第15話 内緒でね

 穂綿さんは黄色いハンカチを目頭に当てながら、口元を緩ませた。


「ごめんねこんな話して。つまんないよね?」


「ううん、そんなことないよ。大事な話をしてくれてありがとう」


 俺なんかが聞いていい話だったんだろうかと思う。

 けど、お陰で穂綿さんが何を気にしているのかは、分かった気がした。


「そう言ってくれてありがとう。だからさ、似ているのよ、今の環境。まゆちゃんが流星のことを好きで、それなのに流星は私のことをって……」


 それに、穂綿さんだって、彼のことが好きで……

 似ているな、確かに。


「もう友達は無くしたくない。それに、もうあんなことは……」


 きっと中学時代のことは、穂綿さんの心に傷を残したままなんだろう。

 怖いんだろうな、またあんなことが起こるんじゃないかって……


「分かった。でも、穂綿さんの気持は、今のままでいいの? 彼のこと、好きなんじゃないの?」


「そうだね。でも、今は言いえない。もう少し、今の関係を続けたいんだ」


 そっか、誰もくっつかなっかたら、今のまま三人の関係、友達の関係は続けられるのかな。

 誰も傷つけず、傷つかないままで。


「でもさあ、そんなことがあった後だから、やっぱ気まずいじゃん? だから、桐谷君も付き合ってよ、日曜日」


 えっと……俺に何ができるのだろうかな?

 よく分からないけれど、今は少しでも、穂綿さんの力になれたらいいと思う。

 それに、なぜだか、俺の胸も痛くて、胃の辺りが重苦しいんだ。

 穂綿さんの大事な話を聞いてしまったからだろうか。

 だとすると、やっぱり何もせずにはいられない。


「分かった。そうするよ」


「嬉しい。ありがと、桐谷君! あ、そうだ。桐谷君って、下の名前は礼司君だっけ?」


「うん。そうだけど?」


「じゃあ、礼司って呼んでいい? 四人いるのに、桐谷君だけ上の名前って、なんか変じゃん?」


 ドキン! と心臓が飛び跳ねる。

 穂綿さんにいきなりそんな風に呼ばれるなんて、思ってもみなかった。

 それに、こんな感じに女の子から呼ばれるのは二人目で。

 最初の時の淡い思い出も頭をかすめた。


「う、うん。それでもいいよ」


「じゃあ礼司、私のことも呼んでみて」


「え、私のことって、穂綿さん?」


「もう。それじゃ全然よそよそしいじゃん!」


 上目使いで、少し拗ねたような表情の穂綿さん。

 ……滅茶苦茶、可愛い……緋色の瞳が、じっと俺のことをとらえて離さない。


「はい。じゃあもう一度」


 ぱあっと顔が熱くなって、心臓の動きがまた速くなる。


「あの……いいの……?」


「うん。はい、どうぞ!」


「な、菜摘……」


「なに、礼司?」


 嬉しそうに、真っすぐにほほ笑みを送ってくれる菜摘。

 アンティークな喫茶店の中で、マスター以外には二人きり。

 暮れなずむ夕日に窓から照らされて、ゆったりとした時間が流れる。


 そのマスターがふっとカウンターから姿を現して、コーヒーが入った新しいカップを二つ置いた。


「え? 頼んでいませんけど?」


「新しい豆が手に入ってね。コロンビアで品種改良がされた新種なんだ。良かったら味見してみて、サービスだから。お嬢さん、いつも来てくれてありがとう」


 オールバックに丸眼鏡が似合う年配のマスターが、口元に皺を寄せて破顔する。

 白いシャツに黒のズボン姿の、落ち着いた紳士だ。


「わあ、ありがとうマスター! 礼司、せっかくだから、もうちょっとゆっくりしない?」


「あ、うん。すいません、マスター」


「どうぞごゆっくり。あ、いらっしゃいませ!」


 新しいお客が入って来て、マスターはそっちの方に向かった。


「美味しい。ここってね、ケーキやスパゲティなんかも美味しいんだよ」


「けっこう来てるんだね、ほ……菜摘は」


 あまりコーヒーには詳しくはないけど、マスターが入れ直してくれた一杯はほろ苦くて、でもほんのりと甘みが口の中に残って、鼻にすっと抜けるこおばしい香りがした。


 マスターのご厚意もあってすっかりくつろいでしまって、気がづくととっぷりと日が暮れていた。


「じゃあマスター、ご馳走様でした!」


「ああ、ありがとう。気を付けて帰ってね」


 コーヒーの焙煎機の前に立つマスターが、穏やかな笑みで見送ってくれた。


「じゃあ帰ろっか?」


「うん、そうしょう」


「今日はありがとう。礼司ってさ、やっぱり優しいよね」


 暗くなった裏路地を駅に向かって歩きながら、菜摘が言う。


「そうかな? あんまり、そんなこと言われたことないけどな」


「だってさあ、花火の時だって、そんなに親しくなかった私のこと気遣ってくれたじゃん? それに今日だってさ。私あんなことしゃべったの、高校では礼司だけだよ」


「あ……そうなんだ」


「だからあれは、二人だけの秘密ね?」


「うん、分かった。誰にも言わないよ」


 きっと菜摘にとって、重たい心の傷、誰にも言える訳がない。

 でも、二人だけの秘密って言われて、彼女との距離が縮まった気がして、なんだか嬉しい。


「あ、今日は月がよく見えるね」


 見上げると、星がほとんど見えない夜空に、欠けた月が浮かんでいた。

 青く煌々と輝いていて、いつもよりも大きく見えるのは気のせいだろうか。


「そだね。いつもよりもよく見えて、綺麗だね。これで星も見えたら、もっと綺麗なんだろうな」


「だろうね。あんまりそんなの見たことないけどな。礼司は見たことあるの?」


 裏路地を抜けてメイン通りへと入ると明るくなって、急に人が多くなる。

 社会人や学生が、どこかへと急いでいたり、のんびりと時間を過ごしていたり。


「うん。俺は昔田舎に住んでてさ。その時は毎日のように星を見ていたよ。星って季節によって場所や形が変わるから、見ていて飽きなかったな」


 大都会の空は明るくて、その向こうにあるはずの星々が霞んで見える。

 田舎にはなにもなくて、憧れてここへ来た。

 けどその逆に、田舎にあってここに無いものもあるんだと、最近気づかされることも多い。


「そうなんだ。礼司が住んでた場所の話、また聞かせてよ」


「うん、いいよ」


 駅の改札をくぐって、二人が向かう方向は真逆だった。

 花火の夜は俺の方が先に電車を降りたので、菜摘がどこの駅で降りたのかは、分らなかったんだけど。


「じゃあね礼司! またね~!」


「うん、またね」


 その場で手を振りながら、人の波の中で小さくなっていく背中を見送る。

 そして俺はまた、胸の奥がちょっぴり痛い気がしたんだ。



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