なまむぎなまごめなまフレア
ナ月
第1話
男は逃げていた。玉のような汗を弾きながら、息も絶え絶え、足を水面に浮かぶアヒルのように忙しなく動かしている。
男は逃げていた。社会的な重圧から、あるいは罪を犯したことによる責任から、または自分自身から。そうして逃げて逃げて、逃げ続けていた。
見渡す限り灰色のコンクリートの上を男は走る。所狭しと並んでいる高層ビルは男を覗き込むように聳え立ち、その上では宝石箱をひっくり返したかのような星空の銀河が広がっていた。
ここは常夜の夢の世界。現実の裏側にあり、法や規則が存在しない、無法地帯。
月は左右に存在し、二筋の流れ星がきらりと光る。
「逃げるなよ」
格好になど頓着していられないほど必死に逃げる男の背中へ、少年はそう告げた。
男は少年の言葉など当然おかまいなしに、腕も足もバラバラと振って夜の街を駆ける。
少年は音の流れていない白いヘッドフォンを被りながら、後を追う。
「ひぃ、はぁ、ぜぇ、はぁ、ふぅ」
「逃げるなよ。追いかけなきゃいけないじゃないか」
少年の格好は灰色のワイシャツに黒いカーゴパンツ、登山用品を出している会社の作った分厚いブーツは、けして走りやすいわけじゃない。
一方で男は、味気ない黒と白の縞々模様の服に青いジーンズにスニーカーを履いている。それに、顔には”ペルソナ”がない。年若い容姿端麗な面持ちだった。
男はビルの中に駆け込んだ。
追い詰められるとどこかに閉じこもろうとするのは人間の習性だろうか。天災からは逃げられるかもしれないが、人間からは逃げられない。
男はゆるゆると開く自動ドアをしがみつくようにしてこじ開けながら、階段へ直行した。息も絶え絶えながら、自分の人差し指に指を添えると、指が淡く黄色く光り、自然と、男の口からスペルが唱えられる。
『めら、めらと燃え広がる
触れることのなかった温もりに触れた
あれは誰だ、どこの誰だ
すべてを捨てて燃やして見せよう
浸食する赤い毒は空へ舞い
深い悲しみは絶望を生む
焼けよ』
【フレム】!
途端に、轟と火の手が上がり、階段が火の海に包まれる。
めらめらと燃え上がる火の渦を見て、男はほっと笑みを浮かべ、冷静になったのか、近くにあったエレベーターに気づいて乗り込む。
最上階のボタンを連打し、興奮冷めやまぬ様子で、ぜぇはぁとエレベーター内の酸素を吸い尽くす勢いで呼吸し、カタカタと足首を貧乏ゆすりしていた。
「ぜぇ、はぁ……はぁ、はぁ……んぐっ……はぁ、はっ……」
息を吸う、吐く、唾を飲む、また息を吸う、吐く。
飛び出そうな心臓を押さえつけながら、最上階を待っていたが、エレベーターは途中で止まった。
33F。
がたん、とエレベーターが傾くので、男は慌てて箱から飛び出す。
「やぁ」
そこには、先ほど振り切ったはずの少年が待っていた。
「なん、待っ、来るっな、あ、あぁぁあぁぁ!」
「往生際が悪い」
男は少年の脇をすり抜けて、オフィス内を疾走する。
直角に揃っていた机を蹴飛ばし、書類の束をバサバサと投げ捨て、ゴミ箱をひっくり返し、駆けて駆けて。
正面にあった窓ガラスを、腕を十字に組んで頭から突っ込んで、ブチ割る。
飛び散る透明な結晶は、星々の光りを跳ね返して眩く煌めく。
男は眼下の横断歩道に自由の道でも見出したのか、にやりと笑みを作った。
「逃がさんよ」
「えっ、なっ!?」
少年が男の後に続いて飛び降りていた。
まさかついてくるとは思わず、男は素っ頓狂な声を上げる。
「ブツは返してもらう。それに、少し怖い目にも会ってもらおう」
「物をっ、盗っちゃいけない法律なんて、この世界にはねぇだろうが!」
少年は構わず、呪文を詠唱する。
『空をも引き裂く稲光
億の紙をまとめて破く
大地を揺らす大轟音
それは森を焼き尽くす災害だ
人家を消し去る悪戯だ
それを誰の仕業とす
それを誰の所為とする
雲の上に隠ぬものよ
お前は何に憤る』
【射頭奈(イズナ)】。
少年は凄まじく速く、詠唱文を口にする。
男が息を呑む間もなく詠唱が完了し、魔法が完成する。
ゴロロ、と雷雲の中で響く地鳴りのような唸り声を上げながら、少年の手が光る。
どん、がらがっしゃんと、億万の和紙をまとめて破り捨てたかのような大轟音が鳴り響く。腹に激突した雷撃が全身を貫き、男は口から白い吐息を吐き出しながら落ちていく。
「な、んで……追ってくん、だよ」
「お前が店のスペルカードを盗むからだろ」
「な、んで……」
「確かにここ”夢の世界”にゃ法律も道徳もへったくれもありゃしない。だけどな、よく覚えておけよ、お前。この世界で死ねば、二度とこの世界に来られなくなる。この世界のことを夢だと忘れてしまう。それはもう、殺人も同じなんだ。お前、今までに何人殺した?」
「そ、んなの……」
「僕は、あの小さな村の中の平和を守るヒーローなんだ。それを乱すようなら、制裁を加える。当然な。これからお前に待っているのは、二度と味わいたくないほどの長い長い悪夢だ。覚悟しな」
その言葉を聞いて、男は、ああもう逃げられない、と悟って、ふっと意識を手放した。
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