第4話 兎と狼の化かし合い


私は走った。それこそ部活のランニングよりも一生懸命走った。ここまで来たら真神君がこの後、何処へ行くのか確認しておきたいと思ったからだ。校外へ出られてしまったらもう探しようがないが彼が教室を退出してから数分しか経っていない今ならまだ追いつけるかもしれない。


教室を飛び出して二分後、ついに真神君の背中を視界に捉えることが出来た。彼が校舎の角を曲がってくるりと向きを変える寸前だった。あと数秒遅かったら私はそれを見落としたまま正門に向かって真っすぐ走り抜けてしまっていたところだったろう。

彼は正門ではなくずっと西側にある通用門に向かって歩いて行く。だが通用門は放課後は通常閉められているからそこから退門することは出来ない。一体どこへ行くつもりなのだろうか? 私は彼に気付かれぬよう速度を落として距離を取った。


やがて彼が立ち止まったのは通用門ではなく高さ二メートル以上はありそうな古風なレンガ造りの塀の前だった。竜胆学院は明治時代から続く歴史ある学校で校舎の所々にこういった古い建造物が残っている。特に西側のこの辺りは林立する樹齢百年以上という大きな樹木の葉陰のせいで鬱蒼うっそうとした雰囲気がある。そのせいか普段から人目の少ない場所だった。特に下校時間ともなると帰宅組は正門前に、部活組は各部室に、居残り組は教室に分かれて集中するのでここら辺に人が来ることはまずない。


私は二十メートル程離れた石碑の影から真神君を見ていた。彼は何かに集中する様に塀の上部をじっと見つめていた。まるで塀の向こう側にあるものを探ろうとしているかのように・・・・

塀の向こうは旧校舎の敷地であり今では資料館として使われている旧講堂がぽつんとあるだけだ。そんな場所に何の用があるのだろうか?


やがて彼は跪く様に地面に身を屈めた。すらりとした長身が押しつぶされたゴム毬の如くギュッと小さく縮こまった。次の瞬間、彼の身体は放たれた鞭のようにビュンと伸びると宙高く舞い上がり塀の上をするりと越えて向こう側に消えた。背負ったリュックの重さや厚みなど存在しないかのような信じ難いほど滑らかな跳躍であった。続いてトンという軽い着地音がした後は何も聞こえなくなった。


今から正門前を回って塀の向こう側に行ったところで意味はないだろう。助走もなしに高さ二メートルの塀を跳び越えるというおよそ人間業とは思えない動きを為し得る人間がその辺りにじっとしている筈はない。随分遅くなってしまった部活にも行かなきゃなんないし・・・

よし! 明日、彼のあの子供のように無邪気な寝顔をじっくりと堪能した後でみっちり話を聞かせて貰おうと思ったのが昨日の夕方だった。 




で現在香水スプレーオードトアレの件を朱里にたしなめられながら教室で真神君が登校してくるのを待っている状況というわけである。

そして・・ついに彼はやって来た。教室の後ろのドアがスゥ――ッと開きそのまま音もなく近づいて来た長身で細マッチョな男子が隣に座った。



「おはよう。白兎尾しらとびさん、小比鹿おびかさん。」 


「おはよう、真神君。」


「おはよう。今朝は遅かったんだね。」


「ああ、昨日は夜遅くまで色々やってたら寝るのが遅くなってさ。つい寝坊しちまったよ。」



ああ、そうなの。おかげで今日の癒しの時間がなくなってしまったのは残念だけどそれよりも確認しとかなきゃならない事があるから仕方ないよね。 

よし、それじゃ始めるか!



「へぇー そうなんだ。でも昨日は結構早く帰ってたよね? 教室出ていったの授業が終わってから10分ぐらいしか経ってなかったんじゃない?」



少しウェーブが掛かったゴワリとした前髪の裏側で真神君の眼が一瞬広がったような気がした。



「・・・・白兎尾しらとびさん。俺が帰った時の事、覚えてるの?」



おっと今一瞬、雰囲気が変わったよ。飼い主だと思って飛び付いていったら実は相手が違う人だと気付いた時の犬のような反応・・びっくりしてるな、これ。



「そりゃ覚えてるよ。昨日の事じゃない。教室出る時、吉田さん達に手を振ってたでしょ。真神君、モテるんだね、フフッ・・でもあの三人、その事覚えてないみたいな感じなんだ。ねぇ変だと思わない? 何かあったのかなぁ?」



わざとらしく煽ってみた。彼は椅子に座ろうともせず立ったまま私の顔を見ている。どうやら驚きが警戒に変わったみたいだ。じゃ、ここで止めの一撃!



「あの後、正門じゃなくて西の通用門の方に行かなかった? 遠くからだけどレンガの古壁の前に立っている真神君らしき人を見かけたんだけど・・」



一瞬彼の中にゴリッと音を立てて硬いものが満ちた気がした。それは思わず身を引きたくなるような怖い気配だった。



「白兎尾さんが見たのが俺だって言うのは間違いない?」


「ウーン、わかんない。遠くから見ただけだしこんなところに居るはずないかって思ってすぐ正門の方に行っちゃったし。」


「じゃ古レンガの塀の前に立っていた人がその後どうしたかって事は?」


「その後は見てないから誰だったのかそこで何をしていたのかも知らないわ。」



 私は嘘をついた。そうせざるを得ない不穏な雰囲気を感じたからだ。被捕食者が捕食者に対して感じる恐怖というのはこういうものなのかもしれない。まぁでも先程彼の身の裡に膨れ上がった硬く怖い何かは既に消え失せていた。

そして今、私と真神君は上と下から視線をぶつけ合った状態で対峙している。



「もうそろそろ先生が来る頃だよ。そしたらすぐホームルームがはじまるから真神君も椅子に座ったら。」



私達の間の異様な雰囲気に気付いた朱里がそう言って私をかばう様に前に出た。すると彼はハッとしたようにたじろいで慌てて椅子に座った。そして前を向いたまま独り言のように言った。



「それは俺じゃないよ。俺はあの後正門から出て駅前通りの方に行ったから・・・」



へぇー よくわかったわ。 あなたも私も大嘘つきだよ、真神君!





☆ ― ★ ― ☆ ― ★ ― ☆ 





ヤバいな。この女子、マジでヤバいぞ・・・白兎尾 真鈴しらとび まりん。確か剣道部だっけ。見た目は小動物系で可愛らしい席隣りの女子だ。


身長は150センチ前半、体つきは適度にスリム。ナッツ型のクリッとした眼にツンと尖った可愛い鼻、喋るとちょっぴり前歯が覗くプニッとした唇、長い黒髪を耳より高い位置で編みこんで左右に垂らしたツインテール(ラビットツインと言うらしい)が動くたびにポンポンと跳ねて揺れる。ウン、スッゴク俺好みなんだけど・・・・


彼女が俺のパッシブスキル(ゲーム風に言うと)である記憶阻害が効かない厄介な体質だったとは・・・・

普段は押さえているが必要な時俺はこの記憶阻害の力を最大限にして開放する。それは接触した相手が視覚や聴覚、臭覚等の五感より得た記憶情報に対し短時間の前向性健忘症を引き起こす能力スキルだった。と言っても阻害するのは俺と接触した時点から一定時間内の俺に関する記憶のみだ。俺に関係ない事や接触以前の事についての記憶は阻害されずそのまま残る。


俺のような亜人科 獣人属 狼人種と言った存在が人間社会に混じって生きていくには大変重宝する能力スキルだがごく稀にこの力にレジストする人間がいるらしいことは聞いていた。しかしそれが選りに選って俺の席隣りにいるとは思ってもみなかった。

ただ彼女の言葉を信用するなら古レンガの塀を跳び越えたあの人外な跳躍は見られていない事になる。だったら俺の正体が普通の人間じゃないという疑念は未だ持っていない筈だ。とは言えあんな退門の仕方はもうやめたほうがいいかもしれない。


あの古レンガの塀の向こう側にある旧校舎の敷地跡近くには寂れたような細い裏通りが通っている。その裏通りはJRや私鉄の線路下を潜って駅裏へと至る狭い徒歩専用トンネルに繋がっているのである。まぁ普通の学生は古くて狭くて治安の悪いあんなトンネルは通らないだろう。しかしそこを通れば正門前から駅前通りへと出てJR駅の中を抜ける正規ルートより遥かに速く駅裏に行けるのだ。だから俺は時々そのトンネルを利用している。昨日もそのトンネルを通ったばかりだ。


満月町三丁目。十三夜じゅうさんや通りと十六夜いざよい通りに挟まれた駅裏の歓楽街である。居酒屋、飲食店、スナックは勿論のこと、ちょっと横道に入れば怪しげなマッサージ店やサウナなどがひしめいている如何いかがわしくも賑やかな場所だ。

客の三割は大学生やサラリーマンの男達で残り七割はそれを目当てにやって来るOLや女子大生が殆どである。それが男性過少の今の世では当たり前の現象となってしまっている。


そんな場所に俺のような高校生がいたらいやでも目立ってしまうだろう。そのために三丁目を歩くときはいつも記憶阻害のスキルをアクティブモードからパッシブモードに切り替えることにしている。その効果によって俺に対する違和感は殆ど記憶として定着することなくスルーされてしまっているらしい。

とは言えスキルによる記憶阻害の効果が出て来るまでには二分から三分のタイムラグが存在するので余り油断は出来ない。一ヶ月前のあの時のように俺の存在を認識して声を掛けて来る女性もいるからだ。


俺の目的はこの満月町の何処かに存在するらしいあの店を探し当てること・・・そしてあの人の居る場所の情報をそこで手に入れて会いに行くことだ。だから狼人の持つ超感覚を最大限に駆使して毎放課後をその探索に費やしてきた。

しかし未だなんの手がかりも得られてはいない。月齢の満ちた期間を除けば流石に疲れを感じ始めていた俺は朝、教室に来ると机にもたれ掛かって寝ることがいつの間にか日課になっていた。そんなある朝、疲れでいつもより遅くなった俺に向かって白兎尾 真鈴が放った



  「でも昨日は結構早く帰ってたよね?」



という問い掛けは実体化していない筈の俺の背毛をギンッと立たせるようなものだった。そして更に



「レンガの古壁の前に立っている真神君らしき人を見かけたんだけど・・」



という言葉を聞いた時は思わず彼女の華奢ながら白くむっちりした首筋に牙を喰いこませそうになった。いや、これは飽くまで本能的な衝動を比喩的に表現しただけで本当にやろうとしたわけではない。ただ俺のその無意識的な威圧が伝わったのか彼女は少し蒼褪めた顔色になった。そして硬い表情で



「その後は見てないから誰だったのかそこで何をしていたのかも知らないわ。」



と言った。


それが嘘なのか本当なのかそこまでは分からない。いくら狼人としての強大な身体能力を持っていても人の心までは読めないからだ。俺はテレパシストじゃないからな。

でもそれが本当なんだったらさほど大きな問題はないと言える。今後、記憶阻害が効かない白兎尾の前では迂闊に真正の能力スキルを使えないというだけのことだ。


逆にそれが嘘であの跳躍の一部始終を見られていたのだとしたら・・・・それは

かなり不味い! あの時の俺の身のこなしを見て何の違和感も持たない奴はまずいないだろう。たとえオリンピックの金メダリストでも絶対不可能なレベルのハイジャンプだったと思う。単に運動能力が優れた人だ、ぐらいに思ってくれればいいんだがまあ多分無理だろうな。現に白兎尾 真鈴ばかりかその連れの小比鹿 朱里までが俺を警戒した目で睨んでいやがるし。

よし、お前らにこの真実だけははっきり言っておいてやる!



「それは俺じゃないよ。俺はあの後正門から出て駅前通りの方に行ったから・・・」



はい、すみません。真実どころか大嘘です。ちょっと言ってみたかっただけです。

でも仕方ないでしょ。



『実は俺、狼人なんです。五感も体力も人間の何十倍あります。』



なんて言えるわけないしな。


とにかく白兎尾 真鈴、取り敢えずお前の匂いは覚えたぞ。これからこの匂いがしたら気を引き締めて警戒モードに入ることにする! 狼人間の超感覚レーダーを張り巡らした制空圏を舐めるなよ!


とは言ってみたものの・・・席が隣なんだよなぁ。そんなことしたら俺、四六時中緊張状態だよ。数週間もしたら鬱病になって休学コースまっしぐらじゃねえのか?


ハァッ、どうすりゃいいんだ?  勘弁してくれよ・・・・・





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