1話 淀んだ空と銀世界
満たされない。
俺の今この現状を表現しようとしたとき思いついたのはその一言だった。可もなく不可もない人生を送っている。別に長時間の残業に追われているわけでもないし、趣味がないわけでもないいたって平凡な会社員だろう。でもそうじゃないだろうと俺の頭の中で何かが叫びだした。平凡な毎日を過ごしていく中で聞こえる叫びは日常に対しての違和感につながりそのノイズは次第に大きくなった。違和感について考えれば考えるほど思考はどんどん悪い方向へ進んでいった。自分なりにがんばったあれこれも周りと比較すれば結果が出たとはいいがたいし、公私ともに充実しているかと言われれば、同僚の話や先輩の話を聞く限りこれでいいのかと自分の中でやはり満足できない何かがあった。
ただこれは芸能人になりたいとか、スポーツ選手になりたいとか、幼いころに思い描いた将来の姿との相違というものとはまた違う。そんな理想と現実なんてとうの昔に気が付いている。でも大学生の時に思い描いた現実的な社会人像通りに生きていられているかというと、ほんの2年3年前の未来設計なのにいつの間にか大きく反れてしまったと感じる。ただ生きるために生きる。それだけの日々それが今の自分だ。
そんな毎日を過ごすうちに不安や失望そして虚無が自身の心身を蝕んでいくのを感じた。漠然と身体が重い。心が苦しい。息が詰まる。そして思うのだ。
「このまま生きていていいのだろうか」
と。
そんなことを思っていても、口にできたとしても社会は救ってくれない。社会のレールからはみ出したものから文化的な生活を脱落するのが今の資本主義だ。自身をすり減らして生きるしかない。
「誰か俺を認めてくれないかな。ありのままの自分を」
俺は務めている会社のある雑居ビルの屋上のベンチで一人虚しくうなだれていた。季節はすでに12月。空気は冷え、空は厚い灰色の雲に覆われていた。まるで自分の心を見ているかのような暗い世界が眼前に広がっていた。冷たい風が吹きつける。思わず俺は自動販売機で買ったホットコービーの缶を握りしめる。しかしいつのまにか外気にさらされた缶は冷めてぬるくなっており思ったより暖かくはない。缶コーヒーにすら愛想をつかされたのではないかと感じる。
虚無に抱かれ無心状態でいるうちにいつの間にか仕事の昼休憩が終わりに近づいていた。
「ああ、戻らなきゃ」
スマホに写る時刻を見て立ち上がった時だった。空からうっすらと光が舞うのを見た。
「雪が降ってきたよ!」
どこかで聞こえる女性社員の話声から光の正体を雪だと理解した。降り始めた雪は少しずつ粒を大きくし次第に量も増えていった。
道行く人たちは
「珍しいね」
「今年降り始めるの早くね?」
と空を見上げその珍しい光景に釘付けになる。
そんな中俺も例に漏れず空を見上げたが、降り始めた雪がどこか救いの光に見えてしまった。さっきまでの黒く淀んだ世界に純白の希望が差し込んだそんな気がした。
「行かなくちゃ」
俺はあの雪にここではないはるか先へ導かれた気がした。ふとよぎったのはあたり一面の白銀の世界だ。屋上を後にして駆け足でオフィスに戻る。そして自身の机で伸びをしていた部長のもとに駆け寄って
「部長、すみません。ちょっと所用ができてしまいまして。午後休をいただけないでしょうか」
全く考えていなかった午後の休暇を依頼する。
「どうしたんだ急に?すごい焦ってるというか切羽詰まっているようだけど。いや、加須くんはいつもちゃんと仕事してくれているし今日やらないといけないことも終わっているみたいだから休むことに関しては全然いいのだけど」
普段可もなく不可もなくそれなりに仕事をしているために得ることができた信頼故にだろうか。想像よりもあっさりと休暇は認められる。
「ありがとうございます」
許可を出してもらった感謝の言葉だけ告げると俺は急いで荷物を手に取りタイムカードを切る。そんな珍しい光景を見て
「加須さん。どうしたんですか!?」
昨年新卒で入社した俺と同じ部署の後輩の熊谷さんが心配するように声をかける。しかしその問いかけに対しはっきりと答える余裕は俺にはなかった。俺の頭にはよく分からない銀世界しか浮かんでいなかった。
「今朝からの仕事の続きをすれば大丈夫だから」とこの後の業務のことだけ伝えてオフィスを飛び出した。外に出ると雪はさっき屋上で見た時よりも美しく舞っていた。
「ああ、きれいだ」
俺はこの雪に誘われている。雪が俺を呼んでいる。運動不足な俺だが走らずにはいられなかった。息を切らしながら駅へたどり着くとモバイルICカードを改札にかざし電車に飛び乗った。あたたかな暖房のきいた電車に乗り込むと少しだけ頭は冷静になった。一体どうしてしまったのだろうか。雪に呼ばれる?なんだそれ。けれどもそんな問いの答えを考える余裕はまだ俺にはなかった。
平日の昼過ぎ。俺は地理には疎いながらもなんとなく北上できる電車に乗っている。普段乗ることのない時間帯だけに社内の様子は全く違っていて空席も目立つ。俺は適当に腰かけ車窓からの景色を眺める。そうして2時間くらいようやく終点の地方都市へたどり着く。しかしホームから見える線路はまだ北に延びており電車も乗客が来るのを待っている。
「行かなくちゃ」
相変わらず何かにとりつかれたかのように俺はその電車に飛び乗った。そうしてまた1時間くらい電車に乗っただろうか。先ほど乗り換えた電車もいつの間にか終着駅に近づいていた。北に進んでいるのだから当然かもしれないが雪は都内よりもずっと多く降っている。電車は大きくカーブをし、まもなく電車が終点にたどり着くとアナウンスが入る。どうやら終点は聞き覚えのある有名な温泉街らしい。たしかに窓から見える景色は旅館やホテルが多い。しかし何よりも窓から見える少し前に積もったであろう雪景色が俺を魅了させる。
「きれいだ」
そう見とれている間に終点にたどり着いた。十分雪は降っている。けれども身体と心はまだ進みたがっていた。それに頭によぎった銀世界はこんなものではなかった。これ以上がきっとあるはずだ。俺の目の前にはまだまだ先へ進むためのレールが続く。そんな事実が後押しし
「行かなくちゃ」
まだ見ぬ何かを求めて階段を上りそして線路を挟んで反対側のホームへ向かう。いつぶりだろうか。何かにこれほどまでに突き動かされるのは。衝動に駆られるまま前に進む感覚が俺の脳に刺激を与えている。
目の前にはどこに向かうのかも分からない電車が止まっている。きっとこれに乗ってしまえば今日帰ることはできないだろう。それでも構わなかった。まだ見ぬ未知の地へ進みたい。
陽は沈み夜に差し掛かる。その上、山間部に来たということもあり空気は大分冷えていた。息を吐くと真っ白な吐息が漏れる。待っていた電車を見ると都内ではなかなかお目にかかれない2両編成だ。このホームには俺以外に人はおらず、さらに電車の中で出発を待っている乗客も外から車内を見る限りどうやらいないようだ。冬の寒冷地ということで電車は入り口ドア横のボタンを押さないと開かないようだ。そんな仕組みを理解していなかった俺は開いていないドアを見て一瞬戸惑ったが、無事乗車することができた。車内は暖房で快適な温度になっている。俺は車内に入って開けっ放しのままにしてしまっていたドアを閉ボタンで閉める。
さて社内の様子だが、外から見ていた通り誰もいなかった。さらに車内は都内ではあまりお目にかかることのできないボックスシートが中心の作りだったので、人のいない車両を独占できる優越感を感じることができた。俺は手に持っていた荷物を自身の隣の椅子に置いて座る。とんでもないところまで来てしまったなと改めて思いつつ、この電車が進む先に何が待っているのかが気になり子供のように内心はしゃぎながら出発を待った。ちなみに先ほど乗っていた電車はちょうど折り返しの運転をしていたようで気が付いた時には出発を済ませていたので完全に退路は断たれた。外で舞っている雪を眺めているとまもなく出発するというアナウンスが流れる。いよいよだ。ブザーが鳴ると電車はゆっくりと進みだした。ガタン、ゴトンと重いずっしりとした音をたてながらスピードを上げていく。俺以外に誰もいない車両に響く電車の音はまるで貸し切りのライブハウスでアーティストが演奏しているのを独り占めしている感覚だ。そんな経験を実際にしたことはないのだが。そうして俺は未知なる地へと俺は不安など抱えずに進んでいった。
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