ここから見える景色
葭生
車窓の緑
私は午前十時に乗る電車が好きだ。都会ではないので、人は少ないがいないわけではない。霞がかかった意識を引きずる寝ぼけ眼で、遠くへ行ってしまう住宅やビルをぼんやりと眺めながら、とりとめのない思いつきを頭の中で巡らす。ただ、今日は体調が良く、やけに冴えていたから、代わりに何か主題のある考察をしようと思った。どうせ目的地のない外出なので、次の駅で降りてしまっても良かったが、やはり体を動かす気にはならなかった。
主題…………差し当たって、なぜ私がこんな趣味をもったのか、でいいだろう。まあ、簡単に言ってしまえば心地いいからだが、もう少し掘り下げることにする。そもそも、初めてこれを体験したのは高校二年の六月だ。当時の私は、交通事故で入院したクラスメイトの代理として文化祭のクラスリーダーを任されていた。
その入院したクラスメイトというのが、狂気を感じるほど文化祭に注力しており、クラスの出し物の内容や準備、練習の予定を殆どワンマンで決定、進行していたので、その情熱も丸々引き継ぐ形となった。リーダーが決まった後、その子、兼岡さんというのだが、彼女から電子ファイルで送られてきた予定を見たときは、そのあまりの密度と熱量は、まるで分厚い紙束でも手渡されたような感覚で、想像以上の責任に目眩がしそうだった。
それでも私が立候補したのは、彼女には小さくない貸しがあったからだ。知り合いのいない学校に入学した私に、初めて話しかけてくれたクラスメイトは、他でもない彼女だった。そこからよく私を遊びに誘ってくれたり、同じ係や掃除当番を選んでくれたりもした。
彼女は友達という言葉を上手に使う。決して軽薄に言うのではない。彼女が大切にしている言葉なのだろうと思わせつつ、伝えたい思いがあるときには迷わず言える。その意味をむやみに考えてしまって口に出せない私より、ずっと誠実な言葉への態度だと思う。
けれど、彼女と私は“個人空間”を一切共有できなかった。ここでの“個人空間”は、物理的、精神的を問わないこれ以上他人に踏み入れてほしくない領域のことを意味するのだが、彼女は私よりずっとその領域が開放されていて、また他人もそうだろうと思い込むので、随分と距離が近い。私のしてほしくないこと、例えば私のメッセージのやり取りを覗くことも多かった。そんなことが積み重なり、私は徐々に距離を取ろうと、会話をそっけなくするなど、控えめながら意思を伝えようとしたが、彼女が特に変わることはないまま時間が過ぎていった。はっきりと注意する勇気が私にはなかったのだ。
そして二年生になり、いっそクラスも離れたなら、都合が良いとも思ったが、クラスも同じまま。クラス発表の時、彼女の笑顔から向けられた笑顔に、私はそっぽを向いてしまったのはよく覚えている。今振り返ると、代理に立候補した理由には、彼女に対する態度を確定するというのもあったのかもしれない。
話がそれてしまった。まあ兎に角そんなこともあって、文化祭クラスリーダーとなった私だったが、出し物である演劇の準備は、予想通り、いや予想以上に困難ばかりだった。元来、私は祭などの行事に積極的に関わる性質ではない。程々に貢献して、その分だけ程々に楽しむことができればそれで良かった。そんな人間が仕切るのだから、素人が指揮台に立つオーケストラのように全くまとまらない。それでも私なりに努力して、「これも経験だ」、「全力でやればそれだけ楽しめる」などと自身に言い聞かせて奮い立たせていたが、終わった後にあるのは、達成感よりも安心感だと気づいていたのであまり効果がなかった。つまり私の能力では、難航するクラス演劇という船を、なんとか難破させないようにするのが関の山だったのだ。
そして本番が一週間前となった日曜日、私は軽いノイローゼに
電車は私が何もしなくても新しい景色を見せてくれる。その景色が美しいかはどうでもいい。目まぐるしく変化する視界が頭を満たして、私が深く暗い思考の淵に落ちてゆくのを遮ってくれる環境が心地いいのだ。このとき、私にとっての電車は、どこかに連れて行ってくれるものではなく、私の体を運んでくれるものになった。
その日、着いた先にあった百貨店をひたすら歩いて何も買わずに家に帰った。もう夜になっていたので、さっさと寝てしまったと思う。結局、文化祭は無事に終えることができて、なんと優秀賞まで受け取った。私は初め、日曜日のことを責められると思っていたが、クラスメイトは労る言葉をくれたくれただけだった。結果を兼岡さんに伝えるとたいそう喜び、電話で何度も「ありがとう。ほんとにありがとう」と今にも泣きそうな声で言ってくれて。一度拒絶しようとした相手に、本当にふてぶてしいことだと思うが、嬉しい気持ちになってしまった。
彼女が退院した後、私は前と変わらず、時に疎ましく思いながら一緒に居続けた。
遂に私は、彼女への態度をどうすべきかという問いを保留したのだ。
私の思い出話は一旦ここで切り上げよう。思うに、私が電車に乗るのを好む理由にはもう一つあって、それは誰もが私に”無関心”であることだ。
殆どの場合、電車に乗るからには行く先があり、よって電車というのはプライベートな場所でもなく、仕事先でもない。そうなると人は自分の個人空間を守り、誰の個人空間も侵さないために“無関心”を示してくれる。この“無関心”は“無視”とは違う。例えば電車の中で大きな声で電話をする人。これは周囲に人間がいるということを軽んじ、自分のプライベートを他人に押し付けている立派な“無視”だ。“無関心”は他人を認識する。その上で「自分はあなたに関心がなく、邪魔をしません」という意志を、目を合わせないことや直接の接触を避けるなどの微妙な行動で表すのだ。
その“無関心”によって保たれている電車という場所は、短く言うと性にあっていた
話を兼岡さんに戻す。彼女は確かに人の空間に平気で入り込む子だった。けれど同時に聡い子でもあったから、私のこの面倒な性格に共感はしてくれないにしろ 、理解はしてくれたはずだ。それでも言わず、保留したというのも、結果的には私の決断ということになる。言うことも、拒絶することもできたのだから、不満があるのなら、それは私の責任なのだ。
高校を卒業した後でも、不味いインスタントコーヒーを飲んだように、嫌な苦みや酸味が心に残ったような感覚がある。これを後悔と呼ぶのなら、私は生涯味わい続けるのだろう。時間が解決してくれると言うが、どうもそんな気は微塵もしない。こんなことを何度も繰り返しそのすべてを背負わざるを得なくなる、実感に近い予感がするのだ。
人はやがて老い、腰を曲げて歩くようになり、果ては寝たきりになる。それが私には、背負い込むものばかり増えていって体が保たなくなっているようにしか思えない。
せっかく電車がいつものように流れ行く景色を見せてくれているのに、なんてつまらないことを考えているのか。この話を心の奥深くにしまっておこうと思う。家と電線と緑の山、それだけで十分なのだ。
「ご乗車ありがとうございました。次は終点の松井山手、松井山手です。お出口は左側です」
車内アナウンスが聞こえる。もう降りなければならないらしい。今日も私は当て所なく彷徨って、疲れるまでぼんやりとするのだろう。今のところ、それで仕方ないと思う。
ここから見える景色 葭生 @geregere0809
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