嘘だろ。」

「なんで?嘘言うわけないじゃない。本当だよ。」

「本当?」

翔平はまっすぐに真由子の目を見て、

「なんでこんな普通の日に言うの?なんかお祝いしなきゃ。」

と言った。真由子は、

「お祝いなんていらないよ。二人が元気でいればそれでいい。妊娠なんて、普通のことだもの。これからが大変だよ。」

「そうだけどさ。」


「お腹減ったでしょ。食べよう。」

「明日、よろしくな。10時に予約だから、病院。」

「わかった。」


真由子は極めて現実派で、理想を追い求めることはほとんどしない。いつも、やらなければいけないことをきちんとやり、多くを夢見ず、現実に即して考える。一方、翔平はそんな真由子が少し不憫だった。もう少し贅沢をしてくれてもいいのに、甘えてくれてもいいのに、真由子は甘えも贅沢も言わず、ひたすら真面目に自分のすべきことをしている。しかし、翔平は結局、いつも真由子に合わせることにしている。そしてそうして正解だったと大概のケースで思うのだった。真由子は贅沢をしない代わりに、現実に即して何事にも慎重に対処するので、失敗は本当に少ないのだった。そんな真由子には、まさに家事全般や人間関係も何から何まで任せて安心していられた。自分の親とも、いつの間にか実の親子以上に信用され、頼られるようになっている真由子に感心する。小学校の教師という結婚する前の職業柄かもしれなかった。


結婚して小学校の教師は辞めることにした。炊事や家事を満足にこなす以上、小学校の教諭は主婦がながらでできる職業ではない、と思ったのだった。多くの先輩が子供を育てながら教師をしていたが、一方で仕事の能率が落ちるという悩みもそんな先輩本人から聞いてきていた。私は不器用だから、両立はやめておこう、どっちもどっちで両方失敗してしまいかねないと思った。スーパーの青果売り場で、製品の出し入れのパートを週に三日間、マイペースでできる分量の仕事として選んでいた。


「今日のカレーどう?ルーをいつもと変えてみたんだけど。」

「うん。この方が美味しいかも。それより、予定日はいつなの?」

「うん。1月30日。来年のお正月はもうこんなお腹よ。」

「そうだね。今年の夏休み、海外行こうと思ってたけど、やめとくか?」

「夏ならいいよ。でも海外はちょっとハードル高いから、近場にしない?」

「そうだな。近場で温泉でもいいかな。」

「うんうん。」


「明日、朝ごはん抜きでしょう。お腹空くから、今夜たっぷり食べといてね。」

「ああ、お昼はなんか病院のレストランで食べるよ。」

「そうして。」


「さてと、洗い物。」

「いいよ、やってやる。」

「え?じゃ、甘えよー。笑。コーヒー淹れとくよ。」

「靴とか、かかとの低いの買ったか?気をつけてな。」

「うん。明日、病院に送った帰りに、イオンでも寄ってみる。」

「スニーカーのいいの買っといた方がいいよ。」

「そだねー。」


あくる日は、真由子は自分だけバナナと牛乳の朝ごはんを済ませた。翔平は、

「真由子、朝ごはん、これだけじゃダメだよ。」

「うん、大丈夫。後でゆっくりブランチするよ。」

「ちゃんと栄養摂ってな。」

「わかった。」


車で翔平を病院に送っていくと、そのままイオンモールへ急いだ。駐車場に車を停めて、フードコートで栄養を考えて、五目あんかけ焼きそばを食べた。その後、ナイキのスニーカーを二足買うと、そのうちの一足を履いて、ケーキ屋でケーキを五個買った。実家に行こうと思った。車に戻ると、実家の母に電話した。

「お母さん。今からちょっと行くよ。ちょっと話したいことできたの。お茶しよう。ケーキ持ってく。」

「あら、珍しいわね。わかった。待ってるね。お父さんもいるよ。」

「よかった。それじゃ、20分後にね。」

電話を切ると、車をスタートさせた。実家は家から車で十分ぐらいのところにある。イオンモールはちょうど真由子も父や母も買い物に使うので、時々ばったり会うこともある。母が好きなケーキ屋なので、真由子は今日はお土産に持ってゆくことにした。赤ちゃんができたことを話そうと思っている。


実家の両親は嬉しいニュースに驚き、心から喜んだ。そして、スーパーでのパートを辞めるようにアドバイスされた。真由子は母のいう通りにしようと思い、パートは今月いっぱいで辞めることにした。


そして、何日かが過ぎた。真由子は妊娠について不勉強だったので、専門書を買って読み始めた。栄養とか、生活の心構えとか、色々知っておくべきことは多かった。


二週間が経った。翔平は会社で部長に呼び出された。部長は、

「白石君、今日、昼飯、付き合ってくれ。」

「はい。」


昼休みになり、翔平は安藤部長のデスクへ向かった。

「あ、行こうか。釜飯でいいか。」

「はい。」


釜飯屋へ着くと、二人は山菜釜飯を頼み、炊けるまでの間、話す時間ができた。

「部長、なんでしょうか。」

「うん。君、体、きついことないか。」

「いえ、元気ですが。」

「そうか。まだ、私も医者から昨日聞いたばかりだが、君、人間ドッグで一箇所、気になるところがあるらしい。」

「はあ。」

「市民病院に行っただろ。そこのドクターから電話がかかってきたんだ。君よりも私に先にかかってくるのは変だと思ったが。精密検査が必要らしい。CTスキャンで気になる所見があったらしいよ。明日、市民病院行って検査受けて来てくれ。」

安藤部長は人間ドッグの検査結果の書類で封を閉じたものを渡してくれた。翔平は怪訝な顔で封筒を受け取ると、部長の前で、

「失礼します。開けます。」

と言って、封筒を開けた。血液検査は白血球が少し高い。その他、肺のエックス線写真は異常なし。胃カメラの写真も入っている。医者に会わなければわからない。

「すみません。明日、行って来ます。妻にちょっと電話して良いですか?」

「どうぞ、どうぞ。」

翔平は席を立つと、店から出て、店の前で電話した。真由子の元気そうな声を聞き、ちょっと言いにくそうに部長の話を伝えると、真由子は、

「きっと大丈夫だよ、祈っててあげる。明日行くのね。わかった。今夜、消化の良いものにしとくね。」


夕食の鴨鍋を突きながら、翔平は不安をぬぐい切れなかった。真由子はつとめて明るく明るく振舞っていた。デザートにコーヒーゼリーを作っていた。

「ゼリー、食べよう。ねえ、翔平。」

「うん。明日の予約、しなくて良かったっけ。」

「行った順だよ。待ってれば検査してもらえるよ。部長が言ってたんでしょ、明日って。」「ああ。まあ、明日行ってみるよ。」

「元気出してね。タバコもやめたし、お酒もちょいちょいだし。大丈夫だよ。」

「真由子も一緒に来てよ。明日。」

「うん、わかった。いいよ。私も行くわ。」

二人は静かにコーヒーゼリーを食べた。


病院の待合室で待っていると、名前を呼ばれ、診察室に入った。翔平が先に入り、真由子を医師に紹介した。二人が並んで椅子に座り、医師は、落ち着いた声で話し始めた。

「CTに影が映っています。この白いところです。まだはっきりとはわかりませんので、MRIを撮影させてください。この後、検査室へ行ってください。撮影後、木曜日にまた、ここへ来てください。」


MRIを撮影して、二人は昼ごはんをレストランで食べた。

「検査の結果次第では、癌ってこともあるのかな。」

「うん。あるかもしれないけど、一緒に治そう。今は色々薬も手術もあるんだろうから。」「真由子、映画観に行こうか。ちょっと笑いたい。」

「うん。なんかコメディーやってる?」

「リメンバー・ミー観ようか。」

「久しぶりだね、映画。嬉しいな。」


映画を観ている間、二人は検査のことを忘れて夢中になっていた。同時に終わると、思い出した。真由子は、

「面白かったね。子供向きだったけど、笑えた。死後の国なんて笑えちゃうんだね。」

「実際はどうかな、笑えないよ。」

「夕飯、食べて帰ろうか。」

「そうするか。何食べたい?」

「お好み焼き。」

「え?」

「なんか、食べたい。大阪グルメ。デートしてた頃、よく行ったじゃない。」

「いいよ、そうしよう。」


翔平はお好み焼きを食べながら、生ビールを少し飲んだが、いつもより酔った。真由子は運転をするのは慣れているので、全然構わないのだが、酔いやすくなっている翔平が可哀想になった。気持ちが折れそうなのだろう。こんな時、お腹に赤ちゃんがいなければ、今夜、この人をほっとかないんだけど。私の包容力で、包み込んであげたい。真由子は泣いてはいけないと思いながら、翔平の目を見ると、目頭が熱くなった。


木曜日、内科の如月ドクターの予約は、11時だった。翔平は午前中会社を休んで、真由子と二人で市民病院の待合室にいた。名前を呼ばれて、診察室に入った。

「お待たせしました。結果がわかりました。膵臓に悪性とみられる腫瘍があります。膵臓癌のステージスリーとフォーの間くらいだと思われます。ご家族は、お子さんはお小さいのですか?」

「待ってください。膵臓癌ですって。」

「はい、間違いありません。」

「子供が、生まれるんです。来年の1月に。あの、手術したら治るんですか?」

如月医師は、MRIの画像を指差しながら、落ち着いた声でハッキリとこう言った。

「残念ながら、手術はできない癌です。抗がん剤を上手く使えれば、後から切れるかもしれませんが。今のところ言えるのは、一年後の生存率は50%ぐらいです。かなり進行が速い癌なので、今日から抗がん剤を試されたほうが良いと思います。」

「先生、仕事は今まで通り出来るんでしょうか?」

「今のところは通勤が苦でなければ、出来るでしょう。会社の方には、私のほうから安藤様という方に少しだけお話ししてあります。個人情報ですが、この場合、安藤様には守秘義務を守って頂く約束をしてあります。」

医師は、安藤部長のサインのある書面を一枚見せた。

「抗がん剤は一番新しいものを試します。夜寝る前に一錠飲んでください。お酒をひかえることをお忘れなく。副作用は大分減ってきています。吐き気などは、あまりでないんですよ。」

真由子はたまらなくなって医師に尋ねた。

「抗がん剤が効いて、手術が出来るようになれば、完治することもあるんですよね。」

「はい。しかし、その可能性は高くはありません。覚悟はしておいてください。」

待合室の椅子にへたり込むように座ると、真由子は真っ赤な目をハンカチで拭いた。

「翔平一人で苦しませたりしないから。翔平が死ぬときは私も一緒にいくから。」

「馬鹿なこと言うなよ。まだ死なないよ。セカンドオピニオンっていうのもあるんだからね。とにかく、なんか食べて、俺会社行かなきゃ。真由子、大丈夫か?一人で帰れる?そうか、午後休むか。部長に電話する。」


「大変だ。そうか。辛くなったらなんでも遠慮せずに言ってくれ。奥さんと一緒にいてあげなさい。今日は休んでいいよ。」


休んでいいよ。


仕事は出来る方だと自負している。あの安藤部長には信任も厚い。その安藤部長から、かくもたやすく、休んでいいよ、と言われるとは。俺、病気のせいでこれから干されるな。


「翔平!」

勘のいい真由子が横から声をかけた。

「なんか悪いこと考えちゃうね。お互い。今日はお菓子でもバリバリ食べながら、リビングでゴロゴロしようか。そういうのも楽しいよ。主婦する?笑。」


薬局で抗がん剤を受け取ると、車で家に帰った。昼は宅配ピザを食べた。


翔平はプロジェクトチームから外された。安藤部長が、

「白石君、病気を治すことにしばらくは専念してくれ。病気が治ったら、いつでもまた、君にしかできない仕事を頼むよ。そういう意味だよ。」

と言ったが、翔平は悔しかった。


真由子は料理をしながら、涙が出て止まらない。この赤ちゃん、産んでいいんだろうか。私、どうすればいいの?


真由子はインターネットでネットサーフィンしていたら、お寺で座禅を組めるところが鎌倉にあることがわかった。一人で行ってみようと思った。カジュアルな服装をして、スニーカーを履き、リュックを背負って、北鎌倉まで電車に乗った。円覚寺に着いた。お寺の境内を歩き、座禅ができると書いてあるところで、七百円を払うと、中へ案内された。スニーカーを脱いで、中へ入り、説明を受けてから、座禅を組んだ。


途中、雑念が入り、子供のことを考えて涙が出てくると、背中をパシッと叩かれる。いけないと思い、大丈夫だと自分に言い聞かせ、また、精神統一するとお坊さんは遠くへ歩いてゆく。子供はお腹の中で日々大きくなってゆく。私を頼ってくれているんだ。私が弱気になってどうする。翔平にもしものことがあったらどうする?そこで、また、背中を叩かれた。

無になるって難しい。自分が無になると、子供の気持ちになれる気がした。何も知らないで私だけを頼って生まれて来ようとしている小さな命。この命を私は途中で見捨てようとしていたんだ。また、自責の念で涙が溢れて来た。今度はお坊さんは背中を叩かず、黙って通り過ぎた。産まなきゃ。この子に会いたい。元気に産んで、翔平にも見せなきゃ。翔平が安心して、病気と闘えるように、そして、翔平の形見になったとしても、この子が自分に与えてくれるものは無限にある。私は、私がこの子に与えるために出来ることをしよう。お坊さんは、黙って後ろを通り過ぎた。そして、座禅の三十分間で、この子を産もうと言う決心が固まった。


真由子はこの決心を揺らぎないものとするために、実家の両親に話した。寺で、座禅を組んでいたら、ネガティブなことを考えた時、背中を叩かれてわかった。この子を産もうと。翔平は病気と戦い、私はこの子を立派に育てる。


お腹はだんだん目立って来た。夏休みになり、翔平は仕事は少しセーブしながら続けて来たが、夫婦水入らずで旅行するのは多分最後になるので、出雲大社と玉造温泉を訪ねることにした。行きは飛行機で出雲縁結び空港まで飛び、そこからバスを乗り継いで、出雲大社に着いた。二人の縁に感謝し、翔平の病気治癒と真由子の安産を祈った。ゆっくりと参拝して、バスで出雲市駅に戻り、そこから山陰本線で玉造へ。旅館に着くと、ゆっくりと風呂に入った。いいお湯だった。まるで、一滴一滴が化粧水のようだった。


帰りは寝台特急サンライズ出雲で東京まで。個室の寝台車がふた部屋取れて、ゆっくりと眠りながら帰途についた。


翔平は時々、胃の不調や食欲不振を訴えるようになった。心なしか、体重も減った。如月ドクターに通院し、抗がん剤を服薬し続けた。病巣は変わりなかった。違う抗がん剤を試そうか、と言う話もあった。しかし、もう少し今の薬を続けたい、という翔平の希望で、今の薬を続けている。


癌は大きくなっていないので、まあ、良しとしようと思っていた。真由子も最近ではすっかり強くなり、楽観的に捉えている。子供がお腹の中で大きくなって来ていることが、真由子には嬉しかった。絶対元気な赤ちゃんを産むんだ。早く会いたい。早く翔平に見せたい。


旅行から帰って、秋も深まってくると、翔平は人恋しくなった。酒も飲めず、仕事も体力的に辛くなって来ていた。痛みが少し出ることもある。このまま死に向かっていくだけなのか。真由子が羨ましく感じることもあった。自分が亡き後、一人シングルマザーとなって子育てと仕事を両立しなければならない真由子は可哀想なのだが、彼女には無限に命がある。それが羨ましくて、そんな自分が嫌になった。酒が無性に飲みたくなって、朝から強い酒を真由子に隠れて飲んだりした。


翔平は今年いっぱいで仕事を辞めることにした。生活は今までの貯蓄を切り崩してなんとかすると真由子は言う。心配しなくても、貴方は今までよく稼いでくれたし、あんまり贅沢もしないで切り詰めて来たから、十分に蓄えはあると。そして、子供が生まれて数ヶ月したら、今度は真由子が小学校の教師を始める予定だ。子供は実家の両親に預けて働こうと思っている。


そして、クリスマスを祝い、大晦日がやって来て、新しい年を迎えた。


翔平は確かにやつれた。頬の肉がそげ落ちてしまった。髪も抜け落ち、家の中で帽子を被って過ごした。一生懸命に食欲を振り絞っていた。正月は真由子の実家にお世話になった。真由子は今年もおせち料理を作ると言っていたが、お腹が大きくて体が思うように動かず、実家の母に作ってもらった。もう予定日まで一ヶ月を切った。病院の手配も済ませて、ベビー服なども用意した。男の子が生まれる予定だった。


一月の二十四日に真由子は産気づいた。二人とも実家にお世話になっていたので、父が運転する車で病院に向かった。そして入院し、分娩室に入って、あくる日の25日に無事、元気な男の子が生まれた。


翔平は赤ちゃんを見ると、顔をくちゃくちゃにして泣き笑いの顔になった。嬉しくて仕方がなかった。この子が生きてくれることで、自分が生きた証が残る。真由子、ありがとう。

真由子も元気で、赤ちゃんを胸の上に乗せてもらうと、翔平と一緒に泣き笑いの顔になった。この子と一緒に生きてゆこう。翔平に元気な子を見せられてよかった。


名前は康太とつけた。健康の康に太い。元気に育って欲しいという思いで名付けた。康太がすくすくと育ってゆくのを見るのは、二人にとって嬉しかった。首が座った、寝返りができた、はいはいした、と言う段階を見守ると、つい欲が出て、歩くところが見たい、幼稚園に行くところまで見たい、ランドセルを背負わせたい、キャッチボールをしてやりたい、と望みが出てくる。


如月医師に康太を見せた。手術ができないか、と聞いてみた。しかし、ドクターは手術をしても延命には繋がらないだろうと悲観的だった。もう、腸の一部や肝臓などにも転移が見つかっていた。もはや、死は迫っているのだった。辛かった。


黄疸が出始めた。何度か入退院を繰り返した。しかし、なるべく家で家族と過ごしたいと希望を言った。医師は理解してくれた。


真由子は教員の口を見つけ、四月から働くことにした。実家の両親が毎朝、車で来てくれて、孫を一日責任を持ってみてくれた。真由子は夕方帰って来ると、夕飯を四人分作って、両親と翔平と一緒に食べ、両親は車で帰る。翔平は部屋にこもってパソコンに向かっていることが多かった。自分にできる仕事を探そうとしていたが、エンジニアの資格を生かしてする仕事も、こんな体では自信がなかった。


一日中、ベッドに横になっていることも多くなって来ていた。康太はすくすくと育ち、その可愛らしい姿を見ると、慰められた。10月ごろになると、伝い歩きを始めた。目が離せなくなって来た。真由子の母が必死にあとを追いかけて、面倒をみている。元気な康太に比べて、翔平は体重も落ちて、だんだん食べられなくなって来た。痛みも激しくなった。

如月ドクターの診察で、ドクターは、

「そろそろ入院しましょう。痛みを止めるには入院が良いでしょう。」

と言った。翔平と真由子は来るべき時が来た、と覚悟を決めた。真由子は康太が生まれてから、翔平が康太を抱いている写真をたくさん撮った。康太が大きくなったら、見せてやりたいと思った。


翔平が入院して三週間が経った。痛みは完全に抑制されているが、癌は身体中に転移していた。真由子は毎日、仕事が終わると、康太を連れて見舞いにやって来た。康太はようやく一人で立って二、三歩歩けるようになっていた。翔平はもう抱けない我が子を愛おしそうに見つめると、涙を流した。

「真由子、俺はもうダメだ。もう長くない。真由子はいい人がいたら、その人と一緒になってまた幸せになってくれ。」

「嫌だ。嫌だ。そんなこと言っちゃ嫌だー。」


その日の夜更け、翔平は息を引き取った。真由子は翔平の両親を呼んだが、間に合わなかった。真由子は一人、ぼーっとしていたかった。遺体はすぐに片付けられてしまった。真由子は康太がいなかったら、あとを追っていたかもしれなかった。康太が泣き出した。真由子は我にかえって、康太を抱きしめた。


「一緒に生きていこうね。康太。パパは頑張ったんだよ。それを大きくなったらママが教えてあげる。」


翔平はまるで眠っているような穏やかな顔をしていた。ただ、頬はこけ、目は落ち窪み、その辛かった闘病生活を物語っていた。しかし、何も知らない康太は、あー、あー、と翔平に話しかけ、顔を触ろうとした。それが周りの大人たちの涙を誘った。


「私は、この子を立派に育て上げます。今日、この日、翔平に誓います。」


真由子は葬儀の挨拶で、言葉少なに一言だけ、はっきりとこう言うと、康太を抱きしめた。神がいるのなら、文句を言ってやりたいと思う真由子だったが、また同時に、翔平を奪った代わりに康太を自分に与えてくれた神に感謝していた。神の思し召しだと、心静かに受け止め、康太と二人、一生懸命に生きてゆこうと心に決めた。そんな二人を翔平の魂は見ているかのように、その顔は穏やかだった。

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神の裁量 長井景維子 @sikibu60

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