母親がチンアナゴになりました
落水 彩
第1話 どうしてこうなった!
チンアナゴ【珍穴子/×狆穴子】
読み方 ちんあなご
アナゴ科チンアナゴ亜科の海水魚。全長約36センチ。体は細長く、灰白色で黒色斑がある。珊瑚礁(さんごしょう)域の砂底にすみ、体前半部を砂から出して海中に漂うプランクトンを補食する。日本では伊豆半島や琉球列島などに分布。
—小学館 デジタル大辞泉より引用
〜 〜 〜
朝、だんだんと鮮明になる電子音が、起きろと催促する。見ていた夢も忘れてしまうような大音量。そうしなければ起きられない自分が悪いのだが、朝はいつも憂鬱だ。
寝返りを打って、現実から目を逸らすように布団を被る、が、それでも、耳に入るアラーム音は消えなかった。
寝起き特有のうなり声をあげながら、布団の中から手を伸ばしてアラームのスイッチを押した。静かになった自室で、もう一眠りしようと、
「ちょっと、いつまで寝てんの。早く降りといで!」
——ああもう、うるさいなぁ。
ボタンひとつでけたたましいアラーム音は消せても、下の階から聞こえてくる母親の声はそう簡単には消せない。
これも母親の怒声が聞こえる前に起きれば済む話なのだが、一分一秒でも長く布団にいたい。もう朝なんて来なくていいよ。
しかし、ずっとうだうだしているわけにもいかない。なぜなら学校があるから。別に、特別学校が好きというわけではないが、行かない理由もない。学校へ行くための準備は面倒くさいが、行ったら行ったで楽しい。二年生になって、友達もそれなりにいるし。
幸せの温もりに満たされた布団の中で、俺はにょーん、と伸びをすると芋虫のようにモゾモゾと飛び出した。
「寒ぃ。」
もう五月になるが、外は寒かった。いや、幸せいっぱいのお布団に比べて、の話なのだが。眠い目を擦って、ペタペタと裸足でフローリングの上を歩く。スリッパは……どっか行った。
あくびをしながら、シワ一つないワイシャツに腕を通し、ハンガーにかかっている紺色のスラックスを履く。
さらに、スラックスより一段と深い紺色のブレザーを手に持ったまま、俺は階下に降りた。
「はぁ。」
リビングの扉を開けるのが億劫だった。鬼の形相をした母親がいるのはいつものことだ。遅れても知らないからね、もう勝手にしなさい、今日は送らないわよ。今日はなんて言われるかな。送らないに一票。
でも、そんなことを言われても、最終的に文句を言いながら助けてくれる。俺の母親は優しかった。だってやっと生まれた一人っ子だから。欲を言えば可愛い妹の一人でも欲しかったが、愛情を独り占めできるのは悪いことじゃなかった。流石にスキンシップはしないが、母親とは仲が良いと思っている。買い物にはいつでも付き合うし、荷物だって持つ。決して親孝行をしていないわけではない。
他人から見たら、これは立派な「マザコン」なのだろう。高校生にもなって母親から親離れできていないなんてバレたら、しかもそれがクラスの女子だったら、嘲笑の対象になることは目に見えていた。
もう高校生だから、これだけ親を宛にしてるのも、そろそろ卒業しなければならない。わかってはいるのだが、もう少しだけ甘えさせてくれ。
そんなことを考えながらリビングの扉を開けると、
「おはよう。起きた?」
「は?」
自分でも驚くほどの間抜けな声。一瞬で目が覚めた。
「え、は? 夢? 何?」
白く寸胴なフォルム、身体中には黒色の斑点模様、ギョロリとした少し愛嬌のあるまん丸な目をしたイキモノがリビングの椅子に腰掛けている。
その姿には見覚えがあった。SNSで可愛いとバズっていたイキモノ。イルカ並みに人気を集め、今では水族館の顔に匹敵するイキモノ。
そう、目の前にいたのは——人の大きさくらいのチンアナゴだった。
反射で自分の顔をつねるが、しっかり痛かった。
俺はチンアナゴから目を離さないまま近づくと、
「どうしたの? ミナト。」
名前を呼ばれた。よく聞き覚えのある声で。
「……母、さん?」
そんなはずないだろう。いやだって俺の母さんはいつも一つ括りで、全身ユニ◯ロで揃えた洋服を着ていて、怒ると怖くて、それでも優しい——人間の女性だ。
そんなことは頭でわかっているのに、そのチンアナゴの表情は、機嫌が良いときの母そっくりだった。あと声。生まれて十六年間聞き続けてきたその声を、俺が聞き間違えるはずはなかった。
「なんかミナト、変よ。」
「いや、母さん? こそ、なんでその姿、え、チンアナゴ?」
チンアナゴのほっぺたであろう部分をちょんと突くとちょっとぬるっとしていた。魚のような表皮に驚いて、思わず指を引っ込めた。
その様子を見ながら、チンアナゴはニコニコと微笑んでいる。
「そうよ。今日からお母さんチンアナゴだから。ほら、手、ないから。全部自分でやりなさいよ。」
「待って今日からチンアナゴって何?」
母さんは一番気になる問いには答えず、じっと微笑んでいる。他にも聞きたいことは山ほどあったが、口をついて出たのが、
「え、朝ご飯は⁇」
「ありません。」
「送り迎えは……?」
「できません。」
血の気が引くとはこういうことだろうか。不安でだんだん心臓の音が速くなった。
ハッとして時計を見ると八時を過ぎている。流石にこの時間に家を出ても、ホームルームには間に合わない。これが俺が高校生になって初めての遅刻だった。
母親がチンアナゴになりました 落水 彩 @matsuyoi14
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