81マスの宇宙で──札幌豊園高校将棋部活動記録──
白石 幸知
プロローグ 夏の終わりに
ピッ。ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ────
無機質な対局時計の電子音が、僕の右方向から聞こえてくる。まるで早くしなさい、時間がありませんよと急き立てる嫌な音だ。でも、実際その通りな訳で。
力ない手つきで、僕は手元にある駒を盤上に打ちつける。指し手に自信などあるはずもなく、ただただ無意味な延命治療をなしただけ。盤上中央、敵陣への脱出を試みた僕の王様とその配下たちは、しかし上下左右ものの見事に相手駒に挟撃され、逃げ場を失っていた。
僕の両隣に座っているふたりの女子生徒は万事休すと天を仰いたり、俯き目元を拭ったりと。
数瞬後、恐らく相手の確認作業が終わってから、僕の王様にとどめを刺す一手が放たれる。
ピッ。
文化系の部活と聞いて、みんなはまず初めに何を思い浮かべるだろう。
重厚な音色を奏で、様々な学校行事に顔を出し、場合によっては野球の応援などに華を添える吹奏楽部だろうか。それとも、一瞬のシャッターチャンスを切り取り、輝かしい姿や光景を残す写真部とか? はたまた、昼休みに「いい声」でラジオ的なことをしている放送部だったり?
とにかく、文化部らしく芸術に特化した何かを思い浮かべる人がほとんどじゃないかと思う。
まさか、文化部で「勝負」をつけるような、そんな部活があるとは思わないだろう。
勿論、吹奏楽とかのコンクールで金賞・銀賞・銅賞といった、いわゆる「完成度の高さを競う」大会が存在する文化部はいくつかあると思う。それこそ放送だったり、美術だったり。
ピッ。
だけど、そういった「第三者の審査」を必要とせずに勝負が決する文化部だって存在する訳で。
誰かに負けを決めてもらうのではなくて、自分で負けを認めないといけない競技だって存在する訳で。
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ────
「……負けました」
掠れそうな声で、僕はそう言いつつ、持ち駒の上に左手をかざして頭を下げた。次の瞬間、右隣に座っていた三年生の先輩が、何かを押し殺したような様子で、
「……大将が
淡々と、事実をつらつらと並べた。その後、向かい合っていた六人が一斉に頭を下げ、
「ありがとうございました」
と挨拶を交わし、向こう側の三人は笑顔と共に席を立った。
反対に、僕ら側の三人は、なかなか立ち上がることができなかった。
全国高等学校将棋選手権大会、通称
大将席に座っていたチーム唯一の三年生の部長、本間
「ありがとね。当日変更だったのに団体戦に出てくれて。おかげで最後の夏、ちゃんとできたよ」
「すっ、すみませっ……ん……。わ、私が……あっさり負けちゃって……皆さんにプレッシャーかけちゃって……」
「ううん、仕方ないよ。あれは相手が上手かっただけ。歩夢ちゃんはベストを尽くしたよ」
「でっ、でもっ、私のせいでっ、彩夏さん、これで引退にっ」
嗚咽が止まらない高井さんの両の頬を押さえて、彩夏さんが顔と顔を向かい合わせると、
「それは違う。団体戦は勝っても負けてもみんなの結果。ひとりの責任にはならないんだよ」
責任を感じポロポロと涙を膝上に落とし続ける後輩にそう励ましの言葉を掛ける。
「け、けどっ……」
「いいんだ。私が入部したときは部員ゼロの休部状態だったんだ。そこから、団体戦を組むところまで来られたんだから、私はもう満足だよ。お姉ちゃんみたいに、総文祭には出られなかったけど、それでも私は、楽しかった」
「うっ、うっ……私じゃなくて、米野さんがいたらっ……」
「こーら。たらればの話はしない。今日のチームは今日のチーム。ほら、そろそろお昼休憩だから、席動こ? 午後からだって将棋はできるんだから」
「……はっ、はい……」
まるで自分の引退みたいに涙を零し続ける高井さんと、そんな後輩を自分の感情そっちのけで励ます彩夏さんの様子を、僕はまるで他人事のように眺めていた。
将棋に負けたこと自体は悔しい。決して、絶対に勝てない相手ではなかった。それは別として、団体戦で負けてしまったことに関する感情というものが、僕には芽生えなかった。
だから、高井さんみたいに泣くこともしなければ、彩夏さんみたいに宥めることもしない。
冷めていると言われればそれまでかもしれない。けど、やっぱり僕は、何も心が動かなかった。
対局席から控室に移動する彩夏さんは、僕の肩も叩くと、
「麦田くんもありがとね。団体戦、参加するの渋ってたのに、強引に巻き込んで。男子個人に出てたら、もしかしたら全国行けてたかもしれないのに」
「……たらればの話はしないんじゃないんですか」
「そうだったね。じゃあ、今の話は忘れて」
小さく笑みを浮かべては、高井さんと一緒に対局会場を後にしていった。去り際、
「でも、できることなら、もう少し君たちと一緒に、真剣勝負の場で将棋をしたかったかな……」
ぼそっと本心を漏らしていたのを、僕は聞き逃さなかった。やっぱり、彩夏さんだって、悔しいものは悔しいんだ。じゃあ、きっと僕だけなんだ。チームとして負けてしまって、なんとも思っていないのは。だから、ひとり対局席に残る僕に、スタスタと近づいて来た相手の副将に、
「……今日、
「……久美なら、熱出して家で寝てるよ」
「それで数合わせで入ってた予備登録の一年生を出したのね。可哀そうね、実力も伴っていないのに、三年生の思い出に付き合わされて、挙句戦犯になって。あの子、メンタルもつかしら」
「……もたなかったら、そのときはそのときだよ。別に、団体戦だけが全てじゃないし、将棋だけが人生でもない」
「……はあ。今年こそは私たちを倒すって息巻いてたのに、そもそも勝負すらしないなんて、一体どういうつもりなのかしら。笑わせてくれるわね」
こんなことを言われても、反論する気力も湧かなかった。
「……それに。こんな性格の悪いことを言っても怒ることをしないあなたもね」
「……
「そう。正直、あなた抜きの豊園なんて、久美のワンマンチームでしかない。負ける絵が見えないわ。来年も勝つのは私たちみたいね」
「……はは、今年も勝つ前提ですか」
「当たり前よ。私たちが目指すのは、総文祭出場じゃない。四十年以上遠ざかっている北海道勢の優勝、それだけよ。こんなところで躓いている場合ではないの」
「……そりゃ、自信満々なことで羨ましい限りです」
彼女は、かけていた眼鏡を外しては、凛と澄んだ瞳を細め、
「……ほんと、張り合いのない男になったわね、麦田翔太」
「……期待するのは、もうやめたんだよ」
そんな遠ざかっていく彼女をぼんやりと見つめながら、誰にも聞こえない大きさの声で、僕は独り言ちていた。どこか欠落してしまった心の隙間を埋めるものを探しつつ、僕の二度目の北海道大会は、幕を下ろした。
団体戦に出るのはこれきりにしよう。こんな低体温な奴がチームにいても、迷惑なだけだ。
三人でチームを組む高校将棋の団体戦は、一敗の責任がとんでもなく重たい。もし、最初に終局した仲間が負けてしまえば、残されたふたりがどちらも勝たないといけなくなる。
そのプレッシャーは、あまりにも重たい。仲間を残して負けた棋士は、針の筵になりながら、藁にも縋る思いでふたりの勝利を祈らないといけない。
高井さんが謝っていたのは、つまりはそういうことだ。きっとこれから、彼女は彩夏さんの最後の夏を終わらせたことを背負い続けないといけないんだ。
そのプレッシャーに、僕はもう耐えられる気がしない。耐えられないってわかっているから、自分に期待するのを辞めた。そうすれば、仮に負けても、自分に致命傷は入らないから。
中学生のときに言われた「あの出来事」が、今も僕の指を、心を凍りつかせている。
夏の足音が近づいてきた現在でも、凍てついた指先は、溶けることをしなかった。
だから、もう団体戦に出るのは辞めよう。それが、十年以上つるんできた幼馴染との約束を破る決断になるとしても。僕の隣に、仲間なんて座っていなかったのだから。
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81マスの宇宙で──札幌豊園高校将棋部活動記録── 白石 幸知 @shiroishi_tomo
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