幽霊不在の原理

固ゆでたま子

第一話 幽霊はいない

 幽霊、という単語を耳にする。すると何故か、遠い子供時代の、祖母の家の縁側を思い出す。あるいは、初めて父に買ってもらったバスケットのボールを思い出す。小学生の頃、誕生日プレゼントをめぐって兄とした喧嘩や、居酒屋に集った大人たちの酒臭さい息に差した嫌気も思い出す。

 幽霊、という単語は私の中に、“どこか可笑おかしみを伴った思い出”としての地位のみを占める。

 年を、なりたくもない大人へと私は変貌を遂げた。それにつれ、人生のあれやこれやに「解決済」のレッテルを貼ってきた。それは楷書で丁寧に書いたレッテルのときもある。その辺の鉛筆で、急いで殴り書きしたレッテルのときもあるし、貼ろうとして半分破れてしまったものもある。いずれにしても、どのように解決するかという、そもそもの問題は、小さじ半杯の砂糖がコップの水に溶けるようにして不可視になった。代わりに、レッテルを貼るという作業そのものが――農家にとっての稲作のように――習慣、すなわち人生となった。



 その居酒屋は、とある田舎の県道沿いにあった。町の中に数軒ある居酒屋の内の一つ。町の中心地へと伸びる枝道と、その県道とでなされた丁字路の一角を占める。 

「ほら、あそこの居酒屋を左折すれば公園があって……」と人が言う。すると、「それはから見て左折か? 山奥側から見て左折か?」と人が問い返す。 そういう場所にあるそういう居酒屋。


 山内公一こういちが3杯目のビールを流し込みながら言った。「例えばだ。この世に“1”や“2”は存在しない。そうだろう? あるのはただ概念だろう?」

 

 私はやや重みを感じるスコッチのグラスを傾けた。「そうね」


「それでも、数学は個々人の能力を――ある種の知的能力を――測る手段として、広く用いられている」


「ええ」


「それと同じでよ。 『この世に幽霊はいるか?』っていう問いも、広く用いられていいんじゃないかと思うんだ」


 私は山内がその主張に辿り着くまでに、1つ、2つとしたグラスを思い出しながら、話の流れを確認した。「つまりその人間の性格を測る手段として――ってことよね」


 山内は得意になりそうなのを隠して「その通り」と頷く。隠せていないが。

 

「じゃあ、私にしてみて。私の性格を測るために」


 居酒屋の大将が微笑んだ。客同士の奇妙な会話への耐性を物語る、あの微笑み。

 3杯目のビールをぐっとやって、山内は言った。「じゃあ訊くが。 お前、幽霊はこの世にいると思うか?」


「いない」


「それはどうして?」


 私は首を横に振った。「どうして? という問いはこの場合、相応しくないと考えるわ。 例えばこの世には、ルフィもドラえもんもいない。 でも誰も、どうしてルフィやドラえもんがこの世にいないのかを問うことはしない。 それは何故かしら」


 山内は満足そうな表情を浮かべた。ある種の方程式の解を見つけたように。しかしその満足の大きさは、全ての解を見つけた、という風でなく、数ある解の中の、ありふれた1つが提示されたに過ぎない、という感じだった。 「お前が言いたいのはこういうことか? ルフィやドラえもんも、数学の1や2と同じ。 無いことを前提に、人間生活の必要に迫られて生み出された概念に過ぎない。 と、こういうことか?」


 私は、山内の真剣さが妙に面白かった。ウイスキーを転がす舌が、しぜんと踊った。「ふふ、それでもいいけど……ごめんなさい。ちょっと話を大きくし過ぎたわね。 要は幽霊なんていないと考えた方が上手くいくじゃない」



 その後数ヵ月が過ぎ、季節は秋になった。山の葉の色が移ろいゆく間も、山内との居酒屋での会話はときどき思い出した。我ながら悪くない解答をしたと思うし、当然あの答えで、間違っているということは無い。

 人間、誰だって記憶は美化されていく。ひょっとしたらそれは、1年に1パーセントの割合なのかもしれない。テストで100点を取った記憶は――次の年1パーセント美化され――、101点取った記憶に変わるのだ。

 これはさすがに無理があるか。しかし、こと・・が私自身の幽霊に対するスタンスに――言い換えれば、自分で貼ったレッテルの話に――なれば、美化の傾向は強くなる。

 誰でも自分が正しいと思いたいし、一部の者は、信念と呼ばれるレベルにまでその思い込みを強くするだろう。そしてその中の1人が信念を“思想”にまで高めると、周囲が彼を英雄と称えはじめる。ある日、隣国に同じような英雄が現れて、思想はぶつかり、そうして戦争は始まるのだ。全く持って、めでたしめでたし。

 私は戦争は嫌いだけど、自分の言い放った「幽霊なんていないと考えた方が上手くいく」という思想は気に入りはじめていた。きっと山内も、多少は気に入ったことだろう。秋の風が紅葉を揺らし、澄んだ空気が世界に満ちた。人生とはかくの如きものなのかもしれない、と私は思った。


 週末になったので、実家に寄った。

 私は言った。「めずらしいこともあるものね。事務の大木さんから、『まとめて有休をとってくれないか』って」

 母は返した。「有休もスーパーの惣菜も、まとめて買った方が得よ」 その様子は、数学教師の田島が出来の悪い飯岡に一番簡単な解法を教えた、高校時代のあのときと同じように見えた。

 スマホがの着信音がポケット越しに鳴った。画面は会社からの着信であることを告げていた。そして、通夜のような雰囲気の部長が言い放つには、総務部の山内公一が死んだとのことだった。


 さて、なるほど。山内公一が死んだ。そういえば山内は高校時代、1番の優等生で、そのくせおバカキャラで、私は彼のことが1番好きだったっけ。

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幽霊不在の原理 固ゆでたま子 @KatayudeTamako

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