第21話 まだ見ぬ強敵パートのワクワク感は異常

 月の輝きが失われた宵闇の晩、男は路地裏を息を切らしなが走っていた。

 荒い呼吸はただ走っているだけでは無い。不規則かつ過呼吸気味なその息遣いは、まるで何かに脅えている様だった。


「はっ、はっ、はっ、な、なんで俺なんだ!俺はお前に何かしたかよっ!!」


 男は吸い込まれそうな背後の闇に、必死に言葉を投げかける。

 返事は無い。だが、返答の代わりに足音がカツカツと音を立て迫ってくる。

 どれだけ、路地を曲がろうと一定の間隔で聞こえてくる足音は、まさに死神の囁き。

 そして更なる絶望が遂に男の脚を止めた。辿り着いた底は袋小路。飛び越えることは困難を極めるそり立つ壁が彼をの行く末を阻んだのだ。


「なんで……なんで俺を狙うんだ…!」


 力なくへたり込む男の背後には、既に足音の主が立っていた。

 その主は全身を黒いコートで包んでおり、ガスマスクを被っていた。闇夜も相まってその全貌を捉えることは難しい。

 唯一分かることは、ガスマスクの奥にある2つの目が爛々と紅い光を放っていることだけだった。

 

「……その質問はナンセンスだ」

「……へ?」


 ガスマスクで籠った声が、初めて男の言葉に耳を貸した。

 

「別に誰でも良いのだよ。そう、誰でも。この町で私が起こす事象の引き金になれば誰でも構わなかった。理由をつけるなら……そうだな。て《・》君が俺にとって都合が良かっただけのことに過ぎない。納得してくれたかな?」


 男はガスマスクの言っていることが何一つ分からなかった。

 否、言葉は確かに認識できた。だがしかし、意味を理解することを脳が全力で拒んだ。

 まるで子供にいたずらに踏み潰される蟻の如く心境を、人である自分がどう理解しようというのだ。


「誰か……誰かァ!助けてくれぇ!!」


 男の魂の懇願は無情にも闇の奥深くへ吸い込まれていく。

 ガスマスクは泣き喚く男の首筋に手を掛けた。


「嫌だ……死にたくない、止めてくれ……頼む……!」

「安心しろ。俺は殺しはしない。俺はな」


 ガスマスクは腕を伸ばし、男の首を掴む。喉元をしっかりと掴む手は酷く爛れており、その醜悪さは生理的嫌悪感を催す程だ。

 驚くべきことに、男の掴まれた喉もその手同様に、赤く染まり醜く爛れていく。

 口元から漏れる息は掠れ始め、隙間風の様に細いものになっていった。


「あがっ……ぎっ……!!」

「苦しみは程なくして無くなる。光栄に思うがいい。俺の実験対象になるのだから」


 喉から始まった爛れは、男の全身をじわりじわりと蝕んでいく。それはたった数十秒の間に輪郭を大きく変え、顔の原型を留められなくなっていった。

 ぐずり、ぐずりと腐敗が進行する様に、皮膚が剥がれ落ちる。

 腐敗の進行は顔だけに収まらず、足、腕、腰と言った具合にぼとぼとと身体は崩れ落ち、最後には頭部さえただの肉塊となる。


「長時間触れると病魔の進行も早まるか。それも昔とは比べ物にならない速度……。だが感染源自体が消失してしまうため、その分感染力は下がると。病の媒介生物として扱うには、生かさず殺さずの匙加減が必要か。ふむ、次に活かす良い反省点だ」


 ガスマスクは手帳につらつらと検証結果を書き出す。辺りは静寂を取り戻し、ペンを走らせる音だけが響いた。

 しばらくするとガスマスクは納得したのか、手帳をパタンと閉じた。それと同時に雲にか隠れた月が顔を出す。

 男はくぐもった息を1度吐いた後、ガスマスクを外す。

 月に照らされたその顔は、右半分に大きな火傷跡が広がっており、瞼を失った瞳がギョロリと蠢いていた。


「良い夜だ。やはり天は俺を祝福している。ずっと見ていたいところだが、如何せんドライアイだ。瞼の無い俺にあの輝きは眩しすぎる」


 クツクツと笑い声を上げ、再びガスマスクを装着する。コートを翻し、ガスマスクは闇夜に消える。痕跡である肉塊は既に地面のシミへと変貌していた。

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